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鶯 関 神 社
大阪府寝屋川市堀溝2-12
祭神--天照皇大神・菅原道真・野々宮大神
                                                 2019.12.12参詣

 京阪電鉄・萱島駅の南東約1.4km。駅南から寝屋川東岸沿いに南下し、猪鼻橋交差点を左折、国道163号線を東へ進み、2つ目の堀溝西信号を南に入ると、左手の民家の屋根越しにクスの巨木がみえる。
 社名・鶯関は“オウカン”と読む。

※由緒
 境内に何らの案内もないが、大阪府神社庁第三支部HP(以下、HPという)には、
 「堀溝の里は東に生駒飯盛の峯々を目の前にして、氏神様が祀られています。 
  奈良時代行基菩薩が開かれた奈良街道の交通の要衝であった堀溝の里に関所が設けられ、近年まで鶯の名所であったところから『鶯の関』とも謂われ、現在の堀溝の地域に鶯関神社として鎮座され、当社より北西約300mのところに『野々宮塚』があります。
 当鶯関神社は、元々京都嵯峨野の野々宮と同様・天照皇大神を御祭神として、天皇即位のとき伊勢神宮に奉仕された斎宮が立ち寄られた由緒ある神社であります。
 江戸初期、永井濃守尚政が領主であった時代、鶯の関所跡に野々宮から神社を移し、菅原道真を合わせ祀るようになったと伝えられています。
 その後天満宮と称し、現在の大念寺(寝屋川市堀溝・当社の東約180m)が旧跡地であるといわれています。
 藤原時代、康資王の母君が詠まれた歌集に
  我が思ふ こころも尽きぬ ゆく春を 越えずもとめよ うぐひすの関
とあります」
とあるが、由緒・創建時期等は記していない。


 HPによれば、当社は“旧堀溝の里にあった鶯の関の跡に鎮座する”というが、通常、鶯の関といえば、旧竹内街道(現国道166号線)の大阪府と奈良県の府県境・竹内峠を指し、現地にはHPがいう和歌を刻した鶯の里跡との石碑があるという。
 当地が鶯の名所であったことから、そこに設けられた関所を“鶯の関”と称したのかもしれないが、それを証する資料は見当たらない。

 また、HPは“伊勢神宮に奉仕された斎宮が立ち寄った由緒ある神社”というが、斎宮が伊勢に赴く際に河内国を経由したとの資料はない(京→瀬田→甲賀→垂水→鈴鹿→一志→伊勢が通常のルートという)
 ただ、天皇や斎宮の身内の死去によって帰京する際には、伊賀から都祁山を越えて奈良に入り、木津川を下って難波津に出て、河内国の茨田頓所(マツタトンショ)で禊を行った後に帰京したという(Wikipedia)

 茨田頓所があったという河内国茨田郡とは、今の守口市・門真市・寝屋川市(一部)・枚方市(一部)などを含む地域で、
 当社の北約300mの岡部川(寝屋川の支流)沿いに“野々宮旧跡”との一画があり(下記)、これが茨田頓所跡かもしれず、
 寝屋川市誌(1966)には、
 「神社の北方、岡部川の左岸堤防下に『野の宮』があり、当社の故地である。
 おそらく京都嵯峨の野宮と同様、天照皇大神を祭神として、悠紀・主基の両殿があったのであろう。
 天皇の即位のときに伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王が、任務を終えられて京都に帰られる時、伊勢から木津に出て、淀川を舟でくだり、さらに木屋・太間の間から南流していた淀川南流に入り、門真三番の真手御宿所に入られる途上にあって、石津の野々宮とともに斎宮が立ち寄られた処かと思われる。
 その後、南北朝時代になってからは、斎宮のお越しがなくなり、ここでは人家にも遠く不便だというので、鶯関の関所跡に神社を移したものであろう」
とある。

 なお、斎宮(後には斎王とも称した)とは、天皇の代わって伊勢大神に仕える未婚の皇女で、伊勢に赴く前、潔斎のため一年間逗留した処を野宮(ノノミヤ)という。
 野宮は、一代毎に異なった処に設けられたが、嵯峨天皇の御代(809--23)からは京都・嵯峨野に設けられ、後醍醐天皇の御代(1318--39)、斎宮がなくなった時点で廃絶したといわれ、
 今、京都市右京区嵯峨野々宮町にある野宮神社がその跡という。


※祭神
 境内に祭神名を記した案内はないが、上記HPには
  天照大神・菅原道真・野々宮大神
とある。

 天照大神と野々宮大神は、当社が伊勢斎宮立ち寄りの社ということからの奉祀であろう(京都嵯峨野の野宮神社の祭神は天照大神)
 また、菅原道真を祀る由縁は不祥だが、江戸初期の領主・永井信濃守尚政が菅公を篤く崇敬し、領内に菅公祭祀を広めたといわれることから、この永井氏一族による勧請であろう。


※社殿等
 堀溝西の信号を南へ入り、道なりに東へ進んだ右側(南)に鎮座するが、正面鳥居は道沿いに回り込んだ南側道路沿いに南面して立つ。
 境内の東側に小さな公園があり、そこからも境内に入れる。


鶯関神社・鳥居 
 
同・参道(奥が拝殿)

 南側の鳥居を入り、民家に挟まれた短い参道の突き当たりに、入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して建ち、
 その背後、弊殿に続く透塀の中に流造・瓦葺きの本殿が南面して鎮座するが、塀が高く全貌はみえない。

 拝殿内陣に掛かっている幔幕の紋が梅鉢(天満宮の神紋)であることからみると、今の当社は天照大神というより、学問の神・菅原道真を表にだしているようにみえる。


同・拝殿 
 
同・本殿
 また、社殿の廻りには寝屋川市の保存樹4本があり、社殿東側に聳えるクスの巨木2本について、案内には、
  ・北側--樹高約18.5m、幹廻約2.4m、樹齢250年
  ・南側--樹高約19.5m、幹廻約5.5m、樹齢500年
とあり(他の2本はイチョウとムクの木)
 南側(右写真の左側)の樹下には『鶯白龍大神』との石柱が立っている。 






クスの巨木2本(社殿東側) 

鶯白龍大神の石碑

◎野々宮(境内社)
 境内の北西隅、低いブロック塀に囲われた一画に一間社流造・トタン葺きの小社が東面して鎮座し、右前の石柱には『野々宮』とある。
 中に小祠2宇が鎮座しているが(暗くて撮影不能)、鎮座由緒・祭神等は不明。
 本殿祭祀の天照大神と野々宮大神を改めて祀ったのかもしれないが、それにしては粗末すぎるし、境内社として別に祀る由縁は不明。

 また、当社の北約300mほどの岡部川堤防下(南岸)の道路沿い、民家に囲まれて小さな広場があり、『野々宮旧跡』と刻した大きな石碑が北面して立っている。
 当地に伊勢斎宮が立ち寄った跡という伝承をもとに建立された石碑であろうが、上記したように、伊勢斎宮が立ち寄ったという確証はない。
 表面に「大阪府知事 黒田了一」とあるから昭和50年前後頃の建立かと思われるが、建立の経緯などは不明。


境内社・野々宮 
 
野々宮旧跡 

 なお、HPには“当社の北西約300mの野々宮塚がある”というが、岡部川沿いを歩いたところではそれらしき塚はみえず、野々宮塚とは野々宮旧跡を指すかと思われる(川沿いにある某所で「野々宮塚」と尋ねたところ、「野々宮塚とは聞かないが、たぶん野々宮旧跡のことでしょう」といわれ、場所を教えてもらった)

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