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  木嶋坐天照御魂神社
付--蠶養神社(蚕の社)
京都市右京区太秦森ヶ東町
祭神--天御中主命・大国魂命・彦穂穂出見尊・鵜茅葺不合尊

 延喜式神名帳に、「山城国葛野郡 木嶋坐天照御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗」とある式内大社で、境内社として蚕養神社(コカイ)を祀ることから、一般には「蚕ノ社」(カイコノヤシロ)として知られる。なお、神社名は“コノシマニマス アマテル ミムスビ”と訓む(以下「木嶋社」と記す)

 京都の中心・四条大宮と嵐山を結ぶ京福電鉄嵐山本線・蚕ノ社駅下車、すぐ東の道路脇に立つ一の鳥居(神額には「蚕養神社」とある)をくぐり北へ、突き当たりの左手に二の鳥居(神明型)があり境内に入る。二の鳥居の右に「式内郷社 木嶋坐天照御魂神社」との石柱、「蠶神社」との小石柱が立つ(蠶-蚕の古字)

木嶋坐天照御魂神社/一の鳥居
木嶋坐天照御魂神社・一の鳥居
木嶋坐天照御魂神社/二の鳥居
同・二の鳥居(境内入口)

※祭神
 二の鳥居左手に掲げる由緒によれば、
 「当社はアメノミナカヌシを主祭神として奉じ、上は天神から下は地神に渉る御魂の神徳を感じて天照御魂神と称し奉り、広隆寺創建と共に勧請されたと伝えている。学問の神・祓いの神である」
とある。
 今の祭神はアメノミナカヌシ以下4座ととされるが、皇孫・ニニギ尊を加えて5座とする資料(葛野郡神社明細帳・1883)、火明命一座とする資料(神祇志料・1873)もある。
 アメノミナカヌシとは、天地初発のとき、最初に高天原に独神(ヒトリカミ)として成り出で、何らの事蹟もなく身を隠した神(古事記)で、観念的な神格という。オオクニヌシは出雲系神話の主神で国土造成の神、ヒコホホデミ・ウガヤフキアヘズは皇孫ニニギから連なる皇室の祖神。
 ただ、これらの神々を祀るとしたのは多分に明治以降のもので、本来のそれは天照御魂(アマテル ミムスヒ、アマテルミタマとも訓む)という自然神としての日の神であろうという。

◎天照御魂神(アマテル ミムスヒの神)
 延喜式内に、天照(アマテル)を冠する式内社は畿内以西に8社あり、そのうち天照御魂神社は4社を数え、すべて畿内にある。ただ、アマテルミムスヒと読むのは当社のみ(アマテルミタマと読んだ資料もある)で、他の3社はアマテルミタマと読むのが普通。

 この神は、神名に天照を冠するものの、アマテルと読みアマテラスとは読まないように、皇祖神・アマテラス大神とは直接的な関係はなく、皇祖神・アマテラスが成立する以前から、各地で祀られていた自然神としての日の神・太陽神だという。
 また、ミムスヒは“御産巣日”(古事記)あるいは“皇産霊”(書紀)と書かれるが、“ミ”は美称で、“ムス”は魂・産とも書き生成する・繁殖することを、“ヒ”は霊力・生命力を意味する。
 ここから、アマテルミムスヒ神とは、万物を産みだし育てるムスヒ(産霊)の神であり、アマテラスが皇祖神として伊勢に祀られる以前から、畿内で祀られていた日神・太陽神ではないかといわれ、その意味では、アマテラスの前身ともいえる。

 また天照御魂4社は、いずれも古代の“日知り”の地に鎮座するという。日知りとは“日読み”であり、太陽の動きで冬至・夏至といった季節の節目を知る(読む)ことをいう。古代の権力者は、日を読むことによって一年の始まりや農耕開始の時期を知ってマツリゴトをおこない、四季の順調な循環を神に祈ったという。

