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日前神宮・国懸神宮
和歌山市秋月
日前神宮--日前大神
         相殿-思兼命・石凝姥命
國懸神宮--國懸大神
                 相殿-玉祖命・明立天御影命・鈿女命

   付--濱宮神社(伝・旧鎮座地)
                                                              2015.05.27参詣

 延喜式神名帳に、『紀伊国名草郡 日前神社 名神大 月次相嘗新嘗』及び『同 國懸神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社2社で、いずれも紀伊国一の宮と称する。

  この2社、神名帳に別々の神社として記載されていることから、本来は別々の神社かと思われるが、その由緒・祭神等が共通し、日前國懸宮(ニチゼンコクケン)あるいは略して日前宮(ニチゼングウ)と呼ばれるように、古来から一つの神社と目され、今も同じ境内に社殿を別にして祀られている(両社間約100m)
 社名は、日前:ヒノクマ、國懸:クニカカスと読む。

 JR紀勢本線・和歌山駅を起点とする“わかやま電鉄貴志川線・日前宮駅(ニチゼングウ)”を北に出た目の前、国道138号線を挟んで拡がる森の中に鎮座する。



日前・国懸神宮・正面

※祭神
 頂いた「日前国懸神宮(日前宮)御鎮座略記」(以下、略記という)によれば、
  「謹みて按ずるに、日前大神国懸大神は天照陽乃大神の前霊に坐しまして、その稜威名状すべからざるなり。
 太古、天照大神の天の岩窟に幽居ましし時、群神憂い迷い手足措く所を知らず、諸神思兼神の議に従ひて種々の幣帛を調え、大御心を慰め和はし奉るに当り、石凝姥命天香山の銅を採りて大御神の御像を鋳造し奉る。

 これ伊勢大神宮奉祀の八咫鏡、日前神宮奉祀の日像鏡、国懸神宮奉祀の日矛鏡なり、・・・(中略・下記)・・・
 是を以て、日前神宮奉祀の神の御名を日前大神と称え奉り、国懸神宮奉祀の神を国懸大神と称え奉る。共に天照大神と御同体に坐しますなり。
 故に紀氏歴代奉仕し、上下の尊崇殊に厚く一般には日前宮と称して親しみを持ち今に至る」

 また ネットにみる当社公式サイトには、
 「日前神宮は日像鏡(ヒガタノカガミ)を御神体として日前大神を奉祀し、國懸神宮は日矛鏡(ヒボコノカガミ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。

 神代、天照大神が天の岩窟にお隠れになられた際、思兼命(オモイカネノミコト)の議(ハカリゴト)に従い、種々の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和(ナゴ)んで頂くため、石凝姥命(イシコノトメノミコト)を冶工(タクミ)とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。

 その初度(ハジメ)に鋳造された天照大御神の御鏡・前霊(サキミタマ)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと日本書紀に記されています」
とあり、略記・公式サイトともに、当社祭神をアマテラスに結びつけ(同体あるいは前霊)、その御神体は鏡だという。

 ここで御神体とされる鏡について、書紀本文には、
  「天香山から採った榊の中の枝に八咫鏡を懸け・・・」
とあるだけで、当社との関連を示唆する記述はない。
 ただ、一書1に、
  「石凝姥を以て冶工(タクミ)として、天香山の金を採りて日矛を作らしむ。又真名鹿(マナカ)の皮を丸剥ぎて天羽鞴(アメノハブキ=フイゴ)を作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に坐す日前神なり」
として、イシコリトメがまず日矛を造り、次に牡鹿の皮で作ったフイゴを用いて造った神が紀伊の日前神だという。
 ここで、フイゴを用いて造ったのが何なのかは不明だが、フイゴを用いて造ったことから鏡である蓋然性は高く、これが日前神の御神体とされる鏡とみてもおかしくはない。

 これに対して、イシコリトメが造ったのは二つとも鏡であるとするのが古語拾遺(807・忌部氏系史書)で、そこには
  「石凝姥神をして日の像(ミカタ)の鏡を鋳せしむ。初度(ハジメ)に鋳たるは少(イササカ)に意に合(カナ)はず。是紀伊国の日前神なり。次度に鋳たるは其の状(カタチ)美麗(ウルワ)し。是伊勢大神なり」
として、イシコリトメが最初に造った出来のよくない鏡が日前神の御神体で、次に造った美麗な鏡が伊勢大神の御神体だという。ただ、ここには書紀一書にいう日矛についての記述はない。

