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丹生都比売神社
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野
祭神--丹生都比売大神(稚日女尊)・高野御子大神
   大食都比売大神・市杵島比売大神

                                                             2018.05.11参詣

 延喜式神名帳に、『紀伊国伊都郡 丹生都比女神社 名神大 月次新嘗』とある式内社。
 紀伊国一之宮を称する古社で(他に2社あり)、その鎮座地の地名から天野社とも呼ばれる。
 平成16年(2004)7月に登録された世界遺産・「紀州山地の霊場と参詣道」構成資産のひとつ。

 JR和歌山線・笠田駅の南東約5kmに鎮座する。
 笠田駅より、かつらぎ町コミュニティバス(天野コース)にて約30分、終点・丹生都比売神社前下車すぐ。

※由緒
 社務所でいただいた『紀伊国一之宮 丹生都比売神社 御由緒』(以下“由緒”という)によれば、
 「紀の川より紀伊山地に入り標高450mの天野盆地に当社が創建されたのは古く、今から1700年以上前のことと伝えられます。
 天平時代(729--49)に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞』(ニウダイミョウジン ノリト)によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命(ワカヒルメ)とも申し上げ、神代に紀の川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。
 播磨風土記によれば、応神天皇が社殿を紀伊山地北西部一帯の広大な土地を神領として寄進されたとあります。

 ご祭神のお名前の『丹』は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、古代から魔除けの力があるとされ、魏志倭人伝には既に耶馬台国の時代(3世紀)に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに『丹生』の地名と神社があります。
 全国にある丹生神社は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社、攝末社を入れると180余を数え、丹生都比売神社は、その総本社であります。

 今昔物語によれば、丹生都比売大神の御子・高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。
 弘法大師は、丹生都比売神社よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。・・・中世、当社の周囲には数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離まで当社は56人の神主と僧侶等で護られてきました。

 鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が4殿となり、このころから国家安泰を祈る舞楽法会が江戸時代まで盛んに行われます。
 現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。(以下略)
という。

 由緒は、当社の創建を“今から1700年以上前”という。1700年前といえば西暦3・4世紀で弥生後期から古墳前期にあたり、この頃、何らかの神マツリがあったことは推測されるが、それが神社という形態をもったものとは考えられない。
 また由緒は、播磨風土記に応神天皇の御世に神領が寄進され云々とあるというが、管見した播磨風土記(東洋文庫版・国会図書館デジタルコレクション)に、それらしき記述はみあたらない。

◎丹生都比売命
 当社祭神・丹生都比売命は記紀等には登場しない、いわばローカルな女神で、その出自は不明だが、
 由緒は、丹生大明神告門(ニウダイミョウジン ノリト・伝740年、以下「天野告門」という)からの引用として、
 「丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命とも申し上げ」
という。
 しかし、紀伊続風土記(1839・江戸後期、以下「続風土記」という)所載の天野告門には
 「紀伊国伊都郡庵太村(アンタムラ)の石口(イワクチ)に天降りまして、大御名を申さば恐(カシ)し、申さねば恐し、伊佐奈支・伊佐奈美命の御子、天乃御陰(アメノミカゲ)、日乃御影(ヒノミカゲ)、丹生都比売乃大御神と大御名を顕はし給ひて・・・」
とあるのみで、稚日女命の名はない。

 なお、ここでいう“天御陰・日御影”とは“神の坐す御舎(御殿)”のことで、天野告門の記述は、本来「天御陰・日御影の社に鎮まり坐す丹生都比売大神」とすべきを「社に鎮まり坐す」を省略したものという(告門考証)

 稚日女命とは、書紀7段一書1(天岩戸神話の前段)
 「稚日女尊が機殿(ハタドノ)で神衣(カンミソ・神の衣服)を織っておられた。それを見た素盞鳴命が斑駒(マダラコマ)の皮を剥いで部屋の中に投げ入れた。稚日女尊は驚かれて機(ハタ)から落ちて、持っていた梭(ヒ)で身体を傷つけられて死なれた」
とある女神で(古事記には“天の機織女”として出てくる)、アマテラスとの関係は記されていないが、
 先代旧事本紀(9世紀前半)神祇本紀には
 「織女の稚日姫尊が驚かれて機から落ち、持っていた梭で身体を傷つけられて亡くなったという。その稚日姫尊は天照大神の妹である」
とある。

 ワカヒルメの“ヒルメ”とは、“日の神に仕える巫女”・“日神の妻”(日の女)を指す一般的呼称で、書紀・一書1に稚日女尊が“機殿で神衣を織っていた”とあるように、神衣を織りながら神の来臨を待つ機織女をさす。
 それはアマテラスの前身・大日靈貴(オオヒルメムチ)にも通じることで、書紀本文には「天照大神が神衣を織るために、神聖な機殿におられるとき云々」とあり、これからみて、稚日女尊と天照大神(大日靈貴)とは同じ神格(機織女)を有する女神であり、そこから、稚日女尊を天照大神の妹神とする伝承が生まれたと思われ、
 その稚日女尊と丹生都比売命とを結びつけるのは、天野告門で丹生都比売をイザナギ・イザナミの御子とすることからで、同じ御子である天照大神の妹・稚日女尊と結びつけたと思われる(アマテラスと同神とする説もある)

