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友呂岐神社
大阪府寝屋川市香里本通町19-13
祭神--誉田別尊(応神天皇)・菅原大神・茨田連袗子
                                                    2020.01.06参詣

 京阪電鉄・香里園駅の南東約400m、駅西の府道21号線を南下、二つ目の信号を過ぎた右側(西側)にある“日本キリスト教会 香里園教会”の向かい側(東側)の辻を東に入った突き当たりに鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
 「当社は、康生2年(1456)後土御門天皇北ノ小路新邸をこの地に造営し、南に鎮護神として八幡宮を祀り、北に南無阿弥堂の伽藍を建設せられたと古書にあります。
 その後、畠山義就(ヨシヒロ)と畠山政長(マサナガ)はこの地で戦い、兵火の為に社殿は焼失したが、この八幡宮が当社の始めであります。
 その地に小社を建て、氏神として祀っていたが又も兵火のため焼失した。
 天正5年(1577)8月、この地の人々は社殿を再興し氏神として崇拝し、近隣の人々は祈願所として諸々の願い事に参詣していたという。
 寛永年間(1624--44)に改築し元禄初年(1688頃)に修築、昭和49年(1974)に改築していますが、御本殿は古色豊かに色彩を止め時代を物語っています」

 境内の案内(石版)には
 「友呂岐は鞆呂岐とも書き、古代から皇室の荘園でした。
 御祭神の応神天皇(3・4世紀)は別名・大鞆別命(オオトモワケ)と申し上げ、鞆(トモ)とは天皇の立派なお姿の形容、呂岐とは神を表す語で、トモロギの語源が偲ばれます。
 この地は天皇の皇子・仁徳天皇が茨田の屯倉(マムタノミヤケ)を置かれた所で、太間の袗子(タイマノコロモコ)はその時の伝承です。
 ここは皇室の別荘が営まれたところで、御所山とも呼ばれます。 
 また、菅原道真公左遷の時の通路にあたり公を祀る神社が多く、公を祀った三井・田井・太間の各神社を合祀しています」

 寝屋川市誌(1966)には
 「もと八幡神社と称し、郡村の産土神であった。妙法権現・妙通権現・八幡宮の三社を合併したものといわれている。
 明治43年8月2日、大字三井字若宮の村社・氏神社(祭神菅原道真)を合祭して今の社名に改め、同年11月29日さらに大字太間字東の村社・菅原神社を合祭した」
とある。


 栞によれば、当社は康生2年・後土御門天皇によって創建された八幡宮が始まりという。
 しかし、後土御門天皇(1442--1500・応仁の乱の最中)の在位期間は寛政5年(1464)から明応9年(1500)であって、HPがいう康生2年は年齢14歳であて未だ即位はしていない。
 また、この地に北ノ小路新廷造営というが、一般にいわれる北ノ小路邸とは、足利義政の妻・日野富子の館であって、後土御門天皇も応仁の乱(1467--77)の兵乱を避けて一時滞在したというが、その地は当地ではなく京都室町にあったという。

 これからみて、康生2年後土御門天皇云々というのには疑問がある。

 続く畠山義就と同政長の戦いとは畠山家の家督を巡る争いで(畠山家は河内を本拠とする大名で、二人は従兄弟)、それが足利将軍・有力大名等を巻き込んての応仁の乱(1467--77)へと発展した端緒ともなる争いで、河内国一帯は応仁の乱前後を含めて両者争乱の場となっていることから、当地もそれに巻き込まれたと思われるが、何時頃如何なる戦いがあったかは不祥。


 当社創建時は八幡宮であったといわれ、栞によれば、
 「明治43年(1909)、元の若山神社(三井神社)・元の二本松神社(田井神社)・元の太間(タイマ)神社を八幡神社に合祀し(明治末期の神社統廃合令による合祀であろう)、この地の地名をとって友呂岐神社と改称し現在に至っている」
という。

*若山神社(三井神社・三井氏神社ともいう)
 栞には
 「元の若山神社は、延喜元年(901)菅公が左遷されるとき、此の地を通過の折三井本法寺(本厳寺)を宿舎として寺僧と親交厚く、菅公が筑紫で崩御し給いしを知り、この地の人と議り壮麗な社殿を造営して若山に祀り氏神とした。(以下略)
 寝屋川市誌には
 「三井氏神社 
  道真左遷の時、この地の民家に宿った縁により、没後、当地の真言宗本法寺の僧がその神霊を字若山に勧請し、三井他七ヶ村の寄財で壮麗な社殿を造り産土神とした」
とある。

*二本松神社(田井神社ともいう)
 栞には
 「菅公左遷の時この地を通過の折、手植えの松が記念となり、樹下に一社を建て菅公の霊を祀って氏神とした」
 寝屋川市誌には
 「二本松神社 
  田井の大松の下に神社があった。慶長3年(1598)七郷の争論から三井村の天満宮氏子が分離したとき、この松が菅公手植えの松の縁をもって田井村の氏神とし、その根元に菅公を祀る一社を創建したのであった」
とある。

*太間神社(タイマ)
 栞には
 「元の太間神社は創建年代不詳。仁徳天皇の11年(383)寝屋川市の淀川左岸・太間地区の茨田堤構築に貢献した故事により、茨田連袗子(マンダノムラジ コモロコ、衫子とも書く)を当地に小社を建てて祀っていたという」
とある。