 その日矛が鏡であるとするのが先代旧事本紀(9世紀前半・物部氏系史書)で、
  「石凝姥命を冶工とし、天香山の銅を採りて日矛を造らしむ。此の鏡少し意に合わず。是則ち紀伊国に坐す日前神是也。
 また鏡作の祖・天糠戸神(アメノヌカト)をして日像之鏡を造らしむ。其状美麗なれども窟の戸に触れて小瑕有り。其の瑕今なお存す。是即伊勢大神、所謂八咫鏡(ヤタノカガミ)亦の名真經津鏡(マフツノカガミ)是也」
として、イシコリトメが造った日矛とは鏡で、これが日前神だという。

 この日矛を鏡とするのには古くから異論があり、本居宣長は
  「日矛は矛の名なるを、旧事紀(旧事本紀のこと)は鏡と為て、“日矛を鋳造せしむ、この鏡意に合わず云々”と云えるは、いたくひがごとなり。・・・古来諸説みな此の旧事紀を信じて、鏡と定めたるはいかにぞや」(古事記伝・1798)
として日矛=鏡説に疑問を呈し、この日矛とは、天岩屋の前で踊ったアメノウズメが手にした茅纏の矛ではないかという。

 今、当社がその祭神を日前神宮・日像鏡、國懸神宮・日矛鏡とするのは日矛=鏡説によったものだが、これは上記諸史料によって作られたもので、江戸時代の古文書・和漢三才図会及び紀伊国名所図会に
 ・和漢三才図会(1712)
   祭神二座  日像鏡-日前大神  日矛-國懸大神
 ・紀伊国名所図会(1812) 
   日前大神と称し奉る御霊代は御鏡、國懸大御神と称し奉る御霊代は日矛、共に天照大神の前霊(サキノミタマ)にましまし
とあるように、祭神は鏡と日矛とするのが妥当かと思われ、
 ・当社関係の古文書・紀伊国造家系図にも
   石凝姥によって鋳造された日像鏡と日矛の二つの神宝(下記)
とあり、古くは鏡と矛を御神体としていたらしい。

 略記は、日前国懸両神宮の祭神はアマテラスと同体というが、これはアマテラスの御神体・八咫鏡の前に当社の鏡が造られたとする旧事本紀の記述によるものと思われる。
 両社の祭神がアマテラスに結びつけられた時期について、松前健氏は、
 ・釈日本紀(鎌倉後期)
  「大倭本紀(詳細不明)に曰く、天孫が天降った時、斎鏡(イミカガミ)三面・子鈴一令を奉じた。注に曰く、一鏡は天照大神の御霊代で天懸大神(アメカカス)といい、一鏡は天照大神の前御霊で国懸大神(クニカカス)という。今紀伊国名草宮に坐す大神である。他の一鏡と子鈴は天皇の御饌神となり大神に奉仕した。今巻向の穴師の社の大神である」
とあること、
 ・また、宮中の内侍所(賢所の前身)に置かれていた忌辛櫃(イミカラビツ、天皇位の印としての神鏡-レガリアを納めた櫃)のなかに鏡三面があり、一面は伊勢大神の分身で伊勢御鏡と、他の二面のうち一面は紀伊御鏡と呼ばれ、残る一面は名称不明だったといわれ、宮廷祭祀のなかに伊勢の鏡に並んで日前・国懸の鏡(いずれもレガリア)が祀られていたらしいこと
 (古語拾遺に、崇神天皇の御世、「更に鏡を鋳、剣を造らしめて護りの御璽-ミシルシと為す。今践祚の日に奉る神璽-ミシルシの鏡・剣なり」とあり、ここで新鋳された鏡が内侍所にある伊勢御鏡であろう)
 ・この鏡は天徳4年(960・平安中期)9月内裏が焼けたとき類焼し、伊勢御鏡は無事だったが、残る二鏡は損傷をうけたといわれるが、小右記(978頃)に、「焼けた二面のうち一面は日前神、もう一面は国懸神を表していた」とあること
などから、日前・国懸両社が伊勢神宮と結びつけられた時期は、奈良時代の中・後期頃からで、平安末期には伊勢・日前同体説が強くなっていたらしいという(大略)(日本の神々6・1986)

