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打上神社(旧高良神社)
大阪府寝屋川市打上
祭神--不詳
付 --石の宝殿古墳
                                                                  2017.03.26参詣

 JR学研都市線・南寝屋川駅の南東約550m、金剛生駒国定公園南端部の雑木林に囲まれた丘陵上に鎮座する。式外社

 駅東の駅前広場を出て左へ、打上団地へ通じるやや広めの道を進み、打上団地前交差点(府道20号線)を越えて最初の辻を左へ、団地内の道路を案内にしたがって進み、団地はずれの擬木造階段(3度ほど折れている)を上がった上の道路の右手に当社一の鳥居が見える。

 なお、途中4ヶ所に案内絵地図(右図・誘導サイン、鉢被姫石像が目印)があり、案内に従って進むと階段下に着く。



 

案内絵地図(左上が当社)

※由緒
 境内に案内なく、創建由緒・時期などは不明。

 当社は今、地名に因んで打上神社(ウチアゲ)と称するが、江戸時代までは高良神社(コウラ)と称していたといわれ、鳥居神額・拝殿扁額はじめ石灯籠などには高良神社とあって、拝殿の張り紙以外に打上神社との表示はない(ネット地図には高良とある)

 旧社名・高良の由来については2説があるという。
*高麗由来説
 欽明紀23年(6世紀後半頃)7月1日条に、
 「新羅は使いを遣わして調を奉った。その使いは新羅が任那を滅ぼしたことを知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土へ帰らなかった。
 日本人民同様に遇され、いま、河内国更荒郡(サララノコオリ・讚良郡)鸕鷀野邑(ウノノサト)の新羅人の先祖である」
とあり、新撰姓氏録に
 ・河内国諸蛮 百済 佐良々連 百済国人久米都彦より出ず
 ・  同      同  宇努造  宇努首同祖 百済国人弥那子富意弥の後也
 ・河内国未定雑姓  宇努連   新羅皇子金庭興の後也
とあるように、四條畷市を中心に寝屋川市・大東市に亘る一帯(旧讚良郡)は古くは渡来系氏族に縁の深い土地だったといわれ、そこから
 「高句麗を日本では高麗(コウライ・コマ)と言い習わしているが、高麗を韓国では“コウリョ”と発音するから、これが訛って“コウラ”と発音され、その当て字で“高良”と書かれたのではないか」(日本に残る古代朝鮮)
という。

 当社旧社名が朝鮮半島の古称・高麗に由来するとすれば、当社も又、これら渡来系氏族が祀った社ではなかったかと思われる。

*川原説
 男山考古禄(1848)によれば、男山山麓に鎮座する石清水八幡宮の摂社・高良神社は、元は男山の東を流れる放生川の河原にあったことから河原社と称していたといわれ、これに準じて、当社も河原社から高良社に訛ったというものだろうが、当社付近に河原らしい跡がないこと、当社と石清水八幡宮との関係も見えないことなどから、この説は採れない。

 ただ、神社覈録(1870)は高良大社の社名について「高良は加波良(カハラ)と訓べし」とあり、男山考古禄(藤原尚次・1797--1878)には、石清水八幡宮摂社の高良社について「貞観三年行教夢記に、河原神云々と見えたり。古記瓦社とも書きて、常にカハラ神社と称し奉りし事しるべし」とあるという。
 また資料によれば、「高良は、古く中世の頃までは“カウラ”ではなく、“カハラ”または“カワラ”と訓まれ、河原や瓦の字が充てられていたが、中世末近世初期になって“カウラ→コウラ”と呼ばれるようになった」という(日本史学年次別論文集・古代2-2001・2003)

 ただ、ここでいうカハラとは、記紀神話で、アマテラスが岩屋戸に隠れたとき神々が集まった処を“天の安の河原”というように、川の辺という地形上の河原ではなく、神々が集う聖地との意味をもつという。

※祭神
 境内に祭神についての表示なく、祭神名は不明だが、日本の神々3(1984)には『武内宿弥』とある。
 (当社に関する資料皆無のため、以下、高良大社関連資料による)
 
 全国に60社以上あるといわれる高良社の総本社とも目される、筑後国一宮・高良大社(式内・高良玉垂命神社・名神大、福岡県久留米市)にかかわる正史上での記録をみると、
 ・延暦14年(795) 筑後国高良神に従五位下を授く(日本後記)
という高良神を嚆矢として、その後
 ・弘仁9年(818) 筑後国高良玉垂命神を名神と為す(日本後記)
 ・承和7年(840) 筑後国高良玉垂神に従五位上を授く(続日本後紀)
とあり、以後、最終綬叙記録
 ・貞観11年(869) 筑後国高良玉垂命神に従一位を授く(三代実録)
まで高良玉垂命神あるいは高良玉垂神とあり(この間8回の綬叙記録あり)、延喜式神名帳(927)に「高良玉垂命神社」とあることとも相まって、奈良時代から平安前期にかけて、高良社の祭神は高良玉垂命神(コウラタマタレノミコト)とされていたことが窺われる。

 ただ、高良玉垂命とは記紀等に見えない神で、その出自・神格などはっきりしないことから、古来、藤大臣説・武内宿弥説・香春神同神説・水沼氏祖神説・景行天皇説・彦火火出見尊説など諸説がある。