 この茨田堤構築の故事とは、書紀・仁徳天皇11年条に
 「北の川の塵芥を防ぐために茨田堤を築こうとしたが、築いてもすぐに壊れてしまう処が2ヶ所あった。

 天皇の夢に神が顕れ、『武蔵人強頸(コワクビ)と河内人茨田連袗子(コロモコ)の二人を、河伯(カワノカミ)に奉れば塞(フセ)げるであろう』と告げた。
 そこで二人を捜し出して、人身御供とした。コワクビは泣き叫びながら川に入り、その部分は完成した。

 一方コロモコは、瓢(ヒサゴ)2個を川に投げ込んで、
 『神が本当に我を得ようとするのなら、このヒサゴを沈めてみよ。ヒサゴが沈んだら神の意志として川に入ろう。しかし、沈めることができなかったら偽りの神だから、我は犠牲にならない』
といった。
 すると、旋風が巻き起こってヒサゴを水中に引き込もうとしたが、ヒサゴは波の上を転がるばかりで、沈まずに遠くへ流れ去っていった。
 こうしてコロモコは死ななかったが、堤は完成した。

 時の人は、この2ヶ所を“強頸の断間(タエマ)”・“袗子の断間”といった」(大意)
とある伝承をいう。

 茨田堤とは、今の寝屋川市太間町辺りから大阪市旭区千林付近まで約29km続いていたといわれ、袗子の断間は現太間町付近、強頸の断間は旭区辺りといわれ、門真市宮野町の堤根神社境内に茨田堤の一部が史跡として残っている(別稿・堤根神社参照)
 なお、社名・地名の太間(タイマ)とは、この断間(タエマ)が転訛した“タイマ”に太間の字を充てたものという。

 茨田連(マンダノムラジ、マムタノムラジともいう)について、新撰姓氏録(815)
  右京皇別 茨田連 多朝臣同祖 神八井耳命男彦八井命之後也」
とあり、神武天皇の長子・神八井耳命(カムヤイミミ)に発する氏族という。


※祭神
*誉田別尊(ホムタワケ・応神天皇)
  当社が当初八幡宮と称していたことからみて、誉田別尊(応神天皇)を主祭神とするのは順当だが、八幡神を何処から如何なる由縁で勧請したかは不明。

 なお、案内は「応神天皇は別名・大鞆別命(オオトモワケ)と申し上げ、鞆(トモ)とは天皇の立派なお姿の形容で・・・」というが、古代にあっては鞆のことを“ホムタ”と称していたといわれ、
 書紀・応神紀には
 「天皇が生まれたとき、腕の上に盛り上がった肉があり、その形が鞆(ホムタ・弓を射たとき、反動で弦が左臂に当たるので、それを防ぐためにはめる革の防具)のようであった。それでその名を称えて誉田天皇(ホムタノスメラミコト)というのである」
とあり、鞆の古称・ホムタから、応神の腕の肉が盛り上がったさまを尊称して“ホムタワケノミコト”(誉田別命・品陀別命)と呼んだもので、大鞆別命(オオトモワケノミコト)とはその異名とおもわれるが、記紀に大鞆別命との尊称はみえない。

*菅原道真
  当社に合祀された若山神社及び二本松神社の祭神を祀ったもの

*茨田連袗子(マムタノムラジ コモロコ)
  同じく合祀された太間神社の祭神を祀ったもの


※社殿等
 道路が二股に分岐する中に一の鳥居が立ち、その前に数個の御神燈(提灯)が下がっている。

 入口から緩やかな石段が長々と続き、途中に二の鳥居が、更に進んだ先に三の鳥居が立ち、境内に入る。

 
友呂岐神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居
 
同・三の鳥居

 境内正面に、入母屋造・一間向拝付・銅板葺きの拝殿が西面して建つ。


友呂岐神社・拝殿 
 
同・拝殿(側面)
 
同・拝殿内陣


 拝殿背後、弊殿を介して(というより弊殿と一体化したような)切妻造妻入り・銅板葺きの本殿が西面して鎮座する。

 本殿といっても、外から見えるのは覆屋で、中に本来の本殿が鎮座していると思われるが、外から窺うことはできない。





 なお、本殿の向かって左に朱塗りの『成願稲荷神社』(祭神:倉稲魂神)が鎮座する。

◎特殊神事
 当社には古来から『お弓式』と称する特殊神事が行われているそうで、境内に立つ案内(蜂かづき姫)には
 「ここ友呂岐神社の神事に、古くから近郊に知られた『お弓式』の行事があります。
 このお弓式は、毎年1月15日(昔は1月8日)に、旧三井神社跡で行われます。
 昔は、村役や有力者の子弟が紋付・かみしも姿で弓を引きましたが、現在では地元から選ばれた20才の青年二人が引くようになっています。
 弓は交互に2本ずつ3回、計12本の矢を的に向けて射ます。12本の矢は一年を意味し、矢の当たり具合で天候と豊凶を占います」
とある。
 今は成人式前日の日曜日に行われているようで(令和2年は1月12日)、参詣当日、使用する弓矢の準備が行われていた。

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