 しかし、皇祖神である伊勢の大神・アマテラスが天皇以外からの私弊が禁じられていたことからすれば、地方の神社に皇祖神・アマテラスそのものが祀られることは有りえず、太陽神・アマテラスが皇祖神として定着する前から、各地に、その地の首長が奉祀する太陽神(アマテル神)があったといわれ、当社祭神もその一つだったと思われる。
 なお、略記・御神徳の項に
  「日前宮は紀伊国一の宮にして天照陽乃大神を祀る。日前国懸大神はその別名にましまして、太陽の御徳を蒙り・・・」
とあり、天照陽乃大神云々というところに、当社祭神が在地の首長(紀氏)が奉齊したアマテル神であったことを示唆している。

 これに関わって松前健氏が、
 ・元々の日前神宮の神は、おそらく伊勢とも朝廷ともまったく関係のない、紀伊名草郡と海部郡の海人たちの奉じるローカルな太陽神だったと思われる
 ・古代には、アマテル・アマテルミタマなどというローカルな太陽神を祀る社が各地にあったが、これらアマテル神のほとんどは海人に結びついていた
 ・日前神宮の太陽神も、こうしたアマテル神の一つであり、それが紀伊国造家によって氏神とされたのであろう
というように、当社祭神は、元々は紀伊国を統治する紀氏(紀伊国造家)が奉齊する太陽神・アマテル神であったものが、紀氏が中央朝廷で重用されるにともなって、それを皇祖神・アマテラスと結びつけ、それによって当社の社格高揚を図ったのかもしれない。

◎配祀神
 日前神宮--思兼命・石凝姥命
   書紀・一書1にいう、御神体である鏡の鋳造にかかわった神
 国懸神宮--玉祖命(タマノオヤ)・明立天御影命(アケタツアメノミカゲ)・鈿女命(ウズメ)
   玉祖命--天岩屋神話に登場する神で、
    古事記に「玉祖命に科(オホ)せて、八尺(ヤサカ)の勾玉の五百津(イホツ)の御すまるの珠を作らしめ」とあり
    書紀・一書3に「(天香山から掘り採った榊の中の枝に)玉作りの遠い先祖の、イザナギ尊の子・天明玉命の作った八坂瓊(ヤサカニ)の曲玉を架け・・・」とある天明玉命(アマノアカルタマ)と同一神といわれ、玉作部の遠祖という。
   鈿女命--天岩屋の前でアマテラスを呼び戻すために舞を舞った女神
   明立天御影命--アマテラス・スサノオの誓約(ウケヒ)によって生まれた天彦根命の御子・天日影命の別名で、鍛冶の神という
 玉祖命・鈿女命が天岩屋段に登場するのに対して、そこに登場しない明立天御影命が祀られるのは、造鏡の神即ち鍛冶神としてのことだろうが、やや異質。

※由緒
 当社の創建由緒について、略記は
  「而して、天孫、降臨し給ふに当り、日像鏡日矛鏡を以て紀伊国造家肇祖天道根命(アメノミチネ)に授け給ひ宝祚の無窮を祈らしめ、神武天皇天道根命を以て紀伊国造となし給ふの時、神鏡を名草郡毛見郷に奉祀す、毛見の濱の宮是なり。垂仁天皇16年神誥に拠りて同郡萬代宮(現在地)に遷し奉り、永く鎮座の地として今に至れり」
とあり
 公式サイトには
  「天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊国造家の肇祖に当たる天道根命を紀伊国造に任命し、この神鏡を以て紀伊国名草郡の地に奉祀せられたのが当社の起源とされています。
 その後、崇神天皇51年、名草郡濱の宮に遷宮され、垂仁天皇16年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、永きに渉り鎮座の地として今に至っています」
とある。

