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紀州東照宮
和歌山市和歌浦西2丁目
祭神--徳川家康公(東照大権現)
     徳川賴宣公(南龍大神)
                                                              2018.05.10参詣

 JR紀勢本線・紀三井寺駅の西約2.1km。
 駅西から国体道路を南下、紀三井寺交差点を右折して国道42号線を西進、和歌川を渡り和歌浦交差点を右折して北上、和歌浦口交差点を左折南下した右側(西側)の雑賀山(サイガ・サイカ)山腹に鎮座する。山の周囲には和歌山の市街地が広がる。

※由緒
 当社「参詣の栞」には、
 「南海道の総鎮護として元和7年(1621)御創建。
  『和歌浦 一に名所は権現様』とうたわれ、当国随一の名勝と謡われ当国位置の名称として伝承されています。
  関西の日光の名に相応しく、左甚五郎の彫刻や狩野・土佐両派の絵画等の荘厳な極彩色に輝く社殿は、桃山時代の豪華な風姿を示す、江戸初期の建築物として国の重要文化財に指定されています。
  御遷座式には勅使下向、慈眼大師天海僧正が初代別当となり、以来約400年の歴史と伝統は『権現様』として親しまれています。
  東照大権現とは薬師瑠璃光如来の神号で、所願一切成就・治病厄除・開運の信仰強く、全国よりの賽者が多い」
とある。

 資料によれば、当社は元和7年、徳川賴宣(1602--71)によって創建された神社で、その豪華な造りから、東の日光東照宮に対して「関西の日光」ともいわれる。

 当社を創建した徳川賴宣は、徳川幕府を開いた徳川家康(1543--1616)の10男で、関ヶ原の戦いの2年後に生まれ、母は側室・養珠院(お万の方)
 ・慶長8年(1603)2歳にして常陸国・水戸藩主となり、
 ・同14年(1609)駿府藩主に転封(いずれも入府せず江戸・家康の膝下で過ごしたという)
 ・元和5年(1619)、広島藩主・福島正則の改易に伴い、それまで紀州藩主であった外様大名・浅野家(紀州藩主・1600--19、忠臣蔵で有名な播州赤穂の浅野家は分家)が安芸国広島藩へ移された後、親藩・紀州徳川藩(徳川御三家の一)の初代藩主として入府し(石高:55万5千石、浅野家の旧領に南伊勢の地を編入)
 ・日光東照宮(1617創建)にならって父・家康(東照大権現)を祀る当社の造営に着手、2年後の元和7年に竣工したという。
 因みに徳川御三家とは尾張徳川家・当家・水戸徳川家を指し、それぞれ家康の9男(義直)・10男(賴宣)・11男(頼房)を始祖とする

※祭神
   東照大権現(徳川家康公)
   南龍大神(徳川賴宣公)

 徳川家康の神号・東照大権現(トウショウダイゴンゲン)とは、徳川家康が死んだ翌年の元和3年(1617)に後水尾天皇から贈られた勅諡号(チョクシゴウ・諡り名)で、これによって家康は神となり、神階・正一位が贈られたという。

 家康の死後、その神号をどうするかについて、家康側近だった南光坊天海(天台宗)と金地院崇伝(臨済宗)との間で争われ、
 ・崇伝が、従来からの吉田神道(卜部神道ともいう)によって“大明神”として祀るべきとするのに対して、
 ・天海が、子孫が滅亡した豊臣秀吉と同じ“大明神”号は不吉であるとして、山王一実神道(天台宗系の神道理論)による“大権現”号が相応しいと主張、
 ・2代将軍・秀忠の裁可を得て東照大権現の神号が決まり、家康の遺体は、最初に葬られた駿河国久能山から下野国日光山へ改葬されたという。
 なお、家康の遺体を日光山へ埋葬したのは、家康の
 「臨終候はば御躰をば久能へ納め、御葬礼をば増上寺にて申しつけ、御位牌をば三川之大樹寺に立て、一周忌過ぎ候て以降、日光山に小さき堂を建て、勧請し候へ」(本光国師日記)
との遺言によるとの伝承がある。

 上記案内は、「東照大権現は薬師瑠璃光如来の神号で・・・」というが、薬師如来とは東方瑠璃光浄土(ルリコウジョウド)にあって教えを説くとされる仏で、山王一実神道では、それが神として顕れたときの神名を東照大権現という。
 なお、家康は生母・於大の方が鳳来寺(愛知県新庄市)本尊の薬師如来に祈願して誕生したことから、家康は薬師如来が人間界に現れた姿というが、これは後世になって作られた牽強付会の伝承であろう。

 徳川賴宣は大正6年(1917)に神として合祀されたものだが、南龍大神の南龍とは“南海の龍”を意味するという。

※社殿等
 道路腋から、一の鳥居・二の鳥居をくぐり、参道を進んだ先の石段(108段)をのぼった上に朱塗りの重層楼門が南面して聳える。 楼門の左右には回廊が延びているというが、樹木に阻まれて実見不能。


紀伊東照宮・一の鳥居 
 
同・二の鳥居

同・社殿配置略図
(境内掲示) 
 
境内への石段
 
石段上の楼門
 
楼門装飾

 楼門を入った先が境内で、正面の低い石段上に桧皮葺・朱塗りの唐門が建ち、左右に延びる瑞垣に過去乗れた中が社殿域。
 唐門直背に拝殿が、その背後に本殿が建つが、社殿は唐門越しに拝殿の屋根がみえるだけで写真撮影は禁止。

 
同・社殿正面

唐門と背後の拝殿屋根 
 
同・唐門

 参詣時は、団体による公式参拝ということで、巫女さんによる拝殿・本殿の軒先・壁面を飾る彫刻等の説明があったが、日光東照宮とまではいかないものの装飾過剰でしっくりこない。

 なお、当社社殿建築様式は「権現造」と称する様式で、本殿と拝殿との間を繋ぐ『石の間』(弊殿)があるのが特徴という。
 社殿全容は実見できないが、日光東照宮の社殿(下右)を模した社殿配置であろう。 


社殿を飾る彫刻・壁画(参詣の栞より転写)
   
権現造・模式図
(日光東照宮社殿)

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