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丹生官省符神社
付--慈尊院
和歌山県伊都郡九度山町慈尊院
祭神--丹生都比売大神・高野御子大神・大食都比売大神・市杵島比売大神
慈尊院本尊--弥勒菩薩座像
                                                             2018.05.11参詣

 JR和歌山線・九度山口駅の南南西約1.5km、紀の川を渡り、南岸沿い国道4号線の慈尊院交差点から南へ入った処に慈尊院(ジソンイン)が、その境内奥の石段を上った高所に丹生官省符神社(ニウ カンショウフ、式外社)が鎮座する。
 いずれも世界遺産「紀州山地の霊場と参詣道」の構成資産。

※由緒
【丹生官省符神社】
 頂いた参詣の栞には、
 「当神社の草創は古く、弘仁7年(816)弘法大師・空海によって創建されました。
 空海は真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出立ち各地を行脚され、途中大和国宇智郡に入られたとき、一人の気高い猟師に出会い、高野という山上の霊地のあることを教えられました。猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。

 此の所は天下無双の霊地であり、空海は此の処を教えてくださった猟師は、神様(地主神)が姿を猟師に現し、化現(ケゲン)狩場明神(カリバミョウジン)となり、神託として一山(高野山)を与え下さったものであると、想念の内に感得されたのでした。
 その事を嵯峨天皇に上奏し、天皇は深く感銘され、高野山を空海に下賜されたのでした。
 狩場明神の尊い導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。空海はその思いを政所(マンドコロ)として慈尊院を開いたとき、参道中央上壇に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀され、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地、即ち神通寺の壇とし、慈氏寺の檀と併せて萬年山慈尊院と称されたのでした。

 弘法大師によって創建鎮座爾来、御社号を丹生高野明神・丹生七社大明神・丹生神社・丹生官省符神社と変遷し、県内外を問わず尊崇を受け、官省符莊(荘園)の総社(総氏神)として栄えました。
 紀伊名所図会(天保年間)では、数多くの御社殿等が立ち並び荘厳を極めていましたが、明治維新後、神仏判然令(神仏分離令)等により多くの建物は取り除かれ、天文10年(1541・室町時代)に再建された本殿の内、三棟(国指定重要文化財)が往年の姿をとどめ現在に至っています」
とある。

 また、紀伊続風土記(1839)には
 「神通寺七社明神
  ・一宮(丹生明神) ・二宮(高野明神) ・三宮(氣比明神) ・四宮(厳島明神) 
  ・三社宮(大神宮・八幡宮・春日明神)  ・十二王子社  ・百二十番社
  慈尊院の山上石階を登ること一町許りにあり。官省符荘21村の産土神なり。七社のうち丹生・高野2神は弘仁年中(810--24)大師の勧請なり。氣比・厳島2神は文明年中(1469--87)の勧請といひ伝ふ。

 此の四社、天文の洪水以前は北の方・宮の橋といふ地にあり。
 三社宮は古官省符莊の氏神にて 今の社壇の巽(北西)一町の神楽尾山にありしを 天文年中慈尊院を移せしとき倶に移して七社明神とし 一莊の総氏神とす(以下略)
とあり、紀伊国名所図会にも、社殿域に7社が東西に並んで描かれている。

 官省符荘とは、太政官と民部省から認可された荘園という意味で、国の干渉をうけない不入の特権と、国へ税金を納めることがいらない不輪租の特権をもつ荘園をいう。
 高野山北麓に位置する当地は、古くから高野山金剛峯寺が実質支配する地であったが、寛弘元年(1004・平安中期始め)の太政官符により臨時雑役が免除され、その後、領域が拡大・集約等変遷するなか、永承4年(1049・平安中期)に朝廷から租税官物免除と国司不入が認められ、官省符荘(東西約10km・南北約8km)が成立したという(Wikipedia・概要)

【慈尊院】
 頂いた参詣の栞には
 「慈尊院は、弘仁7年、弘法大師が高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たるこの地に、表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。