 なお、管見した“日前國懸両大神宮本紀大略”・“紀伊国造家系図”等から推測すれば、概略次のようになる。
 ・アメノミチネが、天照大神の岩戸隠れに際してイシコリトメが鋳造した日像鏡と日矛の二つの神宝を、高天原の神々から託されて、高天原において天照大神の前霊(サキノミタマ)として奉齊した
 ・天孫降臨に際して、天孫ホノニニギが三種の神器とともにこの二つの神宝も授けられて日向に天降り、これに扈従したアメノミチネが二つの神宝を日向の高千穂に祀った
 ・降って、神武東征に従ったアメノミチネは、難波の地で、天皇から二つの神宝が鎮座するに相応しい聖地を探すように命じられ、紀伊国名草郡の加太浦・木本を経て毛見郷に至り、琴浦の海中に聳える奇岩の上に二つの神宝を日前・國懸の神として奉齊し、天皇の東征成就と寿命長久を祈った。
 ・神武即位後、この功によりアメノミチネは紀伊国造に任命されて土着、日前・國懸両神宮の司祭者としてこれを奉齊、その子孫も代々国造として両神宮を奉齊した
 ・崇神天皇51年、豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)が天照大神の神霊を奉じて名草濱宮に遷り3年間留まられたとき(倭姫命世記に記述あり)、日前・國懸両大神も琴浦の岩から名草濱宮に遷座した
 ・垂仁天皇16年、濱宮から萬代宮に遷座、現在に至る
というもので、当社公式サイトには、
  「創建2600余年(書紀にいう神武即位年-BC660-を指す)を遡る日前神宮・國懸神宮は・・・」
として当社創建を神武東征に求め、ほとんどの資料がこれを踏襲している。

 これは、記紀の記述を全て史実とした頃の知見によるもので、神武天皇の実在を疑問とする現今の知見からすれば、神武朝(BC660年は弥生中期に当たる)での創建というのはあり得ず、又、古墳前期(4世紀前半頃)とされる崇神・垂仁朝に恒常的な社殿を有する神社があったというのも疑問がある(必要に応じて神籬を建てての神マツリはあったであろう、恒常的な神社の造営は6世紀以降という)
 なお、崇神天皇51年豊鋤入姫命云々とは、鎌倉中期頃の神道五部書の一つ・倭姫命世記に記す
  「崇神51年 豊国入姫命 木乃国奈久佐宮(名草宮)に遷り 三年間奉齊」
を承けたものと思われ、松前健氏は
  「トヨスキイリヒメの名草濱宮への遷幸伝承は、伊勢神宮側にトヨスキイリヒメ遷幸説話が定着したころの産物であり、あるいは鎌倉期以降の伊勢神道の影響下に作製されたのではないかと思われる」
という。妥当な解釈であろう。

 両社の社名を日前・国懸と呼ぶ理由は不詳。
 日前社について、釈日本紀(書紀の解説書・鎌倉後期)では
  「日前神と称し奉る義は如何」との問いに対して、
  「前(先)に日像鏡を鋳し故に日の前の鏡と云ふ」と答えているが、
 これは日前を“ヒノマエ”と解してのことのようで、平田篤胤(江戸後期の国学者)は誤訓であろうとし、松前氏は、これは神話にもとづく俗伝にすぎないようである、という。
 ただ、日前を“ヒノクマ”と呼ぶのは古くからのことで、南北朝初期の当社神職・紀俊文(14世紀前期ころの紀伊国造)の和歌に、
  「名草山 取るや榊の尽きもせず 神わざしげき 日のくまの宮
とあるという。
 また、クニカカスとは“国を輝かす”の意であろうというが、輝くが懸かるに変化した経緯は不詳。

 なお、由緒等には記されていないが、伝承によれば、当社の現鎮座地には、曾ては伊太祁曽神社(名神大社)が鎮座していたが、当社が名草濱宮から遷座するに際して、社地を明け渡し山東の地(現伊太祈曽)に遷ったという(別項・伊太祁曽神社参照)

◎天道根命
 天道根命の名は記紀には見えないが、先代旧事本紀に
 ・天神本紀--葦原中国に降臨する饒速日命(ニギハヤヒ)の護衛として従った32柱の神々のなかに命の名がみえ
 ・国造本紀--紀伊国造 橿原朝(神武朝)の御世 神皇産霊尊五世の孫天道根命を国造に定む
とある神で、紀伊国の豪族・紀伊国造家(紀直氏・キノアタイ)の遠祖という。
 (天神本紀にニギハヤヒ云々とあることから、天道根命は物部氏系の神で、ニギハヤヒの神武帰順に伴って神武天皇に従ったとする説もあるが、旧事本紀が物部氏系史書で、ほとんどの神々をニギハヤヒの降臨に結びつけていることから、これはとれない)