 このうち最も古いと思われる藤大臣説(トウノオトド)にかかわって、高良玉垂宮縁起(1370・南北朝時代)によれば、
 「神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に金鈴を掛けて七日七菜夜祈願したところ、9月13日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示現した。
 (月天子は)武内宿弥の請いで藤大臣と称して参戦、筑前八女神のうち豊姫を竜宮に遣わして干(乾)珠・満珠を借り受け、これを以て新羅王を降伏させた。
 藤大臣は中臣烏賊津臣命(ナカトミノイカツオミ)とも、藤大臣連保(トウノオトドツレヤス)のこととも、月天子とも、住吉明神の化身ともいふ。
 皇后の勅令を蒙り、宗大臣(宗像神)が御手長を振り下げ、藤大臣(高良神)が乾珠を海中に入れしかば、潮忽ち干して海上陸地と成り、・・・宗大臣が亦御手長を振り上げ、藤大臣が亦満珠を海に入れ給ふと、潮亦忽ち満ちて、異州の軍兵悉く皆溺死す」(大意)
として、高良神は潮の干満を支配する乾珠・満珠を以て神功皇后に仕えた藤大臣として登場し、次いで
 「藤大臣は武内宿弥とともに神功皇后・応神天皇に仕え、仁徳55年に武内宿弥・藤大臣共に帝都を辞して、武内は因幡国に隠れ、藤大臣は筑後国三井郡高良山に移り鎮まった」
との伝承もあり、高良玉垂命藤大臣説はこれらによると思われるが、それが何時の頃成ったかははっきりしない。

 中世の頃になると、宇佐の八幡神信仰が各地に浸透し、筑後国にも宇佐官領が進出したことなどから、高良玉垂神も八幡神の伴神として八幡信仰の中に組み込まれ(高良八幡大菩薩と呼ばれたという)、そこから神功皇后補弼の功臣である武内宿弥をこれにあてるようになったという。
 
 これに対して二十二社註式(1469・室町時代)
 「高良大明神は武内宿弥と云、此の説非也。高良は藤大臣連保の事也。神号は高良玉垂命。乾珠満珠を以て之を奉行せしむ。故に玉垂と号し奉る」
とあるように、藤大臣説も根強く残ったようだが、
 江戸前期、当地を領した有馬藩の藩論として、「高良社祭神の高良玉垂命は武内宿弥である」と定められた(有馬藩寺社開基帳・1670)ことから武内宿弥説が定着し、江戸時代末まで主流として続いたという(高良大社祭神が高良玉垂命神となったのは明治になってのことという)

 当社・打上神社が、その祭神を武内宿弥とするのは、江戸時代の風潮によるものと思われる。

 因みに、全国に60社以上ある高良神社(本社)の祭神は、高良神10社、武内宿弥42社、その他8社で、武内宿弥が7割を占めているという(日本史学年次別論文集)

※社殿等
 道路脇の一の鳥居を入り、参道を進んだ左手の石段上に二の鳥居が立ち境内に入る。
 境内正面に千鳥破風付向拝を有する横長の拝殿が建ち、その裏、弊殿に接して本殿覆屋が建つ。
 覆屋内は拝見できず、中に鎮座する本殿の詳細は不明。

 
打上神社・一の鳥居
 
同・二ノ鳥居
 
同・境内全景
 
同・拝殿
 
同・本殿覆屋
 
同・拝殿内陣

◎境内社
 境内左手に稲荷社、右手に護国社が鎮座する。
 いずれも、内部に社殿(小祠)が納められている。

 
境内社・稲荷社
 
同・社殿
 
護国社

同・社殿(部分) 

※石の宝殿古墳(国史跡、1973指定)
 打上神社の東方約50mの斜面に位置する古墳時代終末期古墳。
 打上神社二ノ鳥居の右手に立つ案内板の左脇に宝殿への入口があり、なだらかな小道(獣道)を進んだ上に宝殿がある。

 石の宝殿古墳について、日本古代遺跡事典(1995)には
 「北河内地域では稀な例として知られる終末期古墳。
 丘陵南斜面に位置するが、封土はなく、石棺式石室が露出しているのみで、墳丘の規模・形体は明らかでない。
 石棺は長さ・幅ともに約3m、高さ約1.7mの花崗岩の巨石を刳り貫いて、入口、棺側・棺蓋(玄室部)を一体に造り、それを底石の上に置いた型式で、玄室内法は奥行き2.3m、幅0.9m、高さ0.6m。
 石棺前の板石で挟まれた羨道は、長さ2m、幅1.4mで、左右側壁ともに一枚石が立つ。天井石は存在しない」
とあり、
 入口に立つ案内には
 「葬者は不明、おそらくこの辺りに勢威をもった豪族のものでしょう」
とあるが、石の唐戸古墳とも呼ばれることから、豪族とは渡来系氏族だったのかもしれない、

 羨道左前に「天岩戸大日如来」と刻した石碑が立つが、摩耗激しく建立年日等は判読不能。中近世の頃には修験道の行場として利用されていたのかもしれない。

 
宝殿への入口
 
石の宝殿・正面
 
同・玄室
 
同・側面
(左:羨道部、右:石室部)

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