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佐太天神宮
大阪府守口市佐太中町7-16
祭神--菅原道真
                                                   2019.12.19参詣

 京阪電鉄・寝屋川市駅の西約2.7km、駅北を通る府道18号線を西へ、仁和寺交差点から府道13号線に入り、次の信号(金田町5)を右折(北へ)、道なりに進んだ右側に鎮座する(道路輻輳のため地図必要)
 ただし、当社の正面・表参道は西側の淀川沿いを走る国道1号線側となっている。

※由緒
 境内の案内には、
 「この神社は、菅原道真公が左遷で太宰府へ流される途中、荘園であった当地に滞在された時、自作の木像や自画像を残されたと伝えられています。
 道真公の死後50年の天暦年間(947--57)に、道真公を慕って祠を建てられたのが当社の創建であると伝えられ、室町期には大庭庄の惣社として崇敬されるようになりました。
 現在の社殿は、永井尚政・尚庸父子(淀藩主で当地一帯の領主)や淀屋辰五郎(大阪の豪商)等の手厚い保護や支援を受けて整備され、江戸時代初期の重要な建築物と言われています。(以下略)
とある。

 また一説によると、道真公が当地に滞在されたのは、宇多上皇の計らいにより無実が証明されることを期待して、都からの沙汰を待ったためともいわれ、この“沙汰”が転訛して地名の“佐太”になったともいう。

 また守口市史(1963)には
 「淀川を隔てた鳥養の対岸・占野荘(寝屋川市点野)が、天皇専用の御猟場となり、それに続く仁和寺庄が延暦4年(904)に京都御室に仁和寺が建立された時、その造営料所となり、更にその下流にあたる佐太(佐太旧一番・二番・五番)が道長の領地となったのは当然の成り行きであろう」
として、当地が菅公の領地であったといい、続けて
 「配流になった菅公は、京都を発して当地に来たりて白大夫邸に滞在して、その罪の無実なることを京都に祈願したが、遂に快報に接せず、伯母君との暇乞いのため道を南に転じて道明寺に向かった。
 去るに臨んで、自作の木像と自画像一面を留めたと伝えている。
 尚、この時、旅中の垢のついた妻楊枝を土に挿し、「わが身の無実の罪なることの証拠として、二葉の松になって栄えよ」と誓ったところ、程なく、これから芽を出して立派な松の木に成長した。
 その名を『あか松』(明かしの松)と称え、大坂夏の陣の前後まであったが、その後枯死した」
とある。

 これらの伝承は、無実の罪で左遷されたという道真を悼んで作られた伝承であって、学問の神としての道真信仰の篤さを示唆するものといえる。

 通説では、道真配流には陸路ではなく瀬戸内を通る海路が用いられたといわれることから、その経路に当たる淀川添いの当地(道真の所領地があったともいう)に滞在したのはありうることで、この辺りには配流途上の道真が一時留まったとする伝承が各所に残っている。

※祭神
  菅原道真公


※社殿等
 淀川沿いの国道1号線の東側に(信号あり)、当社表参道の入口があり、笠木部分が破損した一の鳥居の柱2本のみが立ち(笠木は参道脇に置いてある)、傍らに『佐太天神社』との社標が立ち、右側の石灯籠脇に赤い梅鉢紋(天神宮の神紋)の看板が上がっている。

 石灯籠と奉納提灯が立ち並ぶ参道の途中に二の鳥居が立ち、さらに参道が続く。


佐太天神宮・入口
(手前の道は国道1号線) 

同・参道
 

同・二の鳥居 

 参道の突き当たりに朱塗り・瓦葺きの西神門(四脚門)が建ち、境内に入る。
 なお、境内南側にも朱塗り・瓦葺きの南神門が建ち、南からも境内へ入れる。


同・西神門 
 
同・南神門 

 境内正面に入母屋造・瓦葺きの拝殿が西面して建つ。
 拝殿の屋根は二重になった一見仏殿を思わせる建物で、上の屋根に唐破風が、下の屋根に向拝が付くという珍しい構造となっている。

 拝殿内陣の上部に十数枚の絵が並んでいる。
 当社案内には
  「当社には、室町時代・文安3年(1446)の箱書きのある『天神縁起絵巻』6巻のほか・・・が奉納されている」
とあり、この絵は縁起絵巻を写したものと思われるが、雑然と並んでいてよくわからない。


同・拝殿 
 
同・拝殿
 
同・拝殿内陣

 当社社殿は、西から拝殿と弊殿が連なり、それに続いた朱塗りの柵の中に、切妻造妻入り・銅板葺きの本殿が鎮座している。
 ただ、外からみえるのは側面と背面のみで、正面は見えない(あるいは本殿を納めた覆屋かもしれない)

 
同・社殿(左から拝殿・弊殿・本殿)

同・本殿(側面) 
 
同・本殿(背面)

◎境内社
*佐太戎神社
  本殿の左に南面して鎮座するエビス社で、正面向かって右前に大鯛を抱いたエビス像が座っている。
  祭神--戎太神 (第三支部HPには、続けて告文天満宮・火乃迦具土神とあるが、これが祭神かどうかは不明)
        通常、エビス神という場合、蛭児神か事代主神のいずれかを指すが、当社の戎大神がどちらなのかは不明。
 境内社とはいっても、唐破風・千鳥破風を有する堂々たる社殿で、エビス信仰の篤さか偲ばれる。

 
佐太戎神社
 
同・正面

*白大夫社
 境内に入ってすぐの左手に鎮座する小社
  祭神--白大夫之命(シラタユウ・ハクタユウ)
 白大夫とは、浄瑠璃・菅原伝授手習鑑に登場する人物で、菅公に仕え、その死後もその霊を守護した忠僕という。

 ただ、守口市史には、
 「菅公の家臣・白大夫が、菅公の領地である佐太庄を支配していたと伝えられている」
とあり、菅公が配流の途中で滞在したのは、自分の領地の支配人・白大夫の屋形だったともいう。
 忠僕と領地の支配人では多少ニュアンスが異なるが、いずれにしても菅公に仕えた忠実な家臣ということから小社を設けて祀られているのであろう。

*稲荷神社
 参道の途中の北側に鎮座する小祠
  祭神--宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)・・・穀物の神

*愛宕社
 参道の途中、稲荷社の西に鎮座する小祠
  祭神--火産霊神(ホムスヒ)・・・火の神

 なお、一の鳥居から少し進んだ参道北側に 御旅所 との小祠がある。


白大夫社 
 
稲荷社
 
愛宕社
 
御旅所

◎境内東側(社殿背後)
*菅公水鏡の池
 社殿の背後に水の涸れた池があり、池中の島に「菅公 水鏡池」との石碑が立つ。
 案内によれば、「菅公滞在の折、この池に自分の姿を映して自画像を描いた」との伝承があるという。

*筆塚 
 池の左にある石碑で、
 その前に「使用ずみの筆は、この納所に納めてください。お祓いしてから焼納します」との立札が立つ。

*蕪村歌碑
 池の右にある石碑で、「窓の灯や 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな 蕪村」とあるが、達筆で読みづらい。
 資料では、“蕪村が丹波から故郷・毛馬に帰る途中、時雨降る淀川の夜舟からみた佐太村の情景”という。


菅公水鏡の池 
 
水鏡池の碑

筆 塚 
 
蕪村歌碑

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