 ただ上記由緒によれば、アメノミチネは神代から神武朝という長期に亘って生きたことになり、現実にはあり得ない。多分に、命の後裔で景行朝から仁徳朝にいたる5代の天皇に仕えたとされる武内宿祢の実在が疑問視されるのと同じく、アメノミチネも紀氏一族によって作られた伝説的人物であろう。

 アメノミチネを遠祖とする紀氏には2系統があり、一つは紀伊国造として紀伊国を統治した紀直氏(キノアタイ・神別氏族)で、も一つは紀直の遠祖・菟道彦命の娘・影姫(5世の孫・大名草彦命の女・宇遅比女とする系図もある)が孝元天皇の孫・屋主忍男武雄心命に嫁して生んだ武内宿祢(景行紀)の子・紀角宿祢(キノツノスクネ)が、母方の名を継承して紀氏を名乗った系統で(紀臣氏-キノオミ・皇別氏族)、この系列は中央朝廷で重用され活躍したという。
 都から遠く離れた当社が朝廷から重要視されたのは、中央における紀臣氏の活躍によるところが多いと思われる。

 紀氏一族が紀伊国に進出した時期は不明だが、当社の東約2.5kmほどにある岩橋千塚古墳群(6世紀中心の群集墳)が紀氏関係の古墳ということからみると、5世紀から6世記にかけてのこと(古墳時代中期から後期)と思われ、これからみても当社創建が崇神朝というのは有り得ないといえる。
 その後の紀氏は、紀ノ川沿岸の豊かな農耕地帯を押さえ、紀州沿岸から瀬戸内一帯の海人集団を配下に収めるなど勢力を拡げ、それをバックに朝廷から国造に任命され(任命時期不明・雄略朝ころか)、その権威のもと名草郡を中心とする紀伊国の西部一帯を統治したと思われる(紀伊国東部は熊野国造の支配地)

◎正史にみる当社
 当社の正史上での初見は天武天皇条で、そこには
 ・朱雀元年(686)7月2日 弊を紀伊国に居ます國懸神・飛鳥の四社・住吉大神に奉りたまふ
とあり、次いで
 ・持統天皇6年(692)26日 使者を遣わして弊を伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に奉らしむ
 ・  同      12月24日 大夫を遣わして、新羅の調を五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉る
とある。
 これからみて、当社が7世紀中頃に実在していたことは確かなようで、当社が伊勢を始めとする国家的に重要な神社に伍して奉幣されていることは、当社が如何に重要視されていたかを示唆するものといえる。

 そのような重要な神社であるにもかかわらず、当社に対する神階あるいは勲位授叙の記録は見えない。それは、当社祭神が天照大神と同一視あるいは準じた扱いがされたことによるというが(伊勢大神は別格で神階授叙の対象とはなっていない)、そのあたりの事情はよくわからない。

 上記以外に、大同元年牒(806、奈良時代以降、社寺へ与えられた封戸の記録)には
 ・日前神 五十六戸 紀伊国
 ・国懸神 六十戸  紀伊国  後に五戸加増
とあり、8世記末頃の当社は日前・国懸の2社と認識されていたことを示す(他に、文徳朝・清和朝にも幣帛記録があるというが未確認)

◎その後の紀伊国造家と当社
 紀伊国造家がそうであったように、律令制定前の国造は、民政・祭祀両面に亘る絶大な権力を持って領国の統治にあたったが、律令制定後は次第にその権力は縮小し、中央から派遣された国司のもとで実務を携わる郡司などの地方官僚へと変化していったといわれ、そんなかにあって、紀伊国造家は、出雲国造家など幾つかの主要国造とともに国造の称号は許されるものの、その権限の及ぶの範囲を祭祀権のみに限定されて存続したという。

 室町中期から戦国時代に入ると、紀伊国造家も武士化し太田城(現和歌山市太田)など数城を築いて(15世紀末)領土の保全を図るとともに、根来衆・雑賀衆などの紀州国人衆とともに織田信長・豊臣秀吉の天下統一に抵抗したが、天正14年(1584)、秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍とが戦った小牧長久手の戦いに徳川織田連合軍に荷担したことから秀吉の怒りを買い、戦い終結後の天正15年、秀吉の紀州征伐によって居城とする太田城が落城、当社も社殿等ことごとく破壊され、国造・紀忠雄(67代)は両社の御神体である神鏡他を奉じて高野山山麓の丹生神社の地に逃れたという。