 当社もまた、5世紀後半頃に当地に進出した秦氏が太陽神・アマテルミムスヒを祀り、日読みのマツリゴトをおこなった聖地で、秦氏は、元糺の池に設けられた神籬(ヒモロギ)を通して、冬至・夏至の太陽(日の出)を読んだと思われ、当社は、北山城における最初の日読みの聖地ではないかという。
 ただ、秦氏進出以前の在地氏族・山代氏(新撰姓氏禄・山城国神別に山背忌寸、同未定雑姓に山代直がみえる)もまた当地で日読みをなしていたのではないか、ともいう。

 当社が日読みにかかわる神社であることを証するのが、社殿の左に立つ三柱鳥居であり、それを囲む糺すの池であろうという。。

※三柱鳥居
 拝殿左の林の中に“元糺(モトタダス)の池”という神池がある。池の中に、鳥居三基を(上から見て)正三角形に組み合わせた“三柱鳥居”(三面鳥居・三っ鳥居・三角鳥居ともいう)が立ち、その中央部に小石を積みあげたヒモロギの中に幣帛が立っている。
 鳥居の八角形石柱には
 「山城国葛野郡式内木嶋再興神主日向守神服宗夷
  元糺大神降水本
  天保二年辛卯十二月再興神主民部輔神服宗秀」
と刻され、元糺の池は大神降臨の地で、鳥居は天保2年(1831)再興とあるが、その建立時期は不明。
 享保年間(1716--36・江戸中期)に修復されたとの記録があり、江戸時代のガイドブック・都名所図会(1780)にも、境内を流れる小川の中に立つ三柱鳥居がみえる(下図)ことから、江戸時代には既にあったと思われる。
 鳥居の全高≒3.4m、柱間≒2.4m。今の三柱鳥居は大正12年(1923)改修という。

 三柱鳥居の由緒は不明。ただ、この地が
 ・三柱鳥居の東南東方向に稲荷山(伏見稲荷大社)、西南西方向に松尾山(松尾大社)があること、
 ・冬至の朝日が稲荷山から昇り、夕日は反対の愛宕山に落ちること、
 ・夏至の朝日が比叡山系の主峰・四明岳から昇り、夕日は反対側の松尾山に落ちること、
 ・北方にある双:ヶ丘(ナラビオカ)一帯に集中する後期古墳群もまた、秦氏関連の群集墳といわれること、
 ・これらの各方位には、いずれも秦氏に関係する神社・墳墓などがあること、
などから、
 中央のヒモロギから見た柱の方位(正三角形の頂点)あるいはその反転は、これらの聖地の方向を指し示す指標であり、
 当地は冬至・夏至といった特定の日の太陽を遙拝する聖地、すなわち日読みの聖地ではなかったかという(大和岩雄)
三柱鳥居/方位図
三柱鳥居・方位図
木嶋坐天照御魂神社/池入口の鳥居
池への入口に立つ黒木鳥居
木嶋坐天照御魂神社/三柱鳥居
三柱鳥居
木嶋坐天照御魂神社/元糺の池と三柱鳥居
元糺の池と三柱鳥居
都名所図会/木嶋社(部分)
都名所絵図・木嶋社(部分)

◎元糺の池
 三柱鳥居が立つ池を「元糺(モトタダス)の池」という。古い資料では、涸れることのない湧水を湛えた池で、江戸時代には小川となって南へ流れていたという。今、池および水路は残るものの、水は涸れている。

 “糺”には、“偽りを正す”・“秩序を正す”の意があるが、ここでは“朝日の直刺(タダサ)す”の“直(タダ)”を意味する。三柱鳥居で述べたように、当社が比叡山・四明岳と松尾山を結ぶ線上、すなわち夏至の朝日と冬至の夕日が直刺・タダサス線上に位置することから、“朝日が直射する池”すなわち“タダスの池”と呼ぶという。