 しかし、記紀にその名がみえない国つ神である丹生都比売命と天つ神の始祖であるイザナギ・イザナミとの接点はなく、天野告門が丹生都比売をイザナギ・イザナミの御子とする根拠は不明。
 また、書紀1段に「貴きをば尊と曰ふ、自余をば命と曰ふ」というように、丹生都比売命(国つ神)と稚日女尊(天つ神)とはその神格が異なり、この両女神を同神とするには疑問がある。

 ただ、丹生都比売命をイザナギ・イザナミの御子であり稚日女と同躰とするのは古くからのようで、天野告門以外にも
 ・根来要書所収・興教大師申状(1133・平安後期)--丹生都比売大神 天照大神の妹神也
とあり(天照大神妹説の初見という)、中世以降の諸資料にも
 ・神名帳頭注(1503・室町後期)--丹生都比女 天照大神の妹・稚日女神也
 ・紀伊続風土記(1806・江戸後期)--丹生都比咩は伊邪奈岐伊弉冉二尊の御子・天照大御神の御妹にして稚日女尊と申し
 ・神名帳考証(1813)--寺家申状に曰 丹生明神は伊弉諾・伊弉冉の御娘也
 ・神社覈録(1870・明治初頭--寺家申状に曰 丹生明神は伊弉諾・伊弉冉の御娘也 頭注曰 天照大神の妹・稚日女神也
 ・神祇志料(1871)--伊弉諾尊の御子・丹生都比女命を祀る 頭注曰 丹生都比売は天照大神の妹・稚日女神也と
 ・丹生大明神告門考証(1892・明治中期)--伊佐奈支・伊佐奈美命の御児は丹生都比売大御神にて 稚日女尊にませり
として、いずれも、丹生都比売命はイザナギ・イザナミ二神の御子で、天照大神の妹・稚日女尊とするが、
 ・特選神名牒(1876)のみは、「寺家申状に 丹生明神(丹生都比売)は伊弉諾伊弉冉二尊の御児・天照大御神の御妹にして稚日女尊と申すが、丹生都比売神と稚日女尊と同神なる証なければ信じがたく」として疑義を呈している。


 丹生都比売命の顕現については二つの資料がある。
*天野告門には、
 ・紀伊国伊都郡庵太村(アンタムラ・庵田とも記す)の石口(イワクチ)に天降り
 ・吉野の丹生川上水分峯以下20ヶ所を巡り
 ・最後に天野原(現鎮座地)に鎮座した
とあり(要約)、その巡幸範囲は紀伊国北東部(18ヶ所)から大和国南西部(2ヶ所)にわたっている。
 比売が最初に天降ったという庵太村の石口について、続風土記には、
 「庵太村は三谷慈尊院九度山辺りの地名なり。天降りし地は今の三谷村榊山、酒殿社其の地也。石口は麓の意也」
とあり、高野山の北北西の現かつらぎ町三谷に比定されている(当社の北約3km、丹生酒殿神社あり)

*播磨国風土記・逸文には
 「息長帯日女命 新羅を平定(コトムケ)せんと欲して下りましし時、衆神(カミガミ)に祈り給う。時に、国堅大神(クニカタメノオオカミ)の子の爾保都比売命(ニホツヒメ)、国造・石坂比売命(イワサカヒメ)に著きて、『よく我が前を治め奉らば善き験(シルシ)を出して、ひひら木の八尋鉾根底附かぬ国、少女の眉引きの国、玉匣(タマクシゲ)かがやく国、苫枕宝ある白衾(タクブスマ)新羅国を、丹浪もちて平伏(コトムケ)賜はむ』と。かく教(ノ)り賜ひて ここに、赤土を出し賜ひき。
 その土を天の逆鉾に塗り、神舟の艫舳(トモ)に建て、又御舟の裳(スソ)と御軍(イクサ)の著たる衣を染め、又海水を搔き濁らせて渡り賜ふ時、底潜(クグ)る魚、又高飛ぶ鳥等も往来(カヨ)はず、前に遮(サヘ)らざりき。
 かくして新羅を平伏けおへて還り上らして、すなわち其の神を紀伊国・管川(ツツカワ)の藤代の峯に鎮め奉りき」
とあり、紀伊国管川藤代峯を降臨地としている。

 この管川の地について、続風土記に
 「管川 今筒香(ツツカ)と書す。藤代峯は水呑峠又有堂峯(右堂峯)或いは子粒峯ともいふ」
とあり、今、高野山の東方に位置する伊都郡高野町筒香に比定され(当社の東約18kmの辺り、丹生神社あり)、藤代峯とは上筒香東方の筒香峠ではないかという。

