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伊太祁曽神社
和歌山市伊太祈曽
祭神--五十猛命
配祀-大屋都比売命・都麻津比売命
                                                             2015.05.27参詣

 延喜式神名帳に、『紀伊国名草郡 伊太祁曽神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社で、紀伊国一の宮と称する。
 社名は“イタキソ”と読むが、その由来は不明。紀伊続風土記(1806)に「祭神名・五十猛(イタケ)と有功(イサオシ)がつづまってイタキソになった」と説明しているというが疑問。
 鎮座地の旧地名・山東(サンドウ)から“山東さん”と呼ばれるともいう。

 JR紀勢本線・和歌山駅を始発とする“わかやま電鉄貴志川線”・伊太祈曽駅の南約300m。駅南改札口を出て西(右)へ、すぐの角を南(左)へ100mほど、小川に架かる朱塗りの橋(常盤橋)を渡った先に一の鳥居が立ち、参道がまっすぐのびる。

※由緒
 頂いた栞が記す鎮座由来(以下、由来という)には、
  「伊太祁曽神社についての具体的な年号の初見は、続日本紀の文武天皇大宝2年(702)です。
 神代のことはわかりませんが、伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、日前宮・国懸宮(通称日前宮)の社地にお祀りされていました。
 日前宮の御鎮座が垂仁天皇16年と伝えられていますので、その頃に山東(サンドウ、現在の伊太祈曽)に遷座せられたようです。
 しかし、その場所は現在の社殿のある場所ではなく、南東に500mほど離れた『亥の森』と呼ばれる所でした。
 亥の森は旧社地として小さな祠を祀っており、毎年旧歴10月初亥日に“亥の森祭”が執り行われます。
 寛永記には『伊太祁曽大明神は和銅六年十月亥の日当所に遷り給ふ』と記されており、現在の社地への鎮座は和銅6年(713)ということになります」
とある。

 この由来には、当社の鎮座地変遷を記すもので、鎮座由緒には触れていないが、書紀・神代記(8段)に、
 ・一書4
   神代の昔、素戔鳴尊(スサノオ)は御子・五十猛命(イタケル、イタケともいう)を連れて新羅国・曽尸茂梨(ソシモリ)に天降ったが、此の国には住みたくないとしてわが国に帰ってきた
   はじめイタケルが天降られるとき、沢山の樹の種を持って下られた。けれども韓地に植えないで全て持ち帰って、筑紫からはじめて大八洲の国の中に播き増やして、全部青山にしてしまわれた。
   このためにイタケルを名づけて有功(イサオシ)の神とする。紀伊国に坐す大神は此の神である
 ・一書5
   イタケル、妹の大屋津姫命(オオヤツヒメ)と次の抓津姫命(ツマツヒメ)、この三神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある
とあり、これを以て当社の鎮座由緒とするのが通説という。

 この神話について論じている資料は少ないが、松前健氏は概略
 ・スサノオは、朝鮮系の渡来人に奉齊された蕃神であるとの説もあるように、朝鮮半島との関係が深いことが指摘され
 ・古事記にいうスサノオの神統譜には、韓神(カラカミ)・曽富理神(ソフリ)・白日神(シラヒ=シラギ)といった蕃神的要素が強い神々がみえる(いずれもスサノオの孫オオトシ神の御子)
 ・当社社名・伊太祁曽(イタキソ)のキソは、ヒメコソ(新羅から渡来したという女神)のコソと同じく韓語における敬語とする説もある
 ・スサノオ崇拝は、通常、出雲須佐郡の須佐神社を原鄕とするというが、紀伊国にもスサノオを祀る須佐神社(有田市)があり、出雲の須佐社が式内小社であるのに対して、紀伊のそれは名神大社として朝廷から重視されていることなどから、スサノオ崇拝の原鄕は紀伊であるともいえる
 ・書紀によれば、応神から舒明期にかけてみえる紀氏系の人物(9名みえる)のほとんどが、軍事・外交にかかわって百済・新羅へ派遣されているように、紀氏一族と朝鮮半島との関係が深い
 ・これは、紀氏一族が紀州から瀬戸内等かけての海人集団を率いていたことからのことで、彼らは造船や航海に長け、対外貿易もおこなっていたらしい
 ・これらからみて、この神話は単なる架空の説話ではなく、この神を奉じる紀氏一族の朝鮮半島との交流を物語るものであろう
という(日本神話の研究・1970、日本の神々6・1686)

