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仁和寺氏神社
大阪府寝屋川市仁和寺本町4-11
祭神--菅原道真・伊弉諾尊・伊弉冉尊・藤原藤房
                                                     2019.12.19参詣

 京阪電鉄・寝屋川市駅の西南西約2.4km。駅北をの府道18号線を西へ、仁和寺交差点を右折して北へ入り、次の角を左に入った右側に鎮座する。
 社名は“ニンナジ ウジ”ではなく”ニワジ ウジ”と読む。

※由緒
 境内の案内には、
 「往古より、当社は白山権現を奉斎してきたが、応仁の乱(1467--77)後、この地方が男山八幡宮の社領となったため、八幡宮を境内に勧請した。
 その後、寛永10年(1633)領主永井氏の勧めで菅原道真をお迎えし、天満宮と名乗るようになった。
 延宝2年(1674、江戸前期末頃)、淀川堤が決壊して社殿が流された際、この地区の中央に再興された。

 昭和62年(1987)8月、不慮の災に罹わりましたが、畏くも御神体は御安泰であり、早速にも氏子崇敬者の格別の御奉賛を賜り、平成元年9月吉日竣工、同年同月23日~24日に遷座奉祝大祭を斎行」

 また、大阪府神社庁第三支部HPによれば、
 「当神社は、元からここに鎮座されたのではなく、延宝2年6月16日の淀川仁和寺堤防が決壊して社殿が流され、村の田畑は皆川砂をか冠ったもので、その上砂を村の中央に集めて耕地の復旧を図り、その砂山の地に新たに社殿を造営し、神様をお移ししたものである。
 元の鎮座地は、字本宮(モトミヤ)と称し、田圃の中に籬で囲った石碑が建っている。
 ここが元の氏神社の建っていた処である。その石碑には、『仁和寺氏神社御本地 代々能人敬神乃宮之跡』と刻まれている。そして傍らに小さな石の祠がある。

 旧社(以下、本宮という)の起源は、伝うるところによると、仁和寺庄に観音寺が建立されると同時に、本宮の地に建てられた白山権現であるとされている。
 元の産土神は今古宮と称して境内摂社に奉斎する白山権現(祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊)であった。

 寛永10年(1633)永井信濃守が当地方の領主となり、領内の産土神に菅原道真を祭ってより、当社の主神として天満宮・白山権現と称へることになった。

 明治5年、当社は村社に列せられたが、明治44年1月14日、隣村の佐太天神社(守口市佐太中町7丁目、当社の南西約400m)に合祀されて、表向きは佐太天神の御旅所となっていた。
 昭和になって間もなく、神様に戻ってもらう機運が湧き、昭和4年以降内務省に村を挙げて神社復旧運動を起こし、それが正式に復旧を許可されたのは太平洋戦争のさなか昭和18年(1933)7月16日付けであり、翌月の8月25日、盛大なる還幸祭を執り行い、長い間の村民の願いは達せられた」
とある。


 当社本宮と同時に建立されたという仁和寺庄の観音寺は、宇多天皇の皇子・敦実親王(アツミ、893--967)の建立という。
 敦実親王は臣籍降下して源氏の姓を賜り宇多源氏の祖といわれる人物で、天暦4年(950)に出家して仁和寺に入っているから、仁和寺の荘園であった当地での観音寺の建立、当社本宮の創建は出家以降逝去までの間(10世紀後半・平安中期)と思われる。

 ただ、寝屋川市誌(1966)には
 「興国3年(1342・南北朝時代)、仁和寺庄が京都花園妙心寺の菩提料所となり、その地頭職を継いだ同寺第二世翁宗弼(藤原藤房の後半生)が当地に観音寺を創建した」
とあり、時代・創健社ともに異なっている。

 このいずれが真なのか判断はできないが、藤原藤房が祭神として祀られていることからみると、南北朝時代の創建というのが史実かもしれない。

 これらによれば、当社は平安中期ころ白山権現として創建され、後に八幡宮・天満宮へと変遷したらしい。
 白山権現といえば、古く加賀・越前を中心として広まった白山信仰に関係する神社で、白山信仰の全国展開の中で当地にも入ったものと思われるが、当社に白山信仰が入った由縁は不明。
 ただ、当社創建が観音寺建立と同時期とすれば、白山神の本地仏が十一面観音菩薩であるから、これに関連して白山信仰が入ったのかもしれない。

 当社に菅原道真を勧請した永井信濃守とは永井信濃守尚政(1587--1668)を指すと思われる。
 永井家とは徳川秀忠に近侍した江戸初期の譜代大名で、尚政は老中を務め(1622--33)、辞任後京都淀藩で10万石を領したといわれ、当地方の領主となったのは老中辞任後のことであろう。
 なお、尚政は学問の神として菅原道真を深く崇敬していたようで、当地域一帯の各社に道真を勧請している。