 この降臨地2箇所のうち何れが真なのかは不詳だが、丹生の研究(1970・松田寿男)によれば、かつらぎ町三谷・高野町筒香の両地が共に水銀含有率の高い土地(水銀の産出地を丹生という)であり、水銀の神である丹生都比売の降臨地としておかしくはないとして、降臨地の特定はしていない。
 なお、高野町筒香の地が紀伊と大和2方向へ流れる丹生川の分水嶺にあたることから、これを天野告門にいう巡幸地・吉野川上水分峯に比定し、丹生都比売は庵太村に降臨したのち筒香の地に巡幸したとして、吉野川上水分峯を高野郡筒香に比定する説もある。

 なお、逸文にいう国堅大神とはイザナギ・イザナミ双神のことで(古事記に「天つ神が、イザナギ命・イザナミ命二柱の神に、『この漂っている国を整えて造り固めよ』と仰せになって・・・」とある)、爾保都比売命は丹生都比売命の播磨での呼称という。
 ただ、この逸文は釈日本紀が引用するものであって一般にみる播磨国風土記にはみえず、欠文となっている明石郡の伝承ではないかという。

◎水銀の神
 この丹生都比売=稚日女説に対して、丹生都比売を“水銀の神”とみる説がある。
 『丹』(ニ)とは硫黄と水銀との化合物で、その色が赤いことから赤土と呼ばれ(朱砂・辰砂・丹砂ともいう、以下「朱砂」と記す)、これを加熱して、発生する蒸気を集めて冷却凝縮することで水銀が採れることから、丹は水銀を指すことが多い。

 丹は、魏志倭人伝に
  「その山には丹有り」 あるいは 「朱丹を以てその身体に塗る。中国の粉を用うるが如し」
とあるように古来から知られていた赤色顔料で、赤色が辟邪の霊力を持つとされることから魔除けとして多用され、他にも塗料・染料などにも使われたという、
 また朱砂(丹)から採れる水銀も、金属鍍金(金メッキ)・銅鏡研磨・薬用(古代中国では不老不死の妙薬として多用されたという)・白粉などにも使用されたという。
 因みに、金鍍金(メッキ)は、水銀と金粉とを練り合わせてペースト状にしたもの(アマルガム)を金属の表面に塗り、これを加熱することで水銀を飛ばし、表面に金を残すという手法でおこなわれ、東大寺大仏の鍍金には金10,440両(約6㌧)、水銀58,620両(約50㌧)が使われたという。

 一方、高野山を含む紀伊国北東部から吉野山にかけての一帯には高濃度の水銀を含む朱砂が広がっており、古くから朱砂の採掘精錬業がおこなわれ(その統率者が、当社祭祀を掌った丹生氏)、それに従事した人々は、古くから朱砂の採掘精錬の守護神としての丹生都比売を奉斎していたといわれ(丹生の研究)、そこから水銀の神としての丹生都比売が生まれたと思われる(丹生都比売は“丹生の比売神”即ち“水銀の比売神”を意味する)

 因みに、書紀には神武東征時の出来事として、
 「天皇 吉野に至る時 人有りて井の中より出でたり。光りて尾有り。天皇問ひて曰く『汝は何人ぞ』と。答へて『臣は是国神なり。名を井光(イヒカ)という』と申す。此れ即ち吉野首(ヨシノノオビト)の始祖なり」
との説話がある(古事記も同じ)
 ここでいう“尾あり”とは、昔の採鉱者が坑内で座って作業するために、円座のような尻当てを腰から紐で吊した状態を指し、尾のある人が出てきた“井”とは、表土に露頭していた朱砂(水銀)を掘りすすめるための竪坑で、“光った尾”とは、竪坑内の自然水銀が、工人の吊り下げた円座に付着して点々と光っている状態を指すのではないかという(丹生の研究)
 これが神武東征時の事かどうかは別として、古代の吉野山が水銀を産する地(丹生)として知られていたことを示唆する話ではある。

 ただ、古代の水銀採掘が露出鉱石の採取あるいは露天掘りといった手法であったことから次第に掘り尽くされ、それに従事していた人々も農耕を生業にせざるを得なくなり、それに伴って丹生都比売もその神格が水銀の神から一般的な農耕神、特に水神へ変わっていったといわれ(丹生の研究)、上記御由緒が“紀州・大和を巡って農耕を広め”というのは、農耕神・水神へと変貌した丹生都比売を指すと思われる。