 当社の創建年次は不明。
 上記由来によれば、垂仁16年に旧鎮座地(現日前国懸神社鎮座地・和歌山市秋月)から、現鎮座地の東南約500m離れた山東(亥の森あるいは亥の杜)に遷ったとあり、また永享文書(成立時期・文書の信憑性など不明)
  「日前国懸影向の刻、彼の千町を両宮に進じ去り、東に遷り給ふ」
とあるというが(式内社調査報告・1980)、管見した日前国懸神社関連資料に当社の跡地に遷ったことを示唆するものはみえない。

 当社の山東遷座が垂仁16年とすれば、当社は垂仁朝以前に創建されていたとなるが、古墳時代前期とされる崇神・垂仁朝に恒常的な社殿を有する神社があったとは考えられず、上記由来は神マツリのはじまりを崇神朝とする記紀の記述にもとづいた伝承と見るべきであろう。

 当社が、本来の社地を日前国懸神宮へ譲り渡し、亥の森へ遷座した理由は不明。
 通常、祭神の交代は、古い神を戴く氏族と新しい神を戴いてやってきた氏族間の抗争に旧氏族が敗れ、敗れた旧氏族の神は末社へとおとしめられるか消滅したといわれ、当社の遷座由来も、そういった史実あるいは伝承を反映したものともいうが、当地にあって、イタキソの神(イタケル以下の3座かどうかは不明)を戴く旧氏族についての伝承等はみえず、新旧氏族間の抗争を示唆するものもない。
 あえていえば、当社が属する郡名・名草郡が、神武東征に際して東征軍に抵抗し誅された名草戸畔(ナグサトベ)に因むと思われ、イタキソの神はその後裔氏族が奉じたとも思われるが、神話上の話であり確証はない。
 なお、先代旧事本紀には、「イタケル・オオヤツヒメ・ツマツヒメの三座は紀伊国造家が斎き祀る神なり」とあるが、これが本来のものかどうかは不詳。
 祀る人がいなくなった神は祟るということから、その祟りを怖れた新来の紀伊国造家がイタキソ祭祀を継承したのかもしれない。

 これについて松前健氏は、概略
 ・イタキソの旧地が日前神の神域であったとする伝承は、このイタキソの神と日前大神とが未分化であったころの名残ではないか
 ・当社蔵の紀伊国伊太祁曽明神御縁起事(成立年次不明)との古文書では、イタキソの神を日出貴大明神(ヒダキ)とか居懐貴孫大明神(イダキソ)とか呼んで、日輪もしくは日の御子を懐く母神的存在として描いている
 ・日前・国懸神宮の神も「船に乗る日神」と推測されるが、その神はもともと母と子の神で、母神の方が朝廷の天照大神と無理に同体視されたため、国懸大神が宙に浮いてしまったのではなかろうか
 ・すなわち、本来は太陽神(日神)とならんで樹木の生成や田畑の豊穣を司る原母神が祀られていたが、片方が皇祖神と同一視されるとともに、もう一方は実体のない名だけの神格として国懸大神となり、それに伴って、樹木生成および船の神という内性が独立して他に遷され、イタキソ神という形になったのではなかろうか
 ・当社の北約2.5km に境外末社・丹生神社は例祭のとき神輿渡御があるが、その祭神はアマテラス他2座であり、これはイタキソの神に曾て日神としての内性があったことの痕跡ではないか
という(日本の神々6)

 紀伊半島沿岸を拠点とする海人族の存在からいうと、彼らが奉齊する神が渡来神であった蓋然性は高く、大隅八幡宮縁起にいうように渡来神が母子神である事例は多く、松前説は一説として評価すべきだろうが、その論理はも一つしっくりこない。

 今、当社の東南約500mの田圃の中に亥の森(杜)と呼ばれる森があり、当社の旧社地という(下記)
 そこにイタケルと妹神2座を祀る祠(三生神社-ミブ・当社摂社)があることから、当社が曾て亥の森に鎮座していたことは確かだろう。

 亥の森から現在地への遷座時期について、由来は古文書・寛永記(1643)を挙げて元明天皇・和銅6年(713)というが、続日本紀文武天皇・大宝2年(702)2月28日条には、
  「この日、伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売をそれぞれの地に分け遷した」(正史上の初見)
とあり、和銅6年より早く大宝2年に現在地に遷ったという(松前健・日本の神々)
 大宝2年・和銅6年のいずれが真なのかは不詳だが、いずれにしても、現在地への遷座は8世紀前半ということになる。

