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八坂瓊神社
大阪府守口市大庭町2-93
祭神--素盞鳴尊
                                                         2020.06.09参詣

 京阪電鉄・門真市駅から発する大坂モノレール・大日駅(近接して大坂メトロ谷町線・大日駅がある)の北西約900mの淀川左岸堤防下に鎮座する。
 社名は“ヤサカニ”と読む。(八坂瓊の瓊とは美しい玉を意味する)

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「当社の主祭神は、スサノオ命で京都祇園の八坂神社の御祭神を勧請したと伝えられ、京都祇園社の荘園だったころの旧大庭七番村(現大庭町)の氏神として祀られたといわれている。

 社殿は慶長年間の大坂の陣(1614・15)で兵火のため炎上し、元和9年(1623)に再建され、現在の社殿は明治11年(1878)造営されたもの。
 社殿の中には、御輿が一基安置されてあり、社前の燈籠には寛文3年(1663)と刻まれ、鳥居には享保8年(1723)癸卯八月二十五日河州茨田郡七番村氏子中とある。

 境内には、末社の稲荷神社・開墾神社が祀られている。
 開墾神社由緒書(社蔵文書)に『淀川の流れる葭原を24人の村人が開墾し、作物を植付けるとよく繁り立派な畠となった。境界がわかりにくいので道しるべを立て道祖神を奉祀した』とあるが、淀川沿いの一番二番・・・と番数を名前にした旧集落は、淀川の自然堤防に居住地を求め、自然の猛威をしずめ安全豊作を神に祈ったが、それが当社の起源ではないかと言われている。

 当社の御祭神スサノオ命は、古代朝鮮半島にあった新羅国の牛頭山におせれた牛頭天王であるといわれ、新羅からの帰化人が祀ったのがはじまりで、悪病退散の神であり、農耕、水の神として信仰された。
 北河内地区には、牛頭天王を祀った神社が20数社を数え、旧七番村の祖先もそれにならっものであろう。

 牛頭天王社は、明治維新に八坂神社と改称されたが、当社は『八坂瓊』と『瓊』(たま、赤い色のたまの意味)がつけられており、特に神徳をたたえてつけられたものといわれている」
とある。

 また、境内に立つ史伝書との案内には(上記以外の事項のみ抄紀)
 ・京都祇園の八坂神社の御祭神を観請したと伝えられ、文化14年(1817)9月より京都葉室殿の御祈願所となり、毎年例祭には葉室殿より高張提灯御紋付二張・御膳一膳・青銅一貫匁が供進せられた。
 ・明治11年頃の当社敷地は約400坪を有し(現在の大庭集会所敷地を含む)、境内末社に“稲荷神社”と“開墾神社”が祀られてあったが、古に廃社となった。
 ・現在の稲荷神社は、平成8年8月、八坂瓊神社奉賛会役員が発起人となり、崇敬者方々の御寄付により造営された。


 当社は、京都八坂の祇園社(現八坂神社)から祭神(牛頭天王)を勧請したというが、その勧請に至る経緯・年代は不明。
 案内は、新羅からの渡来人が祀ったのが当社の起源というが、疫病除けの神としての牛頭天王信仰の流布に伴う近傍氏子らの要請によるものかと思われる。

 当社を祈願所としたという京都・葉室殿(ハムロドノ)とは、藤原北家に連なる公卿で、白河法皇に仕えた藤原顕隆(1072--1129)を祖とし(葉室氏)、その3代・光顕が洛西葉室(現京都市右京区山田南町付近、今、葉室御霊神社あり)に荘園を営んだことに因んで葉室と称したというが、その葉室氏が如何なる由縁で当社を祈願所としたかは不明。

 当社社名・八坂瓊について、書紀神代紀6段一書2に
 ・イザナギから根の国に行けと高天原を逐われたスサノオが、姉・アマテラスに逢おうと天に昇ったとき、途中に羽明玉(ハカルタマ)との神がいて瑞八坂瓊(ミツヤサカニ)の曲玉を奉り、スサノオはこれを持って天上に行かれた
 ・天上で、アマテラス・スサノオの2神が誓約(ウケヒ)をされたとき、アマテラスはスサノオが持っている八坂瓊の曲玉をとって天の真名井の水ですすぎ八坂瓊の曲玉を食いちぎって口から噴き出された
 ・その息吹から生まれた神が宗像の三女神である
とあり(大意)、その中にスサノオの持ち物として八坂瓊の曲玉との物実(モノザネ)が出てくる。

 当社名・八坂瓊が当初からのものかどうかは不祥で、あるいは江戸時代牛頭天王社(あるいは祇園社)と称していたのが、明治の神仏分離以降、スサノオが持っていた八坂瓊に因んで改称したのかもしれない。



※祭神
  素盞鳴尊

 当社が京都・祇園社からの勧請であれば、勧請時の祭神は行疫神(疫病除けの神)・牛頭天王であったはずで、明治初年の神仏分離によって仏教色の強い牛頭天王が排斥され、京都・祇園社が祭神を牛頭天王から同じ神格をもつとされる素盞鳴尊に、社名を祇園社から八坂神社に替えているように、当社祭神も牛頭天王から素盞鳴尊に、社名も八坂瓊に変えたものと思われる。


※社殿等
 当社への道路は輻輳してわかりにくく、モノレール沿いに北上して淀川左岸堤防上の通路を下流へ進んだ先、堤防下にみえる当社が鎮座する鎮守の森を目指すのがわかりやすい。
 堤防を下りて敷地東側の道路を南下した右(西側)に立つ鳥居から境内に入り、その北側奥に社殿が南面して鎮座する。


八坂瓊神社・鎮守の森
(淀川左岸堤防より) 

同・鳥居 
 
同・境内

 境内北、玉垣と金網に囲われた中、石段を上がった上に拝殿と本殿が南面して鎮座する。
 拝殿は入母屋造・瓦葺きで、その背後、弊殿を介して同じく入れも屋造・瓦葺きの本殿が鎮座するが、外からみえる本殿は覆屋であって、内部に本殿社殿が鎮座すると思われる。
 なお、社殿域の東側に小さな児童公園があり、遊具数点が設置されている。

 社殿について、上記史伝書には、
 ・社殿は慶長年間・大坂の役で兵火のため炎上し、元和9年(1623)9月に藤原朝臣・赤楚藤兵衛が造営した。
 ・現在の社殿は、明治11年(1878)3月、その直孫・赤楚重五郎・同赤楚与八が造営したものである
とある。


同・拝殿 
 
同・本殿 

◎境内社
 拝殿左前の植え込みの中に、朱塗りの鳥居をもつ『白龍稲荷神社』が東面して鎮座する。
 嘗ての当社には、末社として“稲荷神社”と“開墾神社”の2社があったが廃社され、現在の稲荷神社は平成8年の造営という(上記)

 
末社・白龍稲荷神社
 
同 左 

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