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守 居 神 社
大阪府守口市土居町2-22
祭神--素盞鳴大神・賀茂別雷神
                                                      2020.03.18参詣

 京阪電鉄・土居市駅の北北西約200m、駅前より北へ延びる土居商店街を進んだ右側、店舗・民家に囲まれて鎮座する。

※由緒 
 社頭に掲げる「守居神社略記」(以下「略記」という)によれば、
 「当神社は醍醐天皇・延喜18年(918)9月19日、此の地に鎮座して、素盞鳴命・賀茂別雷神をお祀りしてあります。
 社記に、天道神(テンドウシン)・太歳神(タイサツシン)・歳殺神(サイセツシン)、また素盞鳴命・三輪明神・清瀧明神・日吉権現・新羅明神・三井神とも書いてあります。
 いづれも淀川流域の守護神として此の地に土居(土塁)を築き社殿を構えてお祀りされたのが創りで、地名を土居の庄と称し、昔は土居神社と称号されておりました。
 明治5年(1872)8月に守口町大字土居字田東(現在の滝井)の産土神社(祭神素盞鳴尊)を、また、明治40年(1907)10月に守口町大字守口字猿島(現在の桃町)の大隈神社(祭神:賀茂別雷神で、昔は渦神社と称していた)が合祀されてより、守口の総産土神となりました。(以下略)
とある。

 また、別の資料(以下「資料」という)には、
 「この神社は、社記によると、延喜18年淀川洪水のとき、西南石礫の淵で『我天道神也 我を祀れ』と振鈴(シンレイ)の声でお告げがあったので、“土を居いて”お祀りしたのが始まりと伝えられ、祭神は素盞鳴命(牛頭天王)で、三輪明神・日吉権現・新羅明神とも記されています。
 社名は、守口と土居の一文字を用いて守居と呼称されています。(以下略)

 また、大阪府全志(1922)には
 「当社は字西の丸にあり、素盞鳴尊を祀れり。
 社記によれば、延喜18年の秋淀川洪水溢れて田野巷里に漲り(ミナギリ)し時、村の坤位(西南)に始めて一の神体を得たり。
 依て假に之を凸所に鎮座しまいらせしもの即ち当社の起源にして、土居の村名も是れより起れり。
 後、神殿を営みて奉安し、土居神社と称せしが、後に現今の社名に改む。社名の守居は本地及び大守口の各頭字を採りたるものならん。
 明治5年村社に列し、同40年10月7日字田の東まの村社・産土神社(素盞鳴命)、大字守口字狼島の無格社・渦神社(別雷神)を合祀す。
 境内は360坪にして老松欹(ソバタ)ち公孫樹(イチョウ)茂れり。本殿の外に拝殿・土蔵を存す。末社に稲荷神社あり」
とある。

 これらの由緒に関連して、守口市史(資料編・1962)に、守居神社社記(1748、以下「社記」という)として
 「抑も当社牛頭天王三座鎮座の由来は、醍醐天皇の御宇・延喜18年戊寅の秋、霖雨大風により洪水溢れ、淀川は湖水と漲り、茨田野村里は鱺鰋(レイエン)の遊池と成る。数日を経て古宅地を求む。
 然るに当所坤(西南)に石礫の淵在り、夕に赤光四方に輝き、而して振鈴の声あり、夢に告げて云、我是天道神(テンドウシン)也、太歳神(タイサイシン)・歳殺神(サイセツシン)を伴ひて此地に来たり。誠に人民の害邪の災を救わんが為也。
 我 天竺にあっては摩多羅神(マタラシン)・金比羅神、大唐にあっては牛頭天王或は武塔天神、我朝にあっては素盞鳴尊・三輪明神或は清滝明神醍醐亦日吉権現・新羅明神三井 其外処々に垂下す。(以下、太歳神以下の説明は省略)
 その後、この神勅をうけて当地に仮の土居を築き祀り奉る。人呼んで土居天王と号す。延喜18年戊寅9月19日 (以下略)(漢文意訳・勝手読みあり)
との古文書がみえ、上記由緒は是によるものと思われる。


 これによれば、当社は
 ・延喜18年の淀川大洪水で被災した後、石礫の淵に神が顕現し、鈴を振るような声で『我は天道神也、人々の苦しみを救うために此の地にやってきた』と告げた
 ・これをうけて、村人が土居を築き神を祀ったのが当社の始まり
 ・明治5年に、近傍の産土神社(祭神:素盞鳴尊)を、同40年に大隈神社(祭神:賀茂別雷神)を合祀
 ・その時、地名・守口と土居の一字ずつをとって守居神社と改称
となるが、
 創建時の神マツリが如何なる形態だったのかは不祥。
 淀川の洪水記録(下記)からみると、洪水から一月余り後での奉祀であり、土居の上に仮設の神籬(ヒモロギ)を設けてのそれだったかと思われる。
 当社が今のような社殿を有する神社となった時期は不明だが、略記からみると遅くとも鎌倉時代以前には社殿が造営されていたと思われる。

