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河北大神社
大阪府寝屋川市河北西町4-8
祭神--天照大神
                                                    2020.01.13参詣

 JR学研都市線・四条畷駅の西約1.4km、四条畷駅を西へ出て府道160号線を北へ、最初の信号を左折(西へ)、国道170号線(外環状線)を越えて約600mほど行った右手、民家に囲まれて鎮座する。
 社名は“カワキタ ダイジンジャ”と称する。

※由緒
 境内の案内(鉢かづぎ姫)には
 「河北(カワキタ)は元は河内屋北新田と呼ばれ、河内屋源七が宝永元年(1704)に新田開発を行って、宝永5年(1708)に完成させたものです。
 同時に河内屋源七は東大阪市日下町一帯も開拓しました。河内屋北新田に対して河内屋南新田と称しています。

 また、ここ河北大神社の祭神は天照大神で産土神として鎮座しますが、この地は元は開発にも従事した人々の朝夕の集散場所であったといわれています。
 “河北”発祥ともいえる当地に氏神を祀り、新しい村の繁栄を願った先人の声が聞こえるようです」

 また、大阪府神社庁第三支部HPには
 「当社、河北の里は東に生駒飯盛の峯を目の前にして、氏神様が祀られています。
 宝永5年(1708・江戸中期)に御祭神(天照皇大神)が祀られたと伝えられています。
 中世の荘園時代に、伊勢神宮の社領として全国的に御廚(ミクリヤ)が寄進されたときに祀られたと伝えられています」
とある。

 両資料を比べると、創建時期を江戸中期とするのは同じだが、その由緒として案内は新田開発に伴う産土神社とあり、HPは伊勢御厨の設置に伴う奉斎とあり、どちらが本来の姿かは判断できない。

 HPがいう御厨は、皇室および伊勢神宮・賀茂神社などの神社へ、供膳と供祭のために魚菜類を納めることを目的として設けられたもので(神の台所)、厨とは調理所を意味するが、10世紀以降、田畠を中心とする荘園と同質化したという。
 第三支部HPには、当地に伊勢神宮の御厨が寄進されたとあるが、管見のかぎりでは、当地に伊勢神宮の荘園(御厨)があったとする資料はみえない。
 また、御厨があったということは、新田開発以前から田畠が整備されていたということで、それと新田開発とは結びつかない。

 当社名・河北は、河内屋源七が開拓した河内屋北新田によるもので、地名・河北もそれによる地名とすれば、案内がいう宝永5年の新田開発に伴う神社創建というのが本来の由緒かと思われる。


※祭神
 祭神は天照大神というが、古代の天照大神は“私幣禁断”(シヘイキンダン)といって天皇以外の一般からの奉斎は禁止されていたが、中世になるとそれが崩れ、民間祭祀を受けいれる開かれた神へと変貌したといわれ、そんな風潮のなかで、当社も天照大神を祀ったのかもしれない。
 臆測すれば、当地に伊勢神宮御厨があったということから、天照大神を祀ったのかもしれないが、御厨の存在が実証されないかぎり、これはとれない。

 当社の創建が新田開発に伴って祀られた産土神(氏神)であったとしたら、その祭神を天照大神とするには違和感があり、本来は、農耕に必要な水をもたらす水神とみるのが順当であろうが、それを示唆する資料はない。


※社殿等
 道路北側に立つ2基の石灯篭の間を入り、少し入った処に2本の巨木が聳え、それに挟まれるように鳥居が立ち、その奥が境内。境内は狭い。
 参道入口に案内表示等はないが、入口に立つ二股の巨木が目印。


河北大神社・社頭 
 
同・巨木と鳥居
 
同・鳥居

 境内正面に、切妻造・瓦葺きの拝殿が南面して建ち、その右手、樹木に隠れるように境内社が鎮座する。


同・境内(左:拝殿、右:境内社) 

同・拝殿 
 
同・拝殿内陣

 拝殿背後、弊殿を介して切妻造・銅板葺きの本殿が建ち、中に一間社流造の社殿が鎮座している。

 
同・本殿
 
同・社殿(拝殿より)

 拝殿の右に、切妻造・銅板葺きの境内社が南面して建ち、中に一間社流造の社殿が鎮座している。
 ただ案内なく、社名・祭神名・鎮座由緒等は不明。

 
同・境内社
 
同・境内社社殿

 境内は民家に囲まれていて華やかさはないが、地域の氏神社として清掃等も行き届き、簡素ななかに凜とした雰囲気の漂う気持ちよい神社である。

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