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鞆呂岐神社
大阪府寝屋川市木屋町10-25
祭神--天照皇大神・豊受大神・住吉大神・息長足姫神・春日明神・蛭子大神
                                                  2020.01.06参詣

 京阪電鉄・香里園駅の西北西約1.2km、駅の200mほど北を東西に走る府道148号線を西へ約1kmほど行った北側に鎮座する。
 社名は“トモロギ”と称する。
 なお、香里園駅の南東方にも友呂岐(トモロギ)と称する神社があるが、由緒・祭神等からみて当社とは無関係らしい。

※由緒
 境内に案内なし。
 大阪府神社庁第三支部HPに、
 「当社の創建は、社伝では奈良朝末期の淳和天皇の天長8年(831)、天皇の近侍・藤原保則卿が、従者を伴い淀川堤を逍遙せられ、翌年に東赤井堤南御供堤を築き云々とあり、清和天皇の貞観3年(861)、地元有志によって神社を建立勧請したとある。

 三島郡島本町広瀬鎮座の『水無瀬神宮』より社殿を頂いたという由緒ある神社で、屋根瓦に天皇菊紋(16紋)が復元されています。・・・明治5年(1872)に村社に列せられ、・・・」

 また大阪府全志(1922)
 「鞆呂岐神社は字新にあり。天照皇大神・春日大神・住吉大神・稲荷大神・恵比須大神を祀れり。
 清和天皇・貞観3年(863)頃の勧請ならんといふ。往昔から祭典に妙齢の処女をして薦巻飯を供進せしむる式ありしが、寛政5年(1464)の頃より里正をして当らしめ、明治後は氏子総代その任に当りて今に至る」

 寝屋川市史には
 「鞆呂岐神社は二十用水の樋門のある村の氏神で、昔から崇敬され、用水関係の村から寄進された石灯籠もある。 
  明治初年に神社合併が奨励されたときにも、多くの村々が神社合併を行うなかで、木屋村は基本財産をつくり一村でもって神社を維持してきた」(未確認)
とある。


 社名・鞆呂岐の鞆とは、弓を射るとき、左手首に付け、弦が釧(クシロ)などに触れるのを防ぐ革製の防具(広辞苑)をいうが、当社が如何なる由縁で鞆呂岐と称するのかは不明。

 当社創建にかかわるという藤原保則(ヤスノリ・825--95)とは、藤原南家系の公卿で(最終位階:従四位上)、平安前期の清和・陽成・光孝・宇多天皇に仕えたという(Wikipedia)
 社伝には、淳和天皇・天長8年、天皇の近侍・藤原保則とあるが、天長8年は保則6歳の時で、6歳の幼児が天皇近侍というのは年齢的に平仄が合わず、上記社伝は、それらのことを確認せずに作られたものであることを示している。

 天長9年に築かれたという東赤井堤・南御供堤のうち東赤井堤とは、寝屋川市香里西之町と枚方市南中振の間に流れていた旧赤井川の堤防を指すと思われるが(文化4年-1807-に堤防が切れて大洪水があったという)、赤井川が流入していた淀川の川床が高くなって堤防の役目がはたせなくなり、今は埋め立てられて道路となっている。
 寝屋川市と枚方市の境界となっている道路で、当社の北約200mを走る東西道路が旧赤井川の跡と思われる。

 南御供堤については資料見あたらず不明。御供との名称からみて、茨田堤築造時の人身御供伝承(書紀・仁徳11年条)に類するものがあったのかもしれない。

 寝屋川市史がいう二十用水とは、天正末から文禄3年(1594)にかけて豊臣秀吉が築いた文禄堤によって淀川分水路が断たれたため、木屋町の堤防に取水管を入れて取水し灌漑用水としたもので、最初は友呂岐庄6村の利用だったが次第に利用する村が増え、最終的には20村になったことから二十用水と称した灌漑用水をいう。
 (文禄堤--秀吉が枚方から大坂長柄までの淀川左岸沿いに造ったとされる堤防道、全長27km)

 上記のように、当社の創建由緒は不祥だが、
 ・当社の西約750mほどに現淀川が流れていることからみて、嘗ての当地一帯は旧淀川の氾濫域だったと思われること
 ・当社境内に「茨田蛇の池跡」との史跡があり、池の主の蛇(竜神)を祀ったとの伝承があること(下記)
等からみて、淀川の流路安定と氾濫防止、及び農業用水の安定供給によってもたらされる五穀豊穣を願って造営されたのが当社本来の姿かもしれない。

 当社の創建年次について、境内の祭神案内及び大阪府全志には「清和天皇・貞観3年(861・平安前期)」とあるが、傍証となる資料はない。


※祭神
 境内に掲げる案内には、
 「六社大明神
  天照皇大神・豊受大神・住吉大神・息長足姫神(神功皇后)・春日大神(天児屋根命)・蛭子大神(恵比寿明神)
  鞆呂岐神社は、清和天皇の貞観3年(861)に建立された古いりっぱな神社です」
とある。