 因みに、延喜18年の淀川大洪水について、日本紀略(1036頃)・延喜18年8月条に
 ・15日乙卯 未明の頃から風雨猛烈となり 樹木は折れ 家屋は破損した
 ・17日丁巳 暁、淀川の水が海のように溢れ 人は家屋と共に流されて死に 獣(牛馬)も多く溺れ死んだ
とあり(漢文意訳)、公的記録に残るほどの大洪水だったらしい。

 これらからみると、略記に、
 「当社の一番古い記録では、後宇多天皇・建治年間(1275--78・鎌倉時代)に当社で祈祷修法を行い『神威の高貴なること他に異にして、親しく横難中夭の危を救い給う。諸願満足すること幾千万という数を知らず』と記されてあり、往時より御神威の赫々たることが伺い知られます」
とある。
 ここで祈祷修法ということは、その頃の当社は神仏混淆の社寺で、祈願修法は僧侶の手で行われたことを示唆している。

 その後の経緯について、略記によれば
 ・後小松天皇・嘉慶年間(1387--89・北朝年号)
   この地方に兵乱起こり疫病流行。人々は殺生五辛を禁断し、当社に祈願して難を遁れる
 ・後花園天皇・寛正4年(1463)
   再び大流疫流行、嘉慶の例にならい悪事災難を除くため美花を作り祭祀を修した。この祭りを災祭ともいい現今の夏祭りにその行事を伝えている
 ・天文13年(1544)7月9日
   前代未聞の大洪水あり、大門鳥居流失し社殿宝殿流損したので、地方に寄進を仰いで社域を再興
   この時まで王城守護として北東向きであった神殿を南向きに改造したが、昔日の結構には及ばなかった
 ・昭和9年(1934)9月21日
   室戸台風により社域の惨状恐懼の至りとなったので、氏子崇敬者の寄進を仰いで境内地を拡張し、現今の社殿に造替、昭和16年(1931)10月遷座
という。


※祭神
 今の祭神は素盞鳴大神・賀茂別雷神(京都・賀茂別雷神社祭神)となっているが、社記によれば、この2神は明治になっての勧請であり、それ以前は別神が祀られていたかと思われる。

 その元祭神は不祥だが、案内にいう天道神以下の3神かと思われ、
 ・天道神(テンドウシン)
  陰陽道にいう方位神の一で、月毎に位置を変え、その月その方角に向かって事を起こせば万事吉という
 ・太歳神(タイサイシン)
  陰陽道にいう方位神(八将神)の一で、木星(歳星)の精とされ、万物の生育を司るとされる吉神
  その年の十二支の方位(2020年の干支は子で方位は北)にいて、一年間同じ方位にいるという。
 ・歳殺神(サイセツシン)
  陰陽道にいう方位神の一で、金星(太白星)の精とされ、殺気を司り万物を滅するとされる凶神
であることから、方位神である天道神が吉神・凶神を引きつれて顕現したということであろう。

 ただ社記に、「天道神は、大唐にあっては牛頭天王云々」とあるように、天道神は牛頭天王と異名同神ということから、あるいは、嘗ての当社は行疫神(疫病除けの神)・牛頭天王を祀っていたかとも思われ(社記には「牛頭天王三座」とある)
 その牛頭天王が素盞鳴尊と同体とされることから、明治初年の神仏分離に際して仏教色の強い牛頭天王が排されて素盞鳴尊に変更されたと思われ、当社主祭神は、天道神⇒牛頭天王⇒素盞鳴尊と変化したと思われる。

 また、三輪明神以下の神々は、
 ・三輪明神--奈良・三輪山の神(大物主神)が仏教と習合したもの
 ・清滝明神--京都伏見区の醍醐寺の守護神で竜神という
 ・日吉権現--比叡山の山岳信仰が天台宗と習合して生まれた神で、天台宗の守護神--山王権現ともいう
 ・新羅明神--滋賀・園城寺(三井寺)の守護神で、天台宗の僧・円珍が唐から勧請したという
で、中世以降の神仏習合・本地垂迹説の広がりのなかで生まれた神々を指す。

※社殿等
 商店街中程の右側に鳥居が立ち、境内に入る。


守居神社・鳥居 
 
同・境内 

 境内正面に御神燈を吊した〆鳥居が立ち、その奥に、大きな唐破風向拝を有する入母屋造・銅板葺きの拝殿が南西方に向いて建つ。

 
同・拝殿
 
同・拝殿向拝部
 
同・拝殿側面

 拝殿の背後、弊殿を介して三間社(?)流造・銅板葺きの本殿が鎮座するが、外から見えるのは側面のみで、社殿構造等は不詳。


同・本殿(側面) 
 
同・拝殿内陣(奥に本殿がみえる) 

◎境内社
 境内末社として
 ・塞(サイ)神社--境内左側に鎮座
 ・稲荷神社--境内左奥に鎮座(拝殿左に通路あり)
があるが、案内資料等なく鎮座由緒・祭神不明。

 
末社・塞神社鳥居
 
同・社殿
 
末社・稲荷神社への通路

同・稲荷神社鳥居 
 
同・社殿

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