 その後、紀州領主として入国した羽柴秀長によって仮殿として復興され、国造家も復帰するも、往年の面影はとりもどせず、日前・国懸神宮の本格的な復興は、寛永4年(1627)入府した紀州徳川家の初代・徳川頼宣(1602--71)の命によるものという。

 当社社殿について、略記には
  「中世御炎上の事あり、加ふるに天正の兵乱に侵され境内神殿とも甚だしく荒廃したりしを、南龍公(徳川頼宣)入国の後、廃を興し社殿を建立せられ、明治4年神格の制を治定さるるや勅して官幣大社に列し、以て敬神尊祖の大義を示し給へり。
 然れども、社殿其の他の施設尚未だ往時を偲ぶに足らず、大正8年(1919)国費を以て境内建物全部の改修工事を施工せられ、大正15年(1926)3月を以て工を全うす」
とある。

※社殿等
 一の鳥居を入り、直進した先に神域への入口があり、鬱蒼たる叢林のなかを進み、T字形となった突きあたりを左すれば日前社へ、右すれば国懸社へ至る。両社間は約100m。

 
日前・国懸神宮・一の鳥居
 
同・神域への入口 

 日前神宮・国懸神宮ともに社殿構成は同じで、鳥居の立つ玉垣内の中央に拝殿(舞殿兼用、切妻造・銅板葺)が、その奥、中門を有する瑞垣に囲まれた中が本殿域で、その中央に堂々たる本殿(向拝付き入母屋造・銅板葺)が鎮座する。
 ただ、瑞垣が高く格子の間が狭いため、外からは大屋根が見えるだけでその全姿は実見不能。(下の写真は、国懸神宮のもの)

 
国懸神宮・正面
 
同・鳥居
 
同・拝殿
 
同・瑞垣中央部(中門付近)
 
同・中門
 
同・本殿大屋根

◎攝末社
 略記によれば、今、境内摂社として天道根神社・中言神社の2社が、境内末社20社があるという。
 摂社2社は両神宮間の叢林のなかにあり、末社は境内各処に数社が点在するが(社名・神名不明のもの多し)20社は見えない。又、末社跡と思われるのが数ヶ所見えるから、殆どがなくなっているらしい。

*摂社
 ・天道根神社--祭神:天道根命
 略記には、御由緒として
  「天孫降臨の時、天道根命従臣となり齎祭す。其の後、神武天皇即位2年春2月、天道根命に紀伊国を賜り国造職に補せらる。明治10年3月21日、官令を以て日前国懸両神宮摂社と定めらる」
とある。
 ・中言神社--祭神:名草姫命・名草彦命
 同じく
  「往古より境内に鎮座す。国造家譜に曰く、名草彦命は天道根命第5代大名草彦命並大名草姫命を祀り中言社と称す名草郡の地主の神なり。故に郡村の神社に此神を祭る最も多し。明治10年3月26日、官令を以て日前国懸両神宮摂社に定められ、地主の神として尊崇さる」
とある。

 なお、式内社調査報告(1987)には、摂社30社、末社60社(両社30社ずつ)の神名を記しているが、今、その中で確認できるのは摂社・天道根神社・中言神社のみで、末社に至っては社名不明のものが多く確認不能。

 
摂社・天道根神社・鳥居

同・社殿 
 
摂社・中言神社・鳥居
 
同・社殿
 
末社・市戎社
 
同・天満宮?
 
同・邦安社(松平頼雄命)
 
末社・社名不明
 
末社・社名不明
 
末社跡?