 なお、大屋津比売(オオヤツヒメ)・都麻津比売(ツマツヒメ・抓都比売とも記す)とはイタケルの妹神で、神名帳には伊太祁曽神社の次に『大屋津比売神社 名神大 月次新嘗』・『都麻都比売神社 名神大 月次新嘗』として、当社とは別に、それぞれ和歌山市宇田森および同吉禮宮(平尾若林に論社あり)の地に祀られていることから、現在地への遷座は伊太祁曽神社単独と思われ、今、当社脇殿に祀られている妹神2座は後世になっての追祀であろうという(松前健)

 当社の正史上での初見は、上記大宝2年の記録だが、その後、
 ・嘉祥3年(850)10月壬子 紀伊国伊太祁曽神 従五位下 --文徳実録
 ・貞観元年(859)正月27日 紀伊国伊太祁曽神 従五位上 --三代実録
 ・元慶7年(883)12月28日 紀伊国従四位下・・・イタケル神 並びに従四位上 --同上
との神階授叙記録があり、また紀伊国神名帳(成立時期不明、平安末期から鎌倉初期ともいう)
 ・名草郡 正一位勲八等 伊太祁曽大神
とあるが、正一位の授叙が何時のことかは不明。


※祭神
 主祭神--五十猛命(別名:大屋毘古神・オオヤビコ)
 配 祀--大屋津比売命(左脇宮)・都麻都比売命(右脇宮)

 この三神は、書紀8段一書4・5に出てくるスサノオの御子神で、スサノオとともに韓土から戻り全国に樹の種を播いたことから樹木の神として崇敬され、紀伊国に祀られたという(上記)

 また、先代旧事本紀には、スサノオの御子として
  「次に五十猛命(亦の名大屋彦命)、妹・大屋姫命、次・抓津姫命。 これら三神は紀伊国に鎮座されている。即ち紀伊国造か斎き祀る神である」
とある。

 別名・オオヤビコとは、古事記にいう
  「(オオナムチが、兄の八十神に迫害され殺されかかったとき)カミムスヒが『お前が此処にいたら、遂には八十神達によって殺されてしまうだろう』といって、紀伊国(木の国)のオオヤビコのもとに遣わされた。
 ところが、八十神達が追いかけてきて、弓に矢をつがえてオオナムチの引き渡しを迫ったので、オオヤビコはオオナムチに『スサノオが坐す根の堅州国へ行け』といって、木の股をくぐらせて逃がした」
によるもので、オオヤビコが木国即ち紀伊国に坐す神であり、オオヤが大きな家を意味し木材と不可分な関係にあることからイタケルの異名同神というもので、一般に認められているという。

 わが国の古俗として、
  「山の神は秋の決まった日(山の神祭の日)に山に入り各種の樹木の木種を集め、春の決まった日に再び山に入って木種を播き、併せて木の生長を調べたり木の数を数えたりするから、その日に山に入り山の神に出逢うと木の数に数え込まれてしまい帰れなくなるとして、その日、人々は山に入るのを忌んだ」
という風習(信仰)があったという。

 この風習からいうと、木種を播いて廻ったイタケル三兄妹(イタキソ神)は、単なる樹木の神というより、樹木を管理し生成を司る山の神とみることもできる。
 山の神の神格は幅広く、山に生きる動植物の守護神であるのみでなく、山麓に生命の水をもたらす水神でもあり豊穣をもたらす田の神でもある(山の神は春里に降りて田の神となり、秋豊穣を見とどけて山に帰るという)
 当社は、多様な山の神信仰のなかで、樹木の神としての神格が強調され、それが、書紀にいう樹木の神・イタケルと結びついたのではないかと思われる。

 配祀されているオオヤツヒメ・ツマツヒメについて、書紀には、イタケルとともに木の種を播いて廻ったたというのみで他に記述はなく詳細は不明。

※社殿等
 一の鳥居を入り、長い参道を進んだ右側(西側)に二の鳥居が東面して立ち、神池に架かる朱塗りの神橋を渡って境内へ入る。
 境内正面の石垣上に横長の割拝殿が建ち、そこを入った先、瑞垣(格子塀)に囲まれた中が本殿域で、瑞垣の中央に堂々たる拝所(中門)がある。

 
伊太祁曽神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居
 
同・神橋
 
同・割拝殿
 
同・本殿域正面(拝所) 