 当地を“モトタダス”と呼ぶのは、京都・下鴨にある“糺の森”との関係からくるもので、糺の森には河合神社(式内社・鴨川合坐小社宅神社に比定)がある。この河合神社(森を含む)もまた四明岳と松尾山を結ぶ線上にあり、河合神社はタダスの宮とも呼ばれた(新古今集・太平記他)
 いいかえれば、四明岳-河合社(糺の森)-木嶋社(元糺の池)-松尾山のラインは、夏至の朝日・冬至の夕日がタダサス聖なるラインであることから、その線上に位置する河合社を“タダスの森”、木嶋社の地を“モトタダスの池”と呼ぶのだ、という。
 *古事記・大年神の神裔条に、「オオヤマクヒ神(日吉大社祭神)、近つ淡海国(近江)の日枝山(比叡山)に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり」とある。鳴鏑とは鏑矢であり、比叡山に昇る夏至の朝日が松尾山をタダサスことの比喩という。

 日光感精伝承というのがある。簡単にいえば、水の畔にいて、日光の直射をうけた女性(巫女)が神の御子を生むという伝承で、代表的なものとして、
 ・賀茂のタケツヌミの娘・タマヨリヒメ(下鴨社の祭神)が石川の瀬見の小川で遊んでいたら、丹塗矢(火雷神)が流れてきた。姫が持ち帰って寝床の傍に挿しておいたら、妊ってカモワケイカヅチ(上賀茂社の祭神)を産んだ(大意)。--山城国風土記(瀬見の小川とは、糺の森を流れる小川という)
 ・新羅のアグ沼のほとりで一人の女が寝ていたら、日の光が女の女陰を射し、女は赤玉を生んだ。新羅の王子・アメノヒホコがこの赤玉を持ち帰ったら美しい乙女と化したので、この乙女を妻とした。その後、この乙女はわが国・難波に渡来しヒメコソの神となった(大意)--古事記・応神天皇条(アメノヒホコ伝承)
などがある。

 ここで、神あるいは神の御子を生む女性は水辺にあって神の降臨を待っている。水は日とともに万物の生育に必要なものであり、日の神は水辺にいる日女に依りついて御子すなわち豊饒をもたらすともいえ、当地にも日の神の降臨をまって神の御子を生む日女・ヒルメが在し、日神祭祀を司っていたと思われる。

◎景教遺跡説
 この三柱鳥居を景教遺跡とする説がある。
 景教とは、キリスト教がローマ帝国の国教になった後、エフェソス(現トルコ)で開かれた公会議(431)で異端とされたネストリウス派が、その後、唐・太宗(599--649)の時代に中国に入り(貞観9年・635)景教と称したもので、都・長安に建立された寺院(教会)は、はじめ波斯寺、玄宗皇帝のとき太秦寺と改称したという(天宝4年・745)

 三柱鳥居を景教遺跡とする理由には諸説があるようだが、大略
 ①中国で景教の寺院を太秦寺と呼んだが、この鳥居も太秦の地にあること
 ②三柱鳥居を二つ重ねると、ユダヤ教のシンボルであるダビデの星(正三角形を上下逆に組み合わせたもの・通称:六芒星)になること
 ③当社と同じく秦氏が関係する太秦の大酒神社は大辟神社ともいうが、“辟”(避・サケ)は“闢”(ヘキ:開く・避けるの意)と同意で、ダビデもまた“大闢”と記されること
などから、秦氏は、ネストリウス派に属するユダヤ人が中国を経てわが国に流れきた後裔で、三柱鳥居は、彼らが奉じる神を拝するための聖所だという。

 しかし、景教が中国に入ったのは、公的には唐・太宗皇帝の貞観9年(635)とされ、それ以前にわが国に入ったとは疑問があること、中国での太秦寺の呼称は8世紀以降であること、また、太秦の表記は聖武天皇・天平14年(742)が初見であること(続日本紀)などから、景教遺跡説(秦氏ユダヤ人説も含む)は疑問視されている。
 また、古イスラエル王国を興したダビデとキリスト教・ネストリウス派とは、時代的にも宗教的にも関係はない。