 大師の御母公(玉依御前・タマヨリゴゼン)が香川県善通寺(讃岐国多度郡)より、我が子が開いている山を一目見たいとの一念から、ご高齢にも関わらず当院へ参られ、ご本尊・弥勒菩薩を篤く尊崇せられた。
 承知2年(835)2月5日、御母公が入寂された時に、大師は母公が弥勒菩薩になられたとの霊夢により廟堂を建立して、自作の弥勒仏と御母公の霊を安置されました。
 慈尊とは弥勒菩薩の別名で、これより表向きに『慈尊院』と呼ばれるようになりました」
とあり、

 紀伊続風土記には、
 「慈尊院村の巽(南東方)にあり、弘仁7年弘法大師高野山に伽藍を草創し、三冬の厳寒を避けむか為に此の地に一宇を結びて高野山の政所と称し、領内地方の支配をなす。
 承和元年(834) 大師の母・阿刀氏讃岐より来たりし時、しばらく此の地に居住し、同2年83歳にして寂すとき此の地に葬り、廟を建て弥勒菩薩と尊敬し、諡(オクリナ)して慈尊院と称す。当院号も是より起れり。
 一説に、大師母公の為に弥勒菩薩を制作し、当寺を草創しこれを安置す。弥勒安置の壇を慈氏寺と称し、明神勧請の壇を神通寺と号す」
とある。


 この由緒・縁起によれば、官省符神社と慈尊院は、弘仁7年、空海によってほぼ同時に創建開基された社寺であり、官省符神社は官省符荘の総社であるとともに慈尊院鎮守社でもあったと思われるが、明治の神仏分離以降は分離して別々の社寺となっている。
 なお、当院の本尊・弥勒菩薩のインドでの古称・マイトレーヤが“慈悲・慈しみ”を意味することから、弥勒菩薩の別名を慈尊或いは慈氏ともいう。

 大師の母堂が来山したが、当時の高野山は山内7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあった当院に留まったもので(当寺までは女性が来られたので、女人高野ともいう)、空海は、月に9度山を下つて母堂を訪ねたといわれ(それだけ頻繁に訪れたということ)、9度訪ねたことからこの辺りを九度山と呼ぶようになったという。

 創建当時の慈尊院は今の場所より北の方にあったといわれ、紀伊続風土記には
 「此地の堂舎旧は紀の川側にあり〔当院の北一丁余りに旧の下乗石あり、旧南門の跡なりといふ〕
 別当中橋氏の家譜に、文明6年(1474)信州の尼・妙音といへる者来たりて、此地洪水の災に罹るべきことを別当中橋弘当に告げ、共に廟堂社頭を今の地に移す。天文9年(1540)夏4月9日 果たして洪水出て残りし堂舎悉く流失すといへり(以下略)
とあり、
 参詣の栞には
 ・文明6年 ご廟(弥勒堂)を現在の場所に移された
 ・天文9年 紀の川の氾濫により慈氏寺諸堂の大半は流れ、残った堂塔を弥勒壇に縮小移転し、天文10年3月落慶供養されたが、高野山も政所の事務を山上に移し、宝蔵の什宝をすっかり山上に運び上げてしまった
 ・天文13年(1544)7月 紀の川にまた大水が出て、残っていた旧慈氏寺はみな流され紀の川の川床となってしまった
とある。

  参詣の栞に掲載されている紀伊国名所図会(1830--44・天保年間)
   「高野山麓 慈尊院」
 との絵図には、慈尊院と官省符神社が一葉のなかに描かれ、
 中央の慈尊院境内(慈氏寺の壇とある)には本堂・多宝塔など現在とほぼ同じ堂舎がみえ、
 その背後、石段を上がった処に官省符神社(神通寺の壇とある)が鎮座し、その本殿域には社殿7棟が並列している。








名所図会・慈尊院(参詣の栞より転写)

※祭神・本尊
【丹生官省符神社】
  祭神--参詣の栞には次のようにある
   第一殿--丹生都比売大神(丹生明神) 天照大御神の御妹 
           高野御子大神(高野明神)  真言密教の守護神 丹生都比売の御子 導きの神
           天照大御神
   第二殿--大食都比売大神(気比明神) 五穀酒造の神
           誉田別大神(八幡大神)
           天児屋根大神(春日大神)
   第三殿--市杵島比売大神(厳島明神) 合祀祭神

 丹生都比売大神・高野御子大神・大食都比売大神・市杵島比売大神については、別稿・丹生都比売神社参照
 天照大御神・誉田別大神・天児屋根大神は、古く、当社の巽(南東)一町の神楽尾山にあった官省符莊の氏神社を、天文年中、慈尊院の当地移転と一緒に移したものという(紀伊続風土記)

