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門 真 神 社
大阪府門真市元町17-11
祭神--素盞鳴尊
付--真手神社・茨田真手御宿所跡
                                                      2020.03.18参詣

 京阪電鉄・西三莊駅の北東約250m、駅北側の道路を東へ、二つ目の角を左折、道なりに北進した右側(東側)に鎮座する。

※由緒
 頂いた「門真神社 由緒略記」よれば、
 「当神社は創建の年月日詳かならず。
 元南宮・中宮・北宮の三社ありて当社はその中宮なりしという(大阪府全志より)
 門真荘が発展して一~四番村が形成せられ、四番村の独立と共に元村の牛頭天王を移して、当社の創立となる。

 文禄3年(1594)片桐東市且元が検知ありし際より、社地四畝一歩を除地(免租地)とせり(大阪府全志より)

 門真三番村は、もとの真手御宿所の辺りに早くから産土神を有し、黄梅寺がその宮寺と称せしも、明治5年類中府の禁令(神社整理の一環らしいが詳細不明)により之を拡大改築するを許されず、依て三番村字宇治と仝小路は夫々分列(裂か)して、より近き神社に合祀することとなり、宇治は二番村の氏神(天神社)に、小路は四番村の当社へ、明治10年末社真手神社として合祀せらる(門真町誌より)
とある。

 当地の旧称・門真荘とは、室町時代の資料にみえる幕府直轄領・門真荘がはじまりといわれ、それが分割されて一番村から四番村ができた時に(年代不明)、四番村の何処かにあった牛頭天王社を現在地に移したのが当社の始まりというが詳細不詳。
 なお、明治22年(1889)に、江戸時代にあった門真一番上・門真一番下・門真二番・門真三番・門真四番・桑才の6村を統合して成立したのが門真村で、この辺りが現門真市(昭和38年・1963市制公布)の中枢という。
 また案内がいう元村が四番村内の字名かどうかは不祥だが、現地名・元町がこの元村(字名)によるとすれば、当社付近の何処かにあったと思われ(当社北の小路町は、三番村字小路をひきついだものらしい)、当社が“四番のお宮さん”と呼ばれるのは是によると思われる。
 ただ、その牛頭天王社の創建由緒・年代等は不明。


※祭神
   素盞鳴尊(スサノオ)
 今の祭神は素盞鳴尊となっているが、江戸時代までの祭神は、由緒略記に“元村の牛頭天王(ゴズテンノウ)を移して”とあることから行疫神・牛頭天王であって、それが明治初年の神仏分離によって仏教色が強いとして排斥されたことから、同じ神格をもつ素盞鳴尊に変えられたと思われる(京都祇園の八坂神社などと同じ)

※社殿等
 鳥居を入った境内正面に唐破風向拝を有する入母屋造・瓦葺きの拝殿が西面して建つ。


門真神社・境内 
   同・拝殿

 拝殿の奥、弊殿に続いて本殿が鎮座するが、外からは屋根が見えるだけで、見たところでは切妻造妻入り・銅板葺きと見える。
 ただ、拝殿内陣奥の本殿区画とおぼしき処に安置されている一間社春日造の社殿が当社の本殿で(下写真右)、外から見るそれは覆屋かと思われる。


同・本殿(屋根部分のみ) 
 
同・拝殿内陣(奥に本殿社殿あり)

[境内末社]
 由緒略記には、末社として
 ・真手神社 祭神:菅原道真公(俗に天神様と称す)
 ・稲荷神社 祭神:吉松稲荷大神
 ・楠神社   祭神:八大竜王
とある。

◎真手神社
 境内の北側(拝殿に向かって左側)、御輿庫の左に鎮座する小社で、由緒略記に「小路(三番村字小路)は四番村の当社に合祀」とあるのがこれ。
 棟門の奥に、千鳥破風を有する一間社流造・銅板葺きの社殿が南面して鎮座する。

 現在の祭神は菅原道真というが、由緒略記によれば、当社が門真神社境内に移った後に合祀された神であり、当社本来の祭神は、黄梅寺案内(下記)にいう野々宮大神と思われる。
 野々宮大神とは、伊勢斎宮が伊勢に赴く前に身を清める禊所・野宮(ノノミヤ)の祭神で、天照皇大神を指すという。


左:真手神社 右:御輿庫 

真手神社・棟門 

同・社殿

*真手神社旧鎮座地
 真手神社は明治23年に当境内に遷座したといわれ、その旧鎮座地は、現鎮座地(元町)の北約300mの堂山町(ドウヤママチ)の辺りで、今、そこには黄梅寺(黄梅禅寺ともいう)との古刹がある。