 本殿域には3棟の社殿が並び、中央が主祭神・イタケルを祀る本殿(流造・桧皮葺、大屋根のみがみえる)で、その向かって左にツマツヒメを祀る脇殿(流造・桧皮葺)、右にオオヤツヒメを祀る脇殿が、いずれも東面して鎮座する。


同・都麻津比売命社・本殿 
 
同・五十猛命社・本殿

同・大屋津比売命社・本殿 

◎境内社
 本殿域の左(西側)に境内社4社と磐座がある。
 ・気生神社(キショウ)--五十猛命の荒魂--案内なく由来等不明
 ・蛭子神社(ヒルコ)--蛭子大神他22柱
   社頭に掲げる案内には、
  「伊太祁曽神社区域内に祀られていた22の産土神を、明治の神社合祀令によって合祀したもの」
とあり、中央に蛭子大神が、その左右に合祀された22社の神々が祀られている。
 ただ、蛭子大神を祀る由緒は不明。

 
気生神社
 
蛭子神社

 
同・内陣
(中央に蛭子大神、
左右に合祀された神々の名が並ぶ)

 ・御井神社(ミイノヤシロ)--彌都波能売神(ミズハノメ)・御井神
 本殿域と気生神社間の切り通しを入った先の小平地に鎮座する小祠で、栞には、
  「境内山中の井戸より涌く水は、古来より命の水と呼ばれてきました。病人に飲ませると活力を得ると伝えられています」
とある。
 境内には、簡単な覆屋の中に「いのちの水」と称する井戸があり(井戸枠は石製で蓋がされている)、その奥に小祠が鎮座し、まわりには水色地に白で「いのちの水 御井社」と染め抜いた幡が林立している。

 
御井社・鳥居

同・井戸 

同・小祠 

 ・祇園神社--須佐男命・天照皇大神・埴安比売命(ハニヤスヒメ)
  社殿域から南へ少し離れた小山の上に鎮座する小祠で、社頭の案内には、
 「伊太祁曽神社の祭神・五十猛命の父神様である須佐男命をお祀りしています。神社合祀令により、氏子区域内に祀られていた祇園社4社(塩ノ谷・明王寺・山東中・奥須佐)も明治42年にここに合祀されました。現社殿は平成23年に改築されました」
とある。
 イタケルの父神・スサノオを祭神とすることから氏子域内の祇園社4社(本来は防疫神・ゴズテンノウだったと思われる)を合祀したのだろうが、アマテラス・ハニヤスヒメ(土の神)を祀る由緒は不明。


祇園神社・登坂口の鳥居 
 
同・社殿域
 
同・小祠

 ・磐座(イワクラ)
  祇園社石段下に磐座があり、傍らの案内には
  「神代の昔、スサノオとイタケルは高天原より天降るとき、新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に降り立ちますが、『この国には居たくない』として舟を作り東へ渡り、出雲国の簸川上(ヒノカワカミ)の鳥上峯(トリガミミネ)に至ります。・・・
 この度、東出雲の鳥上峯(船通山)の磐座をここ祇園神社の社前に神祀りし彼の地を遙かに拝む縁といたします」
とある。
 ・櫛磐間戸神社(クシイワマト)--櫛磐間戸神・豊岩屋戸神
  一の鳥居を入ってすぐの左側に鎮座する小祠で、まわりには「門神社」と染め抜いた水色の幡が立つ。
  祭神・イワマト神は門口を守る神(クシ・トヨは敬称)であることから、境内入口に祀られたのであろうが、鎮座由緒等は不明

 
磐 座
 
櫛磐間戸神社
 
同・社殿

【亥の森】(伝・伊太祁曽社旧社地)
  三生神社(ミブ)--五十猛命・大屋津姫命・都麻津姫命

 当社の東南約500mにある。
 当社前の道を少し南へ、東側の丘陵地内に連なる民家間の小路を抜けた先、田畑の中にある小さな森(市販地図等に森の表示はないが、ネット地図-写真版でみれば田畑の中に小さな森がある)
 森の南側、注連縄を渡した白い〆柱が樹木に隠れるように立ち、その奥、叢林の中の小さな平地に三生神社の小祠が南面してポツンと鎮座している。
 社名表示・案内表示などなく、地元の人に聞いても知っている人は少ない。
 また、田畑西側の道(この道を北へ行くと伊太祈曽駅東側へ出る)から森へは田畑の畦を行く他なく、由来がいう亥の森祭が行われているような痕跡は見えない。


亥の森(杜)
(南からの景観) 
 
三生神社・〆柱
(奥に小祠が見える)
 
同・小祠

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