◎丹生都比売と高野山
 高野山の開祖・弘法大師と丹生都比売とのかかわりについて、今昔物語(巻11・25話、平安末期・12世紀末頃)には
 「弘法大師 はじめて高野山を建てたる話」として
 ・今は昔、弘法大師、唐にして投げしところの三鈷(サンコ・仏具)の落ちたらむ所を尋ねむと思ひて、弘仁7年という年に王城を出て尋ぬるに、大和国・宇智郡に至りて一人の狩人に会いぬ
 ・その形、面赤くして丈八尺ばかりで、青き色の小袖を着し、弓矢を身に帯び大小二匹の黒き犬を具せり
 ・この人、大師を見て過ぎ通るに曰く 「何ぞの聖人のあるきたまふぞ」と
 ・大師のたまわく、「われ唐にして三鈷を投げて禅定の霊穴に落ちよと誓ひき。今その所を求め歩くなり」と
 ・狩人曰く、「吾はこれ南山(高野山)の犬飼なり。吾そのところを知れり。すみやかに教へたてまつるべし」といひて、犬を放ちて走らしむるに、犬失せぬ
 ・大師、そこより紀伊国の堺、大河の邉に宿しぬ。ここに一人の山人に会いぬ。大師このことを問ひたまふに、「ここより南に平原の沢あり。これその所なり」と
 ・明くる朝 、山人、大師を相具して行く間、密かに語りて云く、「吾この山の主なり。すみやかにこの領地を奉るべし」と
 ・山のなかに百町ばかり入りぬ。山のなかは直しく鉢を臥せたる如くにて、廻りに峯八つ立ちて登れり。・・・その中の一つの檜に大きなる竹跨(タケノマタ)ありて、三鈷打ち立てられたり。これを見るに喜び限りなし。これ禅定の霊窟なりと知りぬ
 ・大師「この山人は誰ぞ」と問ひたまへば、「丹生の明神となむ申す」。今の天野の宮(丹生都比売神社)これなり。「犬飼をば高野の明神となむ申す」といひて失せぬ
とあり(大要)、山人は丹生明神則ち丹生都比売大神で、狩人(犬飼)は高野明神(狩場明神ともいう)・高野御子大神という。


丹生都比売像
(金剛峯寺蔵・国宝) 

狩野明神像
(金剛峯寺蔵・国宝)
 
狩場明神と空海
(宿坊襖絵・部分)

 この伝承の初見は金剛峯寺建立修行縁起(968)といわれ、そこでは、丹生・高野両明神が最初から一緒に登場して空海を高野山に導いたなど些少の違いはあるものの、狩人等が空海を高野山に導いたとする基本的な要素は変わらず、この伝承は空海死後そう年月をあけずに成立した(10世紀中頃)ものだろうという(丹生都比売神社史・2009、以下「神社史」という)

 この伝承によれば、丹生都比売と弘法大師・空海との関係は、空海が高野山を開山した弘仁7年(816)頃に始まるとなるが、
 空海が高野山下賜を願い出た上表文など信頼できる著述・願文・消息等には丹生・高野両明神との神名はみえず、確たる年代は不明という。
 しかし、高野山一帯に水銀を含む丹(朱砂)の鉱床があることを知った(知っていた)空海は、仏像鍍金に必要な水銀の確保と、それから波及する経済的効果を目的として高野山に入ったとも推測され、それにともない、古くから高野山一帯で祀られていた地主神であり水銀の神でもある丹生明神と地主神・高野明神を金剛峯寺の鎮守として祀ったのであろう。


 因みに、高野山には丹生・高野両明神を祀る社が2ヶ所ある。
 ひとつは、壇上伽藍の西隅の小高い山(御社山あるいは山王峯)の麓に鎮座する「御社」(ミヤシロ)と称する神社で、傍らの案内には、
 「御社と山王院  重要文化財指定:昭和40年5月29日
  壇上の西隅にあり、三社が並列する。右から丹生明神(第一殿)・高野明神(第二殿)・十二王子百二十伴神(第三殿)をまつる。
  弘法大師は高野山開創にあたり、仏教の諸尊と日本古来の神祇との融和に意を用いられ、高野山の地主神として丹生明神と高野明神を勧請された。その本社は山麓天野にある。
  御社の前の拝殿を山王院という」
 また、朱塗り鳥居に掲げる木札には
  「御大師様は、黒白二匹の犬を連れた狩人に身を変えた高野明神に導かれて高野山麓の天野に至り、丹生明神より高野山の地を与えられたといわれ、丹生高野の両明神は高野山の地主神である」
とあり、
 空海は、弘仁10年(819)、落成した高野山・金剛峯寺の守り神として丹生・高野両明神を寺内に勧請したといわれ、続風土記には「丹生高野明神社 弘仁10年 大師 山の鎮守に祀る」とある。

 なお、第三殿(総社ともいう)に祀られる十二王子・百二十伴神が如何なる神かは不明。
 
御社・正面(奥に社殿3棟あり)
   山王院(御社拝殿)
 もひとつは、高野山奥の院にある弘法大師入定の霊廟という「御廟」(大師霊廟)の域内にあるといわれ、紀伊国名所図会には宝形造りの御廟の右下に、小祠2社が並んでみえ、その右上に「明神社」との添え書きが読める(右絵図)

 この明神社は、平安中期の真言僧・雅真(ガシン・?--999)が天暦6年(952)に炎上した奥の院の空海霊廟を天徳年中(957--61)に再建したとき、御廟の左に丹生・高野二社を造営したというが詳細不明。
 

 なお、上記以外にも高野山一心院谷(女人堂から少し山内へ入った付近というが、今この谷名はなくなっている)にもあったという。
 一心院谷は当社に関係が深い行勝上人が仮寓した地ということから(下記)明神社があってもおかしくはないが、今どうなっているかは不明。