 黄梅寺の門前右手に「斎宮 茨田真手御宿所跡」(マツタマテミシュクショアト)との石標が立ち、傍らの案内には、
 「禅(曹洞)宗 真手山 黄梅禅寺
  当所付近は、古代真手庄と称された。
  斎宮が、伊勢神宮の任満ちてのち、禊ぎのため、淀川・大庭川を舟路にて難波往還の時、茨田真手御宿所にあてられた所である。
  継体天皇は、河内樟葉宮で即位、第二皇女荳角皇女(ササゲノヒメミコ)が第六代の斎宮(サイグウ)に卜定され、はじめて真手御宿所となった。(中略)

  当所に野々宮神を祀る真手神社があり、ながく当所に鎮座したが、明治23年に元町の門真神社境内に移された(のち菅公を合祀)
  中世、真手神社の宮寺として真手山黄梅寺が創建された。足利第13代将軍・義輝によって天文15年(1546)に創建、また畠山一族の小山梅巌の創建とも伝える」
とあり、
 Wikiprdiaによると、
 「三番村の産土神社は真手神社といい、茨田真手御宿所跡・黄梅寺の東隣りにあって黄梅寺を宮寺とする大社であったが、明治23年に門真神社の末社となった」
という。

*茨田真手御宿所跡
 黄梅寺HPには
 「黄梅寺は平安時代に伊勢に奉仕した斎宮・荳角皇女(ササゲノヒメミコ)が京へ帰る際に立ち寄ったと思われる茨田真手御宿所跡に位置し、付近からは平安時代と推測される土器も出土しています」
とある。

 伊勢斎宮(斎王ともいう)とは、天皇の代わりに伊勢に遣わされ伊勢神宮に仕えた未婚の皇女で(一代一人)、天皇の譲位あるいは逝去等により交替・帰京する際、伊勢を出た斎宮は最後に淀川を下って難波津で禊ぎをし、その後で京に入ったといわれ、江家次第(1111)の斎王帰京次第に
 ・六日 茨田真手御宿所に着く
 ・七日 禊所に向かう
とあるように、禊ぎをする前に当御宿所に立ち寄ったとある(禊ぎが難波津の何処で行われたかは不明)

 黄梅寺案内にいう荳角皇女とは、書紀・継体天皇条(6世紀前半頃)
 「次に息長真手王(オキナガノマテノオオキミ)の娘を麻績郎子(オミノイラツコ)といい、荳角皇女を生んだ。この人は伊勢皇神宮の斎宮をされた」
とある皇女で、6代目伊勢斎宮として伊勢に赴いたという(HPが荳角皇女を平安時代の人というのは間違い)

 しかし、初代斎宮・豊鋤入姫命(崇神朝)から9代酢香手姫皇女(用明朝)までは伝説上のそれであって、伊勢に赴いた斎宮として確実なのは天武朝の10代・大来皇女以降というのが一般の理解で(斎宮の最後は南北朝・後醍醐朝)、6代目の荳角皇女が斎宮として伊勢に赴いたかどうかは疑問で、したがって継体朝に茨田真手御宿所があったかどうかは不祥。
 御宿所は天武朝以降、斎宮派遣が定例化した後の造営かもしれない。

*黄梅寺(曹洞宗)
 茨田真手御宿所の跡地という黄梅寺について、当寺HPには
 「寺伝によれば、黄梅寺は天文15年(1546)に室町幕府13代将軍・足利義輝が創建したといわれています。
 一方、門真市史の西嶋家譜によれば、明応2年(1493)に自刃した室町幕府管領・畠山政長の次男・久俊が、母と共に黄檗寺に身を寄せていたと記されています。
 諸説あるものの、創建は15世紀末から16世紀初め(室町時代)と思われます」
とあり、入口に立つ寺標には
 「禅曹洞宗  茨田真手御宿所跡  黄梅寺」
とある。

 これによれば、当寺創建時には真手御宿所は既になくなっていたが、そこにあった真手神社の宮寺(神宮寺)として創建されたのが当寺となる。

 
御宿所跡・石標
 
黄梅寺・寺標

黄梅寺・正面
(右手の壁際に御宿所跡の石標が立つ) 

◎稲荷神社
  境内右手に鎮座する。

◎楠神社
  拝殿の向かって左の狭い区画に鎮座する小祠で、背後に注連縄を回したご神木(楠の古木)が聳える。

 
末社・稲荷神社
 
末社・楠神社
 
同・社殿
 
ご神木・楠木

[御旅所]
 門真市本町39

 門真神社の南約700m、神社前の道路を道なりに南へ進み東西に走る大通を渡った反対側にコンクリート造の鳥居が立つ。
 鳥居を入り、参道(旧河川を暗渠化した跡ともいう)を南へ進んだ処に、簡単な屋根に覆われて一間社流造・銅板葺きの小祠が鎮座する。
 鳥居の神額に「門真神社 御旅所」とあるだけで、案内等はない。
 この御旅所がどのように使われているかは不明たが、ネットによれば、秋祭りの折に(10月)、神社を出た御輿が当御旅所の間を往復するというが詳細不明。

 
御旅所・鳥居
 
御旅所・全景
 
同・社殿

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