 なお、紀伊続風土記によれば、当社には本殿7社があったといわれ(上記・名所図会)、これが明治初年の神仏分離令によって十二王子社・百二十伴神社が廃止され(仏教的色彩が強いとされたためらしい)、天照大御神社・八幡大神社・春日大神社が第一殿・第二殿に別れて合祀されて現在の三社構成になったという。

【慈尊院】
   本尊--弥勒菩薩座像(寛平4年-892作・高さ91cm、国宝)
  弥勒菩薩(ミロクボサツ)とは、釈迦入寂後56億7000万年後にこの世に下生し、教えを説き衆生を救済するという未来仏で、今は兜率天(トソツテン、仏教でいう六道の一つ・天界のうち下から4番目に位置する世界で、下生するまでの菩薩が住むという)で修行しており、時が来れば、この世への下生するという(弥勒下生信仰)
  なお、56億7000万年後まで待てないとして、弥勒菩薩を信仰することで死後兜率天に往生し、弥勒とともにこの世に下生しようとする信仰があり、これを弥勒上生信仰という。

  高野山では、大師が入寂時に弟子たちに、
  「我は兜率天にのぼり弥勒菩薩の基へ参るであろう。そして、56億7000万年後、弥勒菩薩とともに下向するであろう」(大要)
と遺言したとの伝承があり、当寺の弥勒菩薩は弘法大師の本地仏という。

※社殿・堂塔等
【丹生官省符神社】
 慈尊院境内の中央奥(南)にある119段の石段を上がった上に、朱塗りの両部鳥居(四脚の控柱がある鳥居)が立ち、境内に入る。
 なお、石段途中の踊場に立つ石造鳥居の右に「百八十番町石」と刻した石柱が立っている(下記)


慈尊寺からの石段 
 
丹生官省符神社・鳥居 

◎拝殿
 境内正面に入母屋造・瓦葺きの拝殿が建ち、左右に短い袖廊が延びている。
 一見して、神社の拝殿というより、寺院の堂舎を思わせる社殿で、当社が神通寺と呼ばれていた頃の面影を残している。


 同・拝殿(正面) 
 
同・拝殿

 拝殿内部の左壁に、狩場明神と弘法大師との出会いを描いた大絵馬が、右壁に獅子頭2面(複製)が懸かっている。
 この獅子頭について、面下の説明には、
  「左は室町時代、右は江戸時代のもので、県指定文化財
   2面ともに大型の獅子頭で、紀伊名所図会『官省符祭』には、揃って神輿渡御に参加している様子が描かれている」
とある。


大絵馬 

獅子頭面 
 
紀伊名所図会・官省符祭(部分)
(右下に獅子頭らしき面を被った人がみえる)

◎本殿(重要文化財)
 拝殿・弊殿背後の一段高くなったところが本殿域で、朱塗りの透塀に囲まれたなかに本殿3棟が東西に鎮座する。
 傍らの案内には、
 「嘗ての当社は神々を合祀し『七社明神』とも称されたが、明治に入って三殿となった。
  向かって右から第一殿・第二殿・第三殿と配置され、同規模・同型式の社殿となっている。  
  承和51年の解体修理により、第一・二殿は、発見された墨書から永生14年(1517)の再建で旧社地から移築されたことが、第三殿は棟札から天文10年(1541)の再建であることが明らかとなった。
  社殿は、いずれも一間社春日造・檜皮葺で丹塗りと極彩色が施された華麗な社殿が横一列に並び、背後の社叢と絶妙なコントラストをなしている」
とある。
 通常 拝殿奥には入れないようだが、団体参拝ということで近くから実見出来た。


丹生官省符神社・本殿
(左から第三殿・第二殿) 

同・本殿
(右の第一殿は樹木に隠れてよく見えない) 
 
同・弊殿から本殿を望む
(右が第一殿)


【慈尊院】
 北側道路から一段高くなった処に表門(北門・総門ともいう・県指定文化財)が建ち、境内に入る。
 表門の左右には古びた土塀が延びている(下記)


慈尊院・境内略図
(参詣の栞より転写・下が北) 