◎祭祀氏族
 当社の祭祀には丹生祝(ニウノハフリ)がかかわったといわれ、ネットにみる系図によれば
  ・神皇産霊尊(カムムスヒ)の御子・天道根命(アメノミチネ)を遠祖とする天野氏(天野祝・アマノハフリ)の後継氏族とあり、
 式内社調査報告には
  ・旧神主家を丹生氏といひ、遠祖を「天野祝」(アマノノハフリ)と称して、日本書紀・神功紀にその名を載せる
  ・天野氏 後に丹生氏に改め、丹生祝氏本系帳(9世紀頃らしいが年代不詳)によれば、次いで両家に分れ、丹生麻呂首(ニウマロノオビト)の長子・小佐非直(コサヒノアタイ)は丹生直(ニウノアタイ)の姓(カバネ)を賜り(当社二の祝・丹生相見家の祖)、次子・麻布良首(マフラノオビト) 丹生祝の姓を賜ふ(当社一の祝・丹生一麿家の祖)
  ・神功紀にみえる「紀直・豊耳」(キノアタイ・トヨミミ)を中興の祖とし、当国第一の旧家なる旧官幣大社日前神宮(ヒノクマ)・国懸神宮(クニカカス)の神職・紀伊国造家(紀氏)とその出自を同じくする名族
とあるが(大要)、手持ちの新選姓氏録に天野祝あるいは丹生祝の名はみえず確認はできない。

 丹生祝の前身・天野祝にかかわって、神功紀に、
  ・皇后が忍熊王を攻めるために紀伊国・小竹宮(紀の川市北志野-当社の西約12・3kmに比定)においでになったとき、辺りが真っ暗になって、それが何日も続いた
  ・皇后が紀直の先祖・豊耳にその理由を尋ねさせると、
  ・土地の古老が、このような変事を阿豆那比(アズナヒ)の罪というそうで、二人の祝者を一緒に葬ったからでしょう
  ・小竹の祝と天野の祝は仲の良い友達であったが、小竹祝が死ぬと、天野祝が激しく泣いて、『吾らは生きているときは良き友であった。どうして死後穴を同じくすることが避けられようか』といって、屍のそばに伏して自ら死んだ。そこで二人を合葬したためであろうか、と答えた
  ・墓を開いてみると、古老がいうとおりだったので、棺を改めて別々に埋葬すると、日の光が輝いて、昼と夜とが区別された
との伝承(大要)を記している。
 この伝承は、その発生地が当社に近いということ、関係者の一人が天野祝であること以外に当社との直接的な関係はないが、天野祝が古い時代からの氏族であることの証しにはなろう。

 伝承にいう“阿豆那比の罪”については昔から諸説があるが、主なものとして、
 ・血縁関係にない二人(姓を異にする二人)を同じ棺に合葬したことが神の禁忌に触れた、
 ・二人が共同体の秩序を乱す男色関係にあったことが神の禁忌に触れた、
などがあるという。

 丹生氏が神皇産霊尊から出たとすれば、丹生氏は神別氏族となるが、元は、古代にあって、水銀を含む朱砂鉱床が広がっていた高野山からその麓・天野地区を含む紀伊国北部で、朱砂の採掘・水銀精錬を業とした在地部族であって、彼等が祖神として奉斎したのが水銀の神である丹生都比売ではなかったかという。
 丹生氏は水銀鉱床を求めて各地に広がっていったが、それが枯渇するなか、次第に農耕民へと変化していったといわれ(以上、丹生の研究・)、その中で祖神を天つ神・神皇産霊尊へ結びつけたのかもしれない。

◎創建時期
 当社の創建時期は不詳だが、国史にみえる神階綬叙記録として
  仁寿元年(851)正月庚子  天下諸神に詔して有位無位を論ぜず 正六位上に叙す(文徳実録 ただし、ここでいう天下の諸神に当社が含まれるかどうかは不詳)
  貞観元年(859)1月27日  紀伊国従五位勲八等丹生都比売神 従四位下(三代実録)
  元慶7年(883)12月28日  紀伊国従四位勲八等丹生比売神 従四位上(三代実録)
があり、9世紀にあったことは確かといえる。
 なお、当社はこれ以降も順次神階を上げ、平安末の元暦2年(1185)に最高位・正一位まで昇ったというが(続風土記)、三代実録の当年条に当社に対する神階綬叙記録はみえない。

※祭神
 当社は4棟の社殿が並ぶが、その祭神は、右(西)から
 第一殿 丹生都比売大神(ニウツヒメ)
 第二殿 高野御子大神(タカノミコ)
 第三殿 御食都比売大神(ミケツヒメ)
 第四殿 市杵島比売大神(イチキシマヒメ) 
という。

◎丹生都比売大神--上記のとおり

◎高野御子大神
 今昔物語に、空海に高野山の存在を教えた狩人として出てくる高野明神(狩場明神)がこれだといわれ、古く平安後期頃の諸資料にも
  ・高野御子神(日本紀略)  ・御子(御手印縁起)  ・丹生高野祖子両神(高野山縁起)
として、古くから御子神と称している