 なお景教とは関係ないが、ユダヤ人には“失われた10部族”という歴史がある。ダビデ・ソロモンと続いた古イスラエル王国はソロモンの死後南北に分裂する(BC920頃)が、その北王国(ユダヤ10部族より成る)がアッシリアの攻撃をうけて滅亡し(BC720頃)、住民すべてがアッシリアの各地に連れ去られ、現地住民の中に呑み込まれて消え去ったことを指す。
 この10部族の一部がわが国にもきているというのが皇室ユダヤ後裔説・秦氏ユダヤ人説の根拠だが、その信憑性は皆無であろう。
 なお、ユダヤ後裔説の根拠の一つとして、皇室の16弁菊花紋と同じものがイスラエルにあるという。
 確かにイスラエルのクムラン遺跡の床面にそれらしき花の模様が残っているが、実見したかぎりでは、8弁の花の先端がハート型に割れていて16弁に見えなくもないといったもので、これを以て皇室の菊花紋のルーツとすることはできない。

※蚕養神社(蚕ノ社)
 参道に掲げる案内には、
 「当神社(木嶋社)本殿の東側には織物の祖神を祀る蚕養神社(東本殿)があり、『蚕ノ社』もそれに因んだ社名である」
とあるのみだが、式内社調査報告(1979)では、
 祭神--保食神(ウケモチ)・蚕の神・木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
となっている。ただ、そのはっきりした祭祀由緒は不明。

 案内にいう織物の祖神とは、日本書紀に
  ①応神天皇39年2月条
  阿知使主(アチオミ)・都加使主(ツガオミ)を呉(クレ)に遣わして縫工女を求めさせた。二人は高麗人の案内で呉に行った。呉の王は縫女の兄媛・弟媛・呉織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ・漢織とも)の四人を与えた。
  ②雄略天皇14年1月条
  (雄略12年夏に呉に使いしていた)身狭村主青(ムサノスグリ アオ)らが、呉国の使いと共に、呉の奉った才伎(テヒト)の漢織・呉織と布縫(キヌヌイ)の兄媛・弟媛らを率いて住吉の津に泊まった(帰国した)
とある、中国の呉国から渡来した機織技能をもった女性を祀ったことから蚕ノ社と呼ぶのであろう。

 蚕ノ社が天照御魂神社に併祀されたのは、太陽信仰と桑(あるいは蚕)との関係という。
 古代中国では、養蚕に必要な桑は、単なる蚕の飼料というより神木であるとされ、太陽は東海の島にある神木・桑の木から天に昇るとされ、そこから、東方の日の出の地を扶桑(フソウ)と呼んだという(ここから、中国から見て東海にあるわが国の嘉称を、扶桑という)

 同じことを、中国の古書・山海経(センガイキョウ・戦国時代-BC4世紀頃の著という)の大荒東経条では
 「大荒に山あり。山の上に扶桑の木がある。高さ三百里。その葉は芥菜のよう。谷あり、温源の谷(湯谷)といい、その湯ノ谷の上に扶桑があり、一個の太陽がやってくると、一個の太陽が出ていく。太陽はみな烏に乗っている」(大意)
との神話として記している(また、太陽の中には三本足の烏がいるともいい、太陽と烏は関係が深い)
 他資料を合わせて意訳すれば、
 「東海にある大荒の山に桑の大樹があり、その10本の枝に各一個の太陽が止まっている。朝になると、その一番上の枝から、烏に乗った太陽が飛び立ち、他の太陽は順次上の枝に移る」
となる。
 この神話を具象化したものとして、中国四川省の三星堆遺跡(BC1000頃)から出土した巨大神樹(青銅製・H=384cm)があり、上から下までの各枝にはそれぞれ鳥(カラス)が留まっている。神話と考古資料とが一致する稀なケースとして注目されている。 
三星堆出土の巨大神樹
三星堆出土の
巨大神樹