 
慈尊院・表門
 
同・境内(西側部分)
(多宝塔の左に官省符神社への石段あり)

 境内左手、北に本堂(弥勒堂・ご廟ともいう)が、その南に拝堂が建ち、
 右手に北から大師堂・訶梨帝母堂(カリティモ)が建ち、その南側に多宝塔が聳える。
 また、境内正面奥・多宝塔の左に丹生官省符神社へ至る119段の石段がある。

◎本堂(弥勒堂・重要文化財)
  本尊--木造弥勒仏座像(国宝、貞観時代・桧一木造り)
 参詣の栞には
 「大師の母公が承和2年83才にて入寂により、お墓としてご廟を建て、弥勒菩薩を安置した
  弥勒堂は方三間(6.39m)、宝形造、桧皮葺きの低い建物で、安定感があった、平安末期頃の輪郭を残しているといわれる」
とあり、正面左手の植え込みのなかに「弘法大師 御母堂廟室」と刻した小さな石碑がある。

 四方瑞垣の中に建つ本堂は、四面宝型造・桧皮葺きの建物で、内部中央の一間四方の内陣に本尊を安置しているというが、正面扉が閉まっていて実見不能(常時は開帳していないらしい)


本堂(弥勒堂) 

本堂・正面 
 
本尊・弥勒仏座像
(栞より転写)

◎拝堂
 本堂の南に建つ建物で、承和2年、真然(シンゼン)僧正の創立という。
 傍らの案内板には
   本堂(拝堂)  弘法大師真筆御影
             弥勒菩薩図像(重要文化財・日本最古)
             高野山奥の院灯籠堂を模して、当堂より前の弥勒堂の御本尊を拝む堂として建設
とある。
 現拝堂は大正13年(1922)の建造という。
 堂内には、弥勒菩薩母公と弘法大師の画像が祀られているといわれ、内陣には左右同型の祭壇がみえるが、いろんな仏具が置かれていて画像そのものはみえない。

 
拝 堂
 
同・内陣

◎大師堂

 表門を入ったすぐ右手にある建物で、傍らの案内板には 
 弘法大師堂(ゴマ堂)
  当堂は四国堂とも呼ばれ、弘法大師をご本尊としています。
  脇仏として、本四国八十八ヶ所のご本尊88躰を安置
  ここにお参りすれば、四国にお参りされたと同じ御利益が得られます。
とある。
 扉が閉まっていて内陣の拝観は不能。

 案内板に“ゴマ堂”とあることからみると、嘗て独立してあった護摩堂が当堂に移されたかと思われる。
 なお、堂の左廊下奥に賓頭盧尊(オビンズル)の像がある。 

 

◎多宝塔(県指定文化財)

  境内右手奥に建つ朱塗りの多宝塔

 本尊--胎蔵界大日如来
 脇仏--胎蔵界四仏(阿閦如来・宝生如来・不空成就如来・阿弥陀如来)

 参詣の栞には
  方4.5m、本尊は大日如来、大日塔ともいう。
  大師の創立、今の塔は寛永年間(1624--43)の再建(平成24年解体修理完了)
とある。




◎訶梨帝母堂(カリティモ)
 境内右側(西側)、多宝塔と大師堂に挟まれてある小堂だが、紀伊続風土記には
  「境内の乾(北西)隅にあり 旧に大師の勧請なり 文明年中(1469--87)此処に移し 元亀2年(1571)再建すといふ 鳥居あり」
とあり、紀伊国名所図会でも境内北西隅(大師堂の北側)にみえ、今とは位置が異なっている。

 訶梨帝母とはサンスクリット語の音・カリティモを写したもので、わが国では鬼子母神(キシモジン)の名で知られている。
 仏典によれば、カリティモは鬼神パーンチカの妻で500人の子があったといわれ(一千人とも一万人ともいう)、それを育てるために人間の幼児を捉えて喰っていたことから、人々から恐れられていた。
 そこで、釈迦が彼女の末子・ピンカラを隠したところ、半狂乱となって探し回ったが見つからず釈迦に助けを求めた。
 釈迦が、「多くの子をもっているお前でも、一人の子がいなくなっただけで そんなに悲しいように、人々も子供を失うのは大きな悲しみなのだ」と諭すと、彼女はそれまでの悪行を止め、仏の教えをまもり、子供の養育を助けることを誓ったので、ピンカラを戻してやった。
 その後のカリもティは仏教の守護神、特に子供と安産の守り神となった、という。