 第三支部HPがいう“明治44年の佐太天神社への合併云々”については、復興に尽力された東光治氏の顕彰碑(境内にあり)に詳しく記されている。

※祭神
  菅原道真・伊弉諾尊・伊弉冉尊・藤原藤房

 *菅原道真
   江戸初期、領主・永井信濃守尚政の勧請によるもので、当社の主祭神とされているが本来の祭神ではない。

 *伊弉諾尊・伊弉冉尊
   嘗ての当社が白山権現と称していた頃の祭神らしいが、奉斎する由縁は不明(上記)
   なお、白山信仰の総本社・白山比咩神社(石川・白山市)の祭神は、菊理媛・伊弉諾尊・伊弉冉尊。

 *藤原藤房 (1295--?、万里小路藤房ともいう)
   南北朝時代、後醍醐天皇側近の公卿。元弘の変(1331)に天皇を奉じて笠置山に行在所を設けるなど倒幕活動に参画、笠置山陥落後捕らえられ常陸に流されたが、建武中興(1334)後、新政府に復帰したが志を得ず出仕を止めて出家したという人物という(広辞苑)
 これが祀られる由縁について、市誌には
 「観音寺が当社の宮寺となったとき、神に奉仕する住職が藤房を慕って位牌とともに、その守護仏を御霊代として本社にあわせ祀った」
とある。

※社殿等
 府道13号線・仁和寺交差点を北上し、次の角を左に入った北側奥に鳥居が立つが、入口に表示なく、気をつけないと見落とす恐れあり。

 民家(工場らしい)の間の通路を入った先に鳥居が立ち、灯篭が林立する参道が北へ延びている。
 ただ、境内には案内(石版)があるだけで、社務所等なく神主等不在(自治会の集会所があった)

 
仁和寺氏神社・入口

同・鳥居 

同・参道 

 境内正面に、入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して建ち、その背後に弊殿を介して本殿が鎮座する。


同・拝殿 
 
同・拝殿
 
同・社殿(左:拝殿・右:本殿)

 当社本殿は、入母屋造・瓦葺き・白壁の社殿で覆屋のようにみえる。
 中に本殿の社殿が鎮座するのかもしれないが、詳細不明。


同・本殿(左端) 
 
同・本殿(側面)

 社殿左に小さな植え込みがあり、中に自然石に『旧御神殿跡』と刻した石碑が立っている。
 旧御神殿が何を指すのかは不明だが、旧神殿跡というからには、古くは、この辺りに社殿があったのかもしれないが、案内等なく詳細不明。

 
社殿左の植え込み
 
旧御神殿跡・石碑

 なお、第三支部HPに
 ・当社は、元淀川の近くにありったが、延宝2年の洪水で社殿が流されたため、現在地に移った。
 ・元の社地は本宮と呼び、今小さな石祠が残っている。
とあり、管見したネット資料によれば、“当社の東を走る府道沿いに石祠がある”という。
 しかし、当社の東約550mほどを南北に走る府道15号線の鳥養仁和寺大橋の南袂付近を歩いても、それらしき遺構は見あたらなかった。

[付記]

 参道の途中に『仁和寺庄の古跡』との案内(鉢かづき姫)が立ち、そこには、
 「仁和寺は、『ニワジ』または『ニワイジ』と呼ばれています。
 この地名は、京都の仁和寺の所領であったことに由来すると考えられています。
 鎌倉時代初期に、後高倉院の生母であった七条院が京都仁和寺を管領(寺務を司る権利)したことによって、仁和寺庄も七条院領となり、のち地頭職(地頭としての権利)は室町院(暉子内親王)へ寄進され、北朝方の持明院統の所領となりました。
  (中略、南北朝時代から室町時代までの変革を記す)
 江戸時代の仁和寺村は、延宝2年(1674)と享和2年(1802)に二回の大洪水かあり、淀川の堤防が決壊しました。
 特に享和2年の決壊の時には、堤防が百五間(約190m)にわたって切れたため、浸水は遠く現在の八尾市や大阪市生野区・平野区まで及びました。俗に『仁和寺・占野切れ』といわれている大災害です。

 ここ、旧仁和寺村の氏神である仁和寺氏神社の創建は室町時代の初期と伝えられ、もとは白山権現社でしたが、寛永10年(1633)永井信濃守の支配に伴い天満宮となりました。
 延宝2年の堤防決壊時に社殿が流失してしまったため、現在の位置に移されました(寝屋川市)
とある。 

鉢かづき姫

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