 一般に、神社に男女の神を併祀する場合、その男女神が夫婦あるいは親子とすることが多いといわれ、この神が空海の前に狩人として現れた高野明神であることからみると、本来は高野山辺りの名もなき在地の神(地主神)であったものを、丹生明神と併祀するに際して丹生明神(丹生都比売命)の御子としたものであろうという。

 なお、この高野明神・丹生明神御子神説に対して、続風土記には
 「按ずるに、高野明神は此地の地主神にして神世より此地に鎮まり坐する事幾百千年とも知るべからず。
 丹生明神は播磨国風土記に載する如く、神功皇后の御世始めて管川藤代峯に鎮め奉り その後此地に遷り給ひし御神なれば、高野明神と神縁在せること古書に見えず、且古は二柱の神に在しこと分明なるに 丹生明神の御子神といふは最も信用しがたし」
として、丹生明神御子神説を否定している。

◎御食都比売大神・市杵島比売大神
 この二神の奉祀について
 ・続風土記--三宮四宮は中世以後加へ祀る所にして、四所明神と称ふは後の事也
 ・神社史--大食都比売大神と市杵島比売大神は、鎌倉時代になって天野の地に祀られるようになった比較的新しい祭神であり、天野社は鎌倉時代前期を境に、二社明神から四社明神へと大きく発展した
とある。

 この2神の奉祀由緒として、続風土記には
 ・社家の説に、三宮四宮は行勝上人・総神主と共に同じ霊夢をうけ、尼将軍(足利政子)に請ひて承元2年(1208、鎌倉初期)創建する所にして、三宮は気比明神、四宮は厳島明神なりといへり
 ・按ずるに、鳥羽院の御宇清盛安芸守たりし時、彼国を以て高野の大塔を造営すべき由の院宣を賜はりて清盛登山せし夜の夢に、大師化現して、『越前の気比と安芸の厳島とは西海北陸境異なれども金剛胎蔵両界の目出度き所なるを、気比の社は繁昌して厳島は荒廃せり、相構へて修理し給へ』と語ると見て夢覚たり
 ・清盛高野下向の後、院参して右の夢想を奏聞して任を延て厳島を修理せしこと盛衰記に詳らかなり
 ・是によれば、清盛夢想のこと大師の意に出るを以て、行勝の徒大師の教えに従い、清盛の意を受けて二神の此地に創建せるなるべし
として、二神奉祀のきっかけを平清盛への夢告としている。

 また神社史は、天野神書にいうとして、
 ・行勝上人(ギョウショウ)が一室で読経していたとき、男女が部屋に入り、『越前筍飯(氣比・ケヒ)大明神・安芸厳島大明神は往昔の盟友であり、現在鎮座地が離れていても、昔を忘れぬ善き友である。今、一つ所に住み密教を護持し、異国を退治するとき、左右を扶翼する武将とさせたい。
 上人は丹生祝に命じて天野花園の社に共に招請して、四所明神として崇め祭るべし』と告げた。
 ・上人は丹生・高野の大明神の示現と認識し、急ぎ高野の社(当社)にその事を告げると、丹生祝にも同じ夢告があったという。
 ・そこで上人は、早速あらたに読経をはじめ、筍飯・厳島大明神を勧請し、これより四所明神となった。
と、行教上人の勧請としている(ただし、ネットでみた続風土記に此の記事はみえない、異本があるらしい)

 これらの伝承について、神社史は、
 ・これらは、天野社が四社明神として発展する端緒となった重要な伝承だが、残念ながらいずれも後年に成立した伝記・編纂史料であり、同時代の史料ではなく
 ・天野社が何時、いかなる経緯と背景によって四社明神とされるに至ったかは、実証することはできない
 ・高野山とは何の関係もない氣比・厳島両神を敢えて勧請しようとした行勝と惣神主の行動には、高野山に完全には依存すまいとする両者の思惑が見え隠れし
 ・その勧請に北条政子が登場するのも、鎌倉幕府との関係を構築することにより独自の道を模索したことの表れともとれる
という。(行勝上人については下記)


*御食都比売--第三殿祭神
  古事記には、イザナギ・イザナミの国生みで生まれた伊予之二名島(イヨノフタナシマ・四国の総称)の一つ・阿波国(徳島県)の神・大宣都比売(オホゲツヒメ)との名がみえ、高天原を追われたスサノオによって殺されたとき、その死体の各所から稲・粟・小豆・麦・大豆などの五穀が成りでたので、神産巣日命(カムムスヒ)がこれらを取って五穀の種としたとあり(穀物起源神話)、食物の神という(オホゲツの“ケ”は食物の意)