 当社祭神については、古来、幾度かの変遷があったようで、寝屋川市誌(昭和41年・1966)・大阪府全志(大正11年・1922)を参照としてまとめると次表のようになる。

享保8年(1722・江戸中期)古文書  天照大神  蔵王権現  住吉大明神  稲荷大明神  春日大明神  恵比須 
明治30年(1897)氏神由緒書上帳  天照皇大神  安閑天皇  住吉三筒男命  倉稲魂命  天児屋根命  事代主命 
社記(年代不詳、明治30年頃か)  天照皇大神  豊受大神  住吉三社大神  息長足姫神  天児屋根命   蛭子大神
大阪府全志(大正11年・1922)  天照皇大神    住吉大神  稲荷大神  春日大神   恵比須大神
現 在 天照皇大神  豊受大神  住吉大神  息長足姫神  春日大神   蛭子大神

 注--稲荷大神は、独立して末社に祀られたことから、神功皇后に変更
      蔵王権現は、仏教色が強いとして除かれ、豊受大神に変更
      安閑天皇を祀った由縁、府全志が5柱である由縁は不明
      (この表は、現在の祭神表記順をもとに、各資料表記の順序を入れ替えている)
 これをみると、稲荷大明神が神功皇后に、蔵王権現が豊受大神に変わった以外は、神名表記は異なるものの同じ神を祀っているといえる。

 なお、境内奥には「茨田蛇の池跡」との史跡があり、この池主の蛇(竜神)を祀ったとの伝承があり(下記)、当社本来の祭神はこの竜神=水神ではなかったかと思われる。


※社殿等
 府道148号線に面して一の鳥居が立ち、民家に挟まれた参道を北へ入った先に二の鳥居が立ち、境内に入る。

 
鞆呂岐神社・一の鳥居

同・参道 
 
同・二の鳥居

 境内正面に、入母屋造・向拝付き・瓦葺きの拝殿が南面して建つ。


同・境内 
 
同・拝殿

同・拝殿(側面) 

 拝殿背後左右に伸びる透塀に囲まれたなかに本殿が鎮座するが、外から見えるのは本殿社殿を覆う覆屋で、
 その中に、三間社流造・檜皮葺きとおぼしき本殿が南面して鎮座する。
 寄進の鳥居前の案内には、「市内でも珍しい桃山文化の流れを伝える美しい彩色のある流造で・・・」とあるが、狭い格子の隙間から覗けるだけで社殿全体は見えない。

 
同・本殿覆屋
 
同・本殿(屋根部分)

同・本殿(正面階段部分) 

◎寄進の鳥居
 境内の奥に石垣を積んで一段と高くなった処があり、その中央正面に小ぶりの鳥居1基が立つ。
 『寄進の鳥居』と呼ばれるもので、傍らの案内には、
 「境内奥の奥宮の社の前には、『寄進の鳥居』と呼ばれる鳥居があります。
 この鳥居は、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の一人、村松喜兵衛秀直の4代目の子孫が寄進したといわれます。
 事件後、縁者は捕らえられ、秀直の子・政右衛門は伊豆大島に配流されますが、4代将軍家綱の法要を機に赦免されたので、その後、木屋村に移り住んだようです。
 鳥居には、『播州赤穂城主浅野長矩家中四十七人之内 村松喜兵衛秀直四代之孫 村松喜兵衛源尚次』と刻まれています」
とある。


寄進の鳥居と奥宮正面 

寄進の鳥居 
 
刻銘

 寄進の鳥居の背後の高所はちょっとした疎林となっており、その右奥に奥宮が鎮座し、中には一間社流造の社殿が納まっている。
 社号・祭神等の案内はないが、掲げられた神紋及び幔幕の紋が「三つ巴」であることから、八幡宮かと思われる。

 
奥宮全景(右側部分)
 
奥 宮
 
奥宮・社殿

 境内左奥・本殿の左に、末社・稲荷神社が南面して鎮座する。

 嘗ては本殿に祀られていたが、神功皇后に替えるために末社へ移されたというのが是であろう。




稲荷神社・鳥居 

同・社殿 

◎茨田蛇の池跡
 境内奥・奥宮の左に『史跡 茨田蛇の池跡』との石碑が立ち、その側面には
 「茨田蛇の池は、昔は赤井堤防までの一帯にある大きな池であった。
 昭和51年2月、境内整備のため氏子460数名の浄財で石垣の工事を施工。
 その時、残っていた池を埋め立てたので、後世に伝えため、この碑を残す。昭和51年11月
とある。
 今、石碑の背後一帯に広がっている田畑が、嘗ての蛇の池を埋め立てて造られた農地であろう。


