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金 劔 宮
石川県白山市鶴来日詰町
祭神−−天津彦彦穂瓊瓊杵尊
                                                         2011.02.17参詣

 北陸鉄道石川線・鶴来駅の南東約700m、県道103号線(鶴来街道)東側の山麓にある神社。社名は“キンケングウ”と訓み、金剣宮とも記す。古くはツルギの宮と呼んだという。
 古くは、社名に“劔”(ツルギ)を名乗ることからか“尚武の神”として武士階層の崇拝をうけたというが、今は“金”を重視してか、“金運の神”が坐すパワースポットとして知られつつあるという。

※由緒
 管見のかぎりでは、当社に関する資料は皆無に近いが、当社参詣の栞によれば、朱雀天皇・承平3年(933・平安中期)に正三位の神階に叙せられたというから(その後、983年に従二位・1007年に正一位に叙されたというが、いずれも出典不明)、それ以前からの古社とはいえる。ただ、正三位という高い神階が叙せられるような神社であるにもかかわらず、何故か延喜式神名帳(927撰上)には載せられていない。

 参詣の栞によれば、
 「崇神天皇3年(BC95−書紀による推定年次で実年次とは異なる)の創建。劔集落の発生と時を同じくして鎭斎せられた。古くは“劔の宮”(ツルギノミヤ)と称し、明治以降“金劔神社”の社名が用いられた。時代により、金劔神社・金劔明神・劔明神と呼ばれる時期もあったが、現在は官号に復し“金劔宮”と称している。平成17年(2005)御鎮座2500年祭が執行された」
という。

 崇神3年創建というのは根拠不詳の伝承であって史実とは認めがたいが(4世記に常設の神社があったとは思えない)、当社創建にかかわる史料・伝承もみえず、創建年次・由緒は不明。また当地にかかわる古代氏族も不明。
 ただ、祭神が黄金造りの太刀を佩いた男神であること、当地の地名・鶴来(ツルキ)が劔(ツルギ)に由来することなどから、金属の精錬ないし刀鍛冶に関係する一族(渡来系か)が、その祖神を祀ったとも思われるが、それを証するような製鉄遺構などは発見されておらず、推測の域を超えない。

 鎮座地は創建以来動いていないというが(源平盛衰記には「仏ケ原にあった」というが詳細不明)、創建年次・由緒・経緯など謎の多い神社といえる。

※祭神
 今の祭神は、天津彦彦穂瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギ・葦原中国に降臨した皇孫)となっているが、これは明治以降に持ちこまれた祭神であって、本来の祭神とは思えない。
 明治の神仏分離によって、それまでの祭神を記紀の神々に変えた事例は多く、当社もその一であろうが、それをホノニニギとした理由は不明。ホノニニギがもつ穀神的神格から、農耕神・豊饒神としての勧請かもしれない。

 白山比盗_社に関する最古の資料という白山之記(現存本の巻末に“正応4年-1291・鎌倉末期-5月1日書写完了”とあり、それ以前・平安末期頃の成立と推測されている)によれば、
 「金剣宮 白山第一の王子〈本地は倶利伽羅明王−クリカラミョウオウである。垂迹は男神である。御冠に上衣を着し、銀弓と金箭(キンセン)を帯び、金造りの御太刀を差している」
とある。武神の姿というから、劔にからむ神と思われる。

 白山第一の王子というのは、当社が白山七社の一社だったことからで、白山の入口を護る武神ということらしいが、その出自などは不明。
 その本地という倶利伽羅明王とは不動明王の化身の一で、切っ先を上にして岩に突き刺さった利剣に、火を吐く龍が巻きついて剣を呑み込もうとする姿で表されることが多い。当社が金剣宮と呼ばれることと、龍が巻きついた剣ということから本地仏とされたのであろう。
 しかし、白山第一の王子あるいは倶利伽羅明王ともに神仏習合理論による神名であり、当社本来の祭神は不明といわざるを得ない。

◎合祀祭神
 栞によれば、当社には、
  大国主命(大黒さん) ・事代主命(恵比