 今、福井県敦賀市に鎮座する氣比神宮の祭神は伊奢沙別命(イササワケ)・仲哀天皇・神功皇后であって、御食都比売の名はないが、氣比宮社記(1763、氣比社大宮司編という)には、
 ・氣比大神宮は仲哀天皇・息長足媛尊(神功皇后)・保食大神(ウケモチ)の鎮座也
 ・保食大神は大食都神(オオゲツヒメ)
とあってイササワケ命の代わりにウケモチ神が入り、且つそれはオオゲツヒメ(ミケツヒメ)と同躰とあり、当社が氣比明神を御食都比売とするのは之を受けてのことと思われる。

 因みに、保食神とは書紀5段一書11のみにでてくる神で、ウケモチの“ウケ”が食物を指すことから、この神も食物を司る神といわれ、同一書にはオオゲツヒメと同じ穀物起源神話が語られている。

 なお続風土記は、「正応6年(1293)の太政官牒に、当社四明神中の第三大神、号づけて蟻通神(アリトオシ)とあり。然れども蟻通神如何なる神なることを知らず」として、三宮の祭神を蟻通神とする説があったと記している。
 蟻通神とは紀貫之の歌集・貫之集や清少納言の枕草子にみえる神だが、神社史は「当社と明確に結びつけるような材料はない」として否定している。
 (蟻通神を祀る神社は何社かあり、当社近傍の“かつらぎ町東渋田”に一社があるが、当社との関係は不明。なお、蟻通神については別稿・蟻通神社・泉佐野市参照)

*市杵島比売--第四殿祭神
  アマテラスとスサノオのウケヒによって成りでた三女神(宗像三女神)の一で、いま福岡・宗像市の宗像大社辺津宮に祀られているが、安芸の厳島神社も市杵島比売を祀る神社として創建された(伝推古朝)といわれ(現祭神は宗像三女神)、厳島明神をイチキシマヒメとするに異論はない。

 なお、古くは第二・三・四殿の祭神は共に丹生都比売の御子神との説があったようで、高野山鎮守天野社由来(1869・明治初期)には「いずれも丹生明神の息女」とあるという(神社史)
 しかし続風土記は、
 「寺家説に丹生明神は母神なり。二宮三宮四宮は丹生明神の御子にして 二宮高野明神は男神なり、その余は女神なりといふ。・・・
 丹生明神と高野明神との神縁なく、且つ古は二柱の神に在りしこと分明なるに、三宮四宮までも丹生明神の御子神といふ、最も信用しがたし」
として否定しており、この御子神説は、当社祭神すべてを丹生都比売に結びつけるための牽強付会(ケンキョウフカイ・こじつけ)とみるべきかもしれない。


※社殿等

 
境内案内図(境内掲示・下が北)

 道路脇に立つ朱塗りの外鳥居を入り、鏡池に架かる朱塗りの輪橋(太鼓橋)を渡り(横に平面の道あり)、参道を進んで、禊川に架かる禊橋を渡った先に立つ朱塗りの中鳥居を入った奥が境内。

 境内案内図に記す説明(以下同じ)には
 ・輪橋--神様が渡られるための神橋で、反り橋の形状になったのは淀君が寄進したといわれる
 ・外鳥居--両部鳥居の形式となっており、鳥居に屋根と台輪・前後に稚児脚が付属し、神仏習合の特色を表している
 ・鏡池--不老長寿となった八百比丘尼(ヤオビクニ)という尼僧が、その姿を映し、年老わない自分を嘆き鏡を投げ入れたと伝わる。
とある。


丹生都比売神社・外鳥居 
 
同・輪橋(側面)

同・輪 橋 

 同・禊橋(境内側より) 
 
同・中鳥居

◎楼門
 境内正面中央に朱塗り・重層の楼門が聳え、その左右に袖廊が延びている。
 ・楼門--明応8年(1499)の建立で、入母屋造桧皮葺、室町中期の三間一戸の代表的な楼門形式で、国指定重要文化財
 境内案内図でによれば、向かって左が神饌所、右が拝殿という。

 
丹生都比売神社・楼門

同 左
左:神饌所・中:楼門・右:拝殿

◎本殿
 境内中央、朱塗りの透塀に区画された中に、春日造・桧皮葺き・朱塗りの本殿4棟(右から第一殿・第二殿・第三殿・第四殿)が北面して鎮座する。
 ・本殿--室町時代に再建されたもので、屋根は桧皮葺、一間社春日造では国内最大級の規模を誇る。国指定重要文化財
 宮司さんの話では、奈良・春日大社に次ぐ大きさという。


丹生都比売神社・本殿
(右から第一・第二・第三・第四殿) 
   同 左
(左が第四殿)

◎若宮社

 第四殿の左に鎮座する やや小ぶりな社殿。

 祭神  行勝上人
     続風土記に、
     「衣比須宮の東にあり 行勝上人建保5年(1217)5月7日遷化の後 
      当社を造りて その霊を祭る 故に行勝社ともいう」
     とある。 (今、衣比須社はない-下記)