 訶梨帝母(鬼子母神)信仰は平安末頃には伝来していたといわれ、法華経陀羅尼品で、法華経を説く釈尊の前に、羅刹女(ラセツニョ)とともに現れた鬼子母神が、声を合わせて
 「世尊よ 我等 自らこの経を受持し読誦し修行せん者を擁護して安穏なることを得せしめ、諸々の喪患から離れさせ、衆の毒薬を消せしむべし」
と誓ったとあり、これを信じた日蓮によって日蓮宗では守護神として尊崇するという。

 当院の訶梨帝母は、当院が女人高野として女性の信仰を集めたことから、その守護神として祀られたものであろう。

◎五輪石塔
 表門を入ってすぐの左手、本堂玉垣内に五輪塔2基がある。

 参詣の栞には、
 「この石塔は承安元年(1171)12月、慶幸俊厳が慈氏寺に放火して全焼させた
 本尊弥勒菩薩など少しの仏像や宝物を出しただけで、経巻・道具類はたいてい焼いてしまった
 その灰塚として悲しみのうちに建てられたのが、この石塔2基である」
とあり、
 傍らの案内には
 「2基とも銘文はないが、鎌倉時代の様式をもち、欠損のない重厚な作品で、天文の流失前の慈尊院とその変遷を偲ぶ貴重な資料である」
とある。
 植え込み内の玉垣の後ろにあって、注意しないと見逃す。
 

◎その他の堂塔

*鐘楼・弁財天堂
  境内南東隅に並んで建つ建物で、傍らの案内には
  「昔 この場所に辨弁天・稲荷明神に大変信仰の厚い後藤角女と申す老女が、人々を救済し功徳報恩報謝のため鐘楼堂を建立された」
とある。








 

鐘楼 

弁天堂

*地蔵尊像
 本堂正面左前に地蔵尊座像が鎮座し、その背後から右手に小さな地蔵像が百躰以上並んでいる。
 案内等みえず由来等は不明だが、紀伊続風土記に、「水向地蔵堂 多宝塔の北にあり」とあり(今は消失している)、これの流れを引くものかもしれない。

*乳房型絵馬
 本堂正面左手に、乳房をかたどった絵馬が多数奉納されている。
 子授け・子育てを祈願して奉納された絵馬だろうが、これだけ並ぶとと異様な感じを受ける。


地蔵尊 
 
乳房形絵馬
 
乳房形絵馬

*築地塀(県指定文化財)
 慈尊院の周囲は古い土塀に囲まれ、傍らの案内には
 「この築地塀・北門は、紀伊続風土記や高野春秋などの古記録によれば、天文9年の紀の川洪水による旧慈尊院流失時には既に建てられていたようである。
 遺構は、様式や技法からみて16世紀の建立になり、築地塀は全国的にみても非常に珍しいものであり、また高野政所としての歴史を知る貴重な遺構である」
とあり、参詣の栞には
 「境内の周囲約250m、その東西北三方に土塀をめぐらし、北にある表門のほか東と西にも門があり、ともに下乗札がかかっている」
とある。
 なお、西側築地塀沿いの道路は、嘗ての町石道の一部だったようで、道路脇の柱に「町石道」との表示がかかっている。


築地塀・表門左部分 
 
同・右部分
 
同・西側部分(旧町石道沿い)

*下乗石(県指定文化財)
 表門の左前に「下乗石」との石標がある。
 傍らの案内には、
  「この下乗石は、天文9年(1540) 紀の川の大洪水によって流出した旧慈尊院南門に建立されていたものの上部である。
 紀伊国名所図会に
  『慈尊院村の北路傍にあり。法務権僧正定海と記せり。長者補任によるに、保延2年の建立なり』 
とあり、保延2年(1136)の建立なれば、県下最古の下乗石である」
とある。