 また書紀・神代紀第十一の一書には
 「太陽神・アマテラスが、ツクヨミ命に殺されたウケモチ神の眉から生まれた蚕の繭を口に含んで糸を曳き、養蚕の道を開いた」(大意)
と、太陽神(アマテラス)が養蚕をはじめたと記し、朝鮮の古書・三国遺事には、
 「新羅の東海の浜に住んでいた延烏郎と妻の延烏女が日本に渡ってしまったので、新羅では日も月も光を失っていまった。困った国王が帰国するようにすすめたところ、代わりに延烏女が織った絹を託し、これで天神を祀れと告げた。その通りにしたら、日と月が再び輝いた」
とあり、ここでは蚕の糸で織った絹布が日光・月光を取り戻す呪具として記されている。

 このように、古代社会での太陽信仰と桑・蚕との密接な関係からみて、朝日直刺す聖地であった天照御魂神社に蚕ノ社が祀られたのも故あることといえる。

 また、木嶋社に係わる秦氏と養蚕との関係について、日本書紀・雄略紀15年条に、
 「詔して秦の民を集めて秦酒公に賜った。公はそれで各種多数の村主(スグリ)を率いるようになり、租税としてつくられた絹・(カトリ・上質の絹)を献って、朝廷に沢山積みあげた。よって姓を賜りウズマサといった」
とあり、続いて16年条に
 「詔して、桑の栽培に適した国・県を選んで、桑を植えさせられ、秦の民を移住させて、そこから庸調が上がるようにされた」
との記述がある。
 また、新撰姓氏禄の“太秦公宿禰(左京・諸蕃)”・“秦忌寸”(山城国・諸蕃)の項にも同様の記述があり、秦氏が養蚕・絹織などに関係していたことが知られる(疑義もある)

 また、書紀・皇極3年(644)には、
 「東国の富士川の辺の人・大生部多(オホフベノオホ)が、ある虫を祀ることを勧め、『これは常世(トコヨ)の神なり。これを祀れば富と長寿を得ることができる』と云いだし、多くの人が財宝を投げ出してこの虫を祀ったが、富は得られなかった。
 葛野の秦河勝が、民を惑わすものとして大生部多を打ちこらした」(大意)
との記事があり、“常世の神”とされた虫とは“蚕”(あるいはそれに類する虫)ではないかという。

 蚕は、卵→幼虫→蛹→蛾と姿をかえるが、それが当時の人々にとって死と再生の繰り返す神秘的な霊力をもつ生き物とみられ、不老不死の理想郷・常世からやってきて富と長寿をもたらす福の神とされたのであろう。

 当社は、単に蚕の神を祀ったというより、太陽信仰との関係が色濃く、且つ、その奥に潜む常世信仰を通じて不老不死・豊饒を祈った社とみることもできる。
 そこから、太陽信仰との関係が深く、養蚕・機織りに長けた秦氏系の社に祀られるのも、故あることといえる。

※社殿等
 二の鳥居から参道を進むと入母屋造の拝殿が、その奥、樹木に囲まれ簡単な木柵で区切られた神域内に本殿2棟が並び、その前に拝所が建つ。
 左が木嶋社の本殿で、右は境内社・蚕養神社(由緒には東本殿とある・所謂「蚕ノ社」)の社殿。同じ切妻造・平入りの神明造で規模もほとんどかわらないが、木嶋社の屋根に向拝が付くこと、棟に掲げる堅魚木(カツオギ)が木嶋社は7本・蚕ノ社は5本という違いがある。

木嶋坐天照御魂神社/拝殿
木嶋坐天照御魂神社・拝殿
木嶋坐天照三島神社/本殿と蚕の宮
同・本殿
(左:木嶋社・右:蚕養社)
木嶋坐天照御魂神社/拝所
同・拝所
 本殿左に末社を祀る合祀殿が、境内西南隅に稲荷社4祠(稲荷神社・三国稲荷神社・白清神社・白徳神社)が祀られている。

 合祀殿に祀られる社は、式内社調査報告に列記する、稜道神社・魂鎮神社・顯名神社・八坂神社・食国神社・天満神社・三拾八所神社・橋姫神社・椿丘神社だろうが、その詳細は不明。
木嶋坐天照御魂神社/末社・合祀殿
末社・合祀殿

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