【濱宮神社】

  和歌山市毛見
  祭神--第一殿--天照皇大神
        第二殿--天懸大神・国懸大神(天懸大神とは、日前神宮の祭神・日前大神を指す)

 JR紀勢本線・黒江駅の西約3kmの海岸近くに鎮座する小社。国道42号線・浜の宮信号を西へ入った細い道路の南側に鎮座する。
 曾ては海に近かったと思われるが、今は前面が埋め立てられ、周囲を住宅等に囲まれている。

※由緒
 頂いた由緒略記によれば、
  「国造家旧記等の古記録により、次のように伝えられております。
 神武天皇御東征の砌、神鏡及び日矛を天道根命に託して奉齊せしめられました。天道根命は、この二種の神宝を奉じて、先ず紀伊国名草郡加太浦へ行かれ、その後名草郡木本へ移られ、更に名草郡毛見郷に到って毛見崎の岩上に奉祀されました。これが当神社の発祥と考えられます。
 崇神天皇51年(西暦紀元前47年)4月8日に至って、豊鋤入姫命が、天照皇大神の御霊代を奉裁して名草濱宮に遷座せられ、同時に毛見崎の岩上に安置されていた天懸大神(神鏡)・国懸大神(日矛)も濱宮に遷され、宮殿を並べて鎮座せられました。

 その後、天照皇大神の御霊代は、崇神天皇54年(西暦紀元前44年)11月に吉備名方濱宮に移られた後、垂仁天皇の御世に至り、倭姫命が奉じて伊勢の五十鈴川のほとりに遷られ、永久の宮地(現在の伊勢神宮)とされました。
 一方、天懸・国懸両大神は、垂仁天皇16年(西暦紀元前14年)に名草萬代宮(現在の日前宮)に遷られ、常宮として鎮座せられました。
 その由緒により、当神社の第一殿に天照皇大神、第二殿に天懸・国懸大神が奉祀され、『元伊勢の大神』と称えられて広く尊崇されており、・・・」
とあり、和歌山市秋月に鎮座する日前神宮・国懸神宮(以下、日前宮という)の旧鎮座地という。

 ここでいうトヨスキイリヒメ云々とは、上記(由緒)のように、神道五部書の一つ・倭姫命世記の記述をうけたものだが、この書は鎌倉中期ころの成立ということから(伊勢外宮の神官等によるものという)、上記由緒は鎌倉期以降に作られた伝承であろう。

 上記由緒によれば、当地を日前宮の旧鎮座地とする伝承にもとずく神社と解されるが、今、日前宮との関係は絶えているようで、日前宮の神職は「攝末社等の関係はない」という。

 神が海中の岩場などに降臨し、そこから内陸地へ遷ったとする伝承をもつ神社は多く(出雲・日御碕神社など)、一旦、毛見琴浦の岩場(位置不明)に祀られた日前大神・国懸大神が、その後、当地に遷座したとの伝承もその一つと考えられ、松前健氏は
 ・神が降臨もしくは漂着したと伝える地を、祭礼の神輿の御旅所とする例は全国に数多くみられることから、この浜宮はおそらく古い時代の御旅所であったに違いない。
 ・本紀大略は、昔この浦の西の海に夜な夜な光が見えたので、漁人が網を引いたところ、大きな亀が玉を載せて上がってきたと伝え、そこで毛見浦あねいは三日月の浦と呼ぶようになったと記している。一種の寄神(ヨリガミ)信仰のあった処であろう
という。
 ヨリガミとは、折口信夫がいう、海の彼方から幸をもってやってくるマレビト神を指すとみてもいいだろう。

※社殿
 鳥居を入り参道を右に曲がった先が境内で、正面叢林のなか。、板塀に囲われた中に天照皇大神社・天懸国懸大神社が東面して並ぶ。
 両社とも社殿構成は同じで、正面・拝所から弊殿を挟んで神明造・銅板葺の本殿が鎮座する。

 
濱宮神社・鳥居
 
同・境内 
 
天照皇大神社・拝所
(天懸国懸社も同形)
 
天懸国懸社・全景
(天照皇大神社も同形)
 
同・本殿
(天照皇大神社も同形)

◎境内社
 本殿域の左、区画を別にして豊鋤入姫命社(摂社の格付けであろう)が東面して建ち、その左に末社5宇、
   高皇社・中言社・天満宮・恵比須社・金刀比羅社(向かって右から)
が北面して並ぶ(中言社がやや大きい)
 豊鋤入姫社は、姫がアマテラスの神霊を戴いて当地に滞在したとの伝承によるものだろうが、末社5宇の鎮座由緒は不明。

 
豊鋤入姫社
 
末社5宇 

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