茨田蛇の池跡の碑
(石灯篭の左、右は奥宮社殿) 

茨田蛇の池跡の碑

石碑背後に広がる田畑
(嘗ての蛇池跡)

 茨田蛇の池は、下地図(左、明治19年測量、資料転写)に見るように相当大きな池だったようで、現在の地形に被せると(下地図・右)、北は旧赤井川堤防の辺り、東は当社の辺り、西は国道170号線を越えて淀川左岸堤防近くまでの範囲にあたる。


茨田蛇の池(明治19年測量) 
 
同左(現在地形との関係)

 この茨田蛇の池について
*寝屋川市誌(昭和41年・1966)には
 「奥宮の後方は、今わずかな池を残すだけの田圃になっているが、もとは赤井堤防の辺りまで一帯に大きな池があった。
 この池の主は、大きなヘビで奥宮の御神体だといわれている」

 また、寝屋川市HP「木屋(コヤ)の竜神さま」には(長文のため要点抄記)
 ・この池は、神社のすぐ裏から赤井堤防まで続く大きな池で、西は淀川の堤まで、東は村はずれまで続いていた
 ・池には一面に丈の高い葦が生え、鳥がさえずり、多くの魚たちが泳ぎ回り、この池に住む竜神さまは、「こんな住みよい池は、またとあるまい」と思っていた。
 ・ところが、時代を経ると、あたりに人家が増え、田圃がひらけ、池も小さくなって、竜神さまの食物も少なくなって困ってしまった
 ・そこで竜神さまは、悪いこととは知りながら周りの田圃に稔った稲穂を頂戴することにしたら、農民たちは「困った 困った」と騒ぎ始め、どうすべきか相談するようになった
 ・ある日、目を覚ました竜神さまが池を泳いで一周すると、岸辺に置かれた御幣を結びつけた桟俵(サンダワラ、米俵の両端にある藁製の蓋)の上に、薦(コモ)に巻いたご飯(こもまきご飯)が置かれ、美味しそうな匂いが立ち昇っていた
 ・お腹が空いていた竜神さまは、早速それを食べるとお腹がいっぱいになり、それからは3っ日たっても10日たってもお腹が空かず、稲穂を頂戴しなくとものんびり暮らせるようになった
 ・半年経った頃、また竜神さまのお腹が空いてきた
 ・その時、前と同じように、池の畔の御幣をつけた桟俵の上に「こもまきご飯」が置かれていたので、竜神さまは喜んでそれを食べて満腹になった
 ・それからは、廻りの稲穂は竜神さまに食べられることなく豊作が続き、旱魃で雨が欲しいときには、竜神さまにお願いすると雨を降らせてくれるようになった
 ・農民たちは、「豊作が続くのは竜神さまのおかげだ」としてお宮さんを造り、お祭りをしたあと「こもまきご飯」を竜神さまにお供えするようになった(今に伝わるヒトミ祭の始まり)

*市誌には
 「池の主である大きなヘビは、遠く大和境の田原辺りまで出没したと伝えられ、人を害するのを恐れて、人身御供の代わりに
ヒトミ祭のような奇習が生まれたものと思われる」
とある。

 ヒトミ祭について、市誌には
 「木屋では毎年10月17日の氏神の祭礼に、ヒトミ祭り(人身祭り?、人身供養の意か)といって、米の粉を水でとき、ツバキの葉の上にのせてヒナダ(家の水洗場)に供える。
 もっと念を入れたものでは、なま団子を人の形に作り、コモ巻の蒸し飯をツバキの葉にのせて祭る」
とあり、府全志が“往古より、祭典に妙齢の処女をして薦巻飯を供進せしむる式ありしが・・・”というのは是にあたる。

◎赤井提記念碑
 旧蛇池の北を画していた赤井川は、いま埋め立てられて道路となっているが、それを西へ延ばした淀川左岸堤防の裾に『赤井提記念碑』との石碑が、淀川堤防に面して立っている。
 高さ2m強程度の石碑で、淀川に面した側に建立経緯が刻してあるようが、上部の『赤井提記念碑』の文字がかろうじて読める程度で、本文の判読は不能。
 ネット資料によれば、明治18年(1885)の淀川大洪水・枚方切れのとき赤井堤防も決壊、後に友呂岐村の手で復旧、翌年大阪府知事により建立された記念碑というが、他に資料みあたらず詳細不詳。


赤井提記念碑・全景
(淀川堤防側より) 
 
赤井提記念碑

 
同・赤井提記念碑の刻銘

 なお、旧赤井川跡は今幅3mほどの道路となり、東側部分は両側に民家が建ち並んでいるが、西寄りの部分には未だ田畠が残っている。
 道路が各所で蛇行している処に川跡の面影はあるものの、ここが川だったという痕跡はみえない。

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