 築地塀前の植え込みの中にあるが、下半分は土中に埋もれているようで、注意しないと見落とす。

◎町石(チョウセキ)
 慈尊院から官省符神社への石段を1/3ほど上った踊場に立つ石造鳥居の横(西)に、「百八十町石」と刻した古い石柱が立っている。

 町石とは、高野山への道中に一町(約109m)毎に立てられた“道しるべ”で、起点である高野山壇上伽藍の根本大塔前から、終点の当地までの約180町(約24km)の間に180基(続風土記には270基とある)の町石があったといわれ、別に大塔前から奥の院・大師霊廟の間にも36基の町石があったという。
 当地に立つ“百八十町石”は、根本大塔前に発する町石道の終点(180番目)を示す町石だが、逆にみれば、高野山への起点であり、高野山参詣者は当慈尊院参詣後、町石道を通って高野山へ登ったという。
 町石の上部は五輪の形、下部は方形の柱状を呈しており(その形から町石卒塔婆ともいう)、石柱部分上部には諸菩薩を表す梵字が下部には大塔前からの番号が刻まれている。

 紀伊国名所図会に
 「町卒塔婆(チョウソトバ)  二重塔(現多宝塔)の南路傍にあり ここより高野山壇上まで百八十町あり
  むかし大師 木を以て造立し給ふ 朽腐して数百年を経しより 文永2年覚教阿闍梨 大師のお告げを蒙りて 石を以て改造す」
とあるように、当初は木製の卒塔婆だったが、風雨にさらされて老朽腐食したため、鎌倉中期の文永2年(1265)に、遍照光院覚教上人(カクキョウ)が弘法大師のお告げがあったとして石造化を発願し、20年の歳月をかけて弘安8年(1285、建治3年-1277ともいう)に全基完成したという。

 傍らの案内には、
 「高野山への道は、山に近づくにつれて互いに合流し、7つの道に集約され山内に入ってきます。
 その7つの道のうち、表参道と呼ばれているのが『町石道』です。大師自身が踏みしめ、過去多くの人々が参拝登山した町石道は、それ自体が信仰の対象とされてきました。
 高野山への表参道・町石道は“祈りの道”ともいえます」
とある。
 なお、高野山壇上伽藍に建つ根本大塔の東脇に、「一町」と刻した町石が立っており、ここが町石道の起点であろう。

 
百八丈町石・全景
(右手に町石が立つ)
 
百八十町石
 
根本大塔脇の
「一町」町石
 
町石脇の石造鳥居

 なお、町石脇の石造鳥居(九度山町指定文化財)について、脇の案内には
 「この鳥居は、宝永2年(1705)3月、九度山村岡之兵衛氏の浄財によって、九度山槙尾山明神社の参道(鳥居芝)に建立されていたものである。
 明治43年の神社合祀に伴い、大正10年8月 多くの人たちの奉仕によって現在地に移されたものである」
とある。

【附記】
 当院の堂舎について、紀伊続風土記には
 ・弥勒堂  方三間 宝形造 北門の中東の方瑞籬の内にあり(本堂・廟堂ともいう)
 ・拝 堂  二間に五間 廟前にあり 承和2年(835)眞然僧正の草創といふ 今の堂は元和6年(1620)の建立なり
        堂内両壇あり 奉念建壇の本尊弥勒の影は 阿刀氏(大師母堂)自形を水に写して描くといふ 
        奉供建壇の本尊大師の影は大師の真筆にして 里人於登伎の御影といふ
 ・多宝塔  方二間半 廟の坤(北西)にあり 本尊は胎蔵界大日如来 旧は大師の草創にして 承安年中(834--48)炎上の後 田所某再建あり
        文明年中(1469--87)此地に移して其功いまだ終わらず 寛永乙丑の年(2年・1624) 両院全秀落成すといふ
 ・大師堂  方四間 多宝塔の北にあり 堂内に四国八十八箇所の本尊を安ず
 ・水向地蔵堂  多宝塔の北にあり
 ・宝篋印塔(ホウキョウイントウ)  多宝塔の南にあり
 ・護摩所  九間に六間 本尊不動明王は智証大師の眞蹟といふ 祭礼法事の時の会所なり
 ・鐘 楼   拝堂の巽にあり
 ・訶梨帝母社  境内乾隅にあり(上記)
 ・北門(総門なり)  ・東門  ・西門
とある。

 今の境内には、これらの堂舎のうち水向地蔵堂・宝篋印塔・護摩所(今の庫裏の処にあったという)はみえない。

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