トップページへ戻る

天 神 社
大阪府門真市月出町22-2
祭神--少彦名神
相殿--菅原道真
                                                      2020.06.09参詣

 京阪電鉄・門真市駅から発する大阪モノレール・大日駅の南南東約550m、大日駅からモノレール沿いに南下した東側、民家に囲まれた中に鎮座する。

 社名は通称・“テンジンジャ”だが、頂いた略史に、「天神とは元々アマツカミのことで、天満宮(菅原道真)が雷信仰と関わったことから“雷”=“天”と混同され、“天神”=“天満宮”とみられるようになりました」とあるように天神は天満(菅原道真)とは無関係で、当社も“アマツカミノヤシロ”と読むべきであろう。

※由緒
 頂いた天神社略史には
 「当神社の創建年代は詳かではありませんが、この地は古くは伊勢斎宮帰路の道筋に近く、その創建は相当古い時代であるとされています。
 主祭神は少彦名命で、相殿には菅原道真公が祭られています。公は寛永年間、永井信濃守が領主の頃に祀られたもので、学問技芸や立身出世の神様としてよく知られています。

 主祭神の少彦名命は、古事記によると、大国主神と協力されて国土経営に尽力されました。
 また、医薬医療の神・温泉の神として 名高く、大坂道修町の神農祭や全国温泉街の温泉神社に必ずお祀りされているのがこの神様です。
 さらには“まじないの神”とも云われ、そのマジナイにより不思議とできものが消えたなどの言い伝えにより、ガン封じの神とも呼ばれています。
 北河内地域では此処天神社のみが少彦名命をお祀りしています。
 さらに、少彦名命は人形供養で有名な和歌山県淡島神社(粟島)の御祭神であることから、天神社には多くの方々かお雛さんやお人形を納めにこられます。

 天神社の名称は、よく天神社つまり天満宮の分家などと勘違いされていますが、直接的な関係はありません」
とある。


 伊勢斎宮(斎王ともいう)とは、天皇の命をうけて(卜定により指名されたという)伊勢に赴き天照大神に仕えた未婚の内親王を指す。
 記紀では崇神朝の豊鋤入姫を以て初代斎宮とするが、以降、用明朝の9代斎宮(酢香手姫)までは伊勢に赴いたという確証のない伝承的な斎王といわれ、これが制度化されたのは天武朝の大来皇女(675)からで、その後、ほぼ天皇一代に斎宮一人が任じられ、南北朝時代の後醍醐朝を以て最後(祥子皇女・1333)となったという。

 案内がいう伊勢斎宮帰路とは、天皇の代替わり等によって辞任した斎宮が帰京する際の道筋のことで、江家次第(12世紀初頭)によれば、
 ・天皇譲位の時は、往路と同じ経路(近江路)を通って帰るが、
 ・天皇や身内の死去にともなう解任の際は、伊勢から伊賀路を通って大和に入り、木津川を下って難波津に出て、河内国の茨田真手御宿所で禊ぎを行った後帰京した
とある。

 ここにいう茨田真手御宿所とは、当社の南西約400mほどにある黄梅寺(曹洞宗)がその跡といわれ、今、寺の門前に『斎宮 茨田真手御宿所跡』との石柱が立ち、傍らの案内には
 ・この付近は古代真手庄と称された。
 ・斎宮が伊勢神宮の任満ちてのち、禊ぎのために淀川・大庭川を舟路にて帰任往還の時、茨田真手御宿所にあてられた所である
 ・当所には、古くから野々宮神(斎宮を指す)を祀る真手神社が鎮座していたが、明治23年(1890)に元町の門真神社境内に移された
 ・天文15年(1546)、真手神社の宮寺として創建されたのが真手山黄梅寺である
とある(別稿・門真神社参照)


黄梅寺正面 
 
茨田真手御宿所跡碑

 案内は、伊勢斎宮帰路(真手御宿所跡 )に近いことを理由に、当社の創建時期を相当古い時代と推測しているが、御宿舎と当社との関係は不明であり、これを以て当社創建時期を云々するには疑問がある。

※祭神
  主祭神--少彦名神(スクナヒコナ)
  相殿神--菅原道真

 少彦名神とは、大己貴神(大国主神)が出雲の五十狭々(イササ)の浜で食事をされようとした時、海上からヤマカガミの皮で作った小舟に乗り、ミソサザイの羽で作った衣を着て現れた神で、父神・タカミムスヒの指の間からこぼれ落ちた小さな神でという(書記)。 その後、2神相携えて農耕・医療などに努め国造りを進めたといわれ、国造りが略終わった時点で、淡島で粟茎にのぼり弾かれて常世国に渡ったという。(米子市には命が粟茎に弾かれて常世国に渡ったとの伝承を伝える粟島神社がある)

 当社が少彦名を主祭神とするのは、その医療神・穀神として神格からかと思われるが、これを祀る由縁ははっきりしない。

 相殿神・菅原道真を勧請したという領主・永井信濃守とは、江戸初期、2代将軍秀忠に近侍した尚政(1587--1668、1622--33の間老中に任じられている)を初代とする譜代大名(淀藩10万石)で、当地一帯(茨田・讃良・若江郡の一部、約2万石)を拝領したという。
 永井家は尚政以来歴代菅原道真を崇敬し、領内の各神社に菅公を勧請したといわれ、当社もその一社であろう。


※社殿等

 当社は、大阪モノレール・門真市駅と大日駅の中程の東側に鎮座し、廻りには民家が密集している。

 モノレール沿い道路の東側民家(ガレージか)の壁に、蜜柑色に『天神社』と白抜きした案内表示があり
(右写真)
、そこに書かれている道順とおりに進めば神社に達するが、やや紛らわしい。

 

 小路沿い北側・低い玉垣に囲われた中が境内で、正面中央に石製鳥居が立ち、境内正面に拝殿が、右に社務所がある。


天神社・社頭 
 
同・鳥居
 
同・境内(右は社務所)

 南面する拝殿は入母屋造・瓦葺きで堂々としている。
 拝殿の奥に弊殿を介して本殿が続くが、外から見える本殿建物は覆屋で、中に本殿となる社殿が鎮座すると思われる。
 ただ、それが如何なる建築様式の社殿かは不明。


同・拝殿 
 
同・本殿

◎境内社
 本殿の右に鳥居が立ち、その奥に末社2社:松高稲荷社(南面)・白滿社(シラミツシャ・東面)が、
 また、左奥に末社1社:松吉稲荷社(南面)が鎮座する。
 松高・松吉の両社は社名の通りの稲荷社だが、白滿社の案内には「白滿神社(龍神さん)」とあり、水神かと思われる。

       

*境内左隅・松吉稲荷社の右に、一対の狛犬に挟まれて「神社」と刻した石の扁額が置かれている。
  “”とは“天”の変体文字で、社頭の鳥居に掲げられていた古い神額かと思われる。


旧神額か 
   
天の変体文字

トップページへ戻る