 この神社は、行勝上人を祭神として祀ることから、明治の神仏分離に際して廃止されるべきものを、上人が気比明神・厳島明神を勧請したことから、残されたものと思われる 

若宮社

 行勝上人(1130--1217・平安末~鎌倉初期)の事蹟は史実・伝承が混在していて詳細不詳だが、諸資料によれば
 ・摂津国高木(現兵庫県三木市)の出自で、幼名:万寿麻呂、幼い頃、仁和寺華厳院の寛智僧正の侍童として仕えた
 ・得度後、吉野金峰山など各地の霊山・山林で修行し、高野山一心院谷に入って一心院を復興整備するなど、平安末期の戦乱により荒廃した高野山堂塔伽藍の復興に尽力した
 ・穀類を絶ち木の実以外を口にしない木食戒(モクジキカイ)に従ったことから、木食上人とも呼ばれた
という。

 また、五来重著の高野聖(1975・角川選書)には
 ・一心院の開基は明寂であるが、源平争乱のころ行勝が来て再興した
 ・行勝は吉野・大峯笙の窟で永年修行した法華持経者(法華経行者)で、いわゆる優婆塞的聖、すなわち山伏的な初期高野聖(コウヤ ヒジリ)であった
 ・彼の名声は京洛にもきこえており、高野穀断聖人(木食上人)行勝房と呼ばれ、公卿・九条兼実(1149--1207・平安末期~鎌倉初期)の日記・玉葉(1164--1200間)に、「高野穀断聖人行勝坊来る。数刻談話す。此の聖人奇異等有りと云々」と見えている
 ・しかし行勝の高野聖史における意義は、一心院に妙法蓮華経にちなんで、妙智坊・法智坊・蓮智坊・華智坊・経智坊の五坊をたてて再興したことと、念仏者としての貞暁法印にここをゆずったことにある
とある。

 ただ、上人は高野山の主流派ではなかったようで、晩年になって高野山を下りて天野に移り、当社に氣比明神・厳島明神を勧請したのも、当社(にあった神通寺)を自分の活動拠点としたかったのかもしれない。
 因みに高野聖とは、高野山僧侶の中で最下層に位置する人々(半僧半俗ともいう)だが、各地を回国して高野山信仰の功徳を説いて参詣・納骨などを勧め、金品財物の寄進を集めるなど、高野山経営を裏から支えたという。

◎佐波神社(サハ)
 楼門から左(東)へ延びる廻廊の先に、樹木に囲まれて佐波神社と称する境内社が鎮座する。
 社頭に案内等ないが、宮司さんの話では、明治末(明治39年・1906)の神社統合令によって上高野地区にあった諸社を当社に合祀したものという。

 
佐波神社・鳥居
 
同・社殿

 当社祭神名は不明だが、明治41年の明細帳に、県社丹生都比売神社への合祀社として
  ・一澤神社(字古峠)    丹生津比売神 
    勧請年月日不詳と雖も、往古丹生津比売命天降り、天野の澤ということ古書に見えたり 天野三澤と称して3ヶ所あり
  ・中澤神社(字中沢)    丹生都比売神・高野御子神  勧請年月日等不詳
  ・八王子神社(字稲荷前)  天忍穂耳命・熊野久須比命・天穂卑命・天津古屋根命・活津彦根命
                  多岐利比女命・市杵島姫命・田岐津姫命(アマテラスとスサノオのウケヒによって成りでた五男三女神) 勧請年月日不詳
  ・弁才天神社(字藤之森) 市杵島姫命  勧請年月日不詳
  ・愛宕神社(字愛宕平)   迦具土命(カグツチ・火の神)
    勧請年月日不詳と雖も、古説、慶長年間(1596--1615) 洛西の愛宕山より上天野・下天野・神田3ヶ村火災鎮護の為に勧請といふ
  ・天満神社(字爾潟)    菅原道真  勧請年月日不詳
とあり(括弧内は旧鎮座地、式内社調査報告・1987)、これらが当社の祭神かと思われる。

【付記】
 現在の本殿域には、第一殿以下の本社4棟と若宮社 計5社が並んでいるが、続風土記によれば、これ以外に
  ・長 宮(名所図会には十二王子社とある)--本社の左(西)にあり
     祭神5座--皮張神・皮付神・土公神・大将軍・八王子
  ・長 宮(名所図会には十二子主社とある)--本社の右(東)にあり
     祭神6座--八幡・熊野・金峯・白山・住吉・信田
  ・衣比須宮(エビス)--右の長宮の次(東)にあり
     祭神--十二王子の一 合祀百廿伴神
  以上三社十二座を十二王子といふ。旧は高野明神社に合祭せしを 承元3年行勝上人分ち祭る所といふ
があったとあり、紀伊国名所図会にも8棟の社殿が本殿と並んで描かれている。
 これらの3社が何時・如何なる理由でなくなったかは不明だが、宮司さんの話では「明治の神仏分離に際して、これらの神社は仏教色が強いとして廃止された」という。

 なお名所図会には、天野社境内の東 少し離れて多宝塔・山王堂などの堂舎数棟が描かれており、続風土記には、多宝塔以下14の堂舎があると記している。明治初年の神仏分離によって廃寺となった嘗ての神宮寺(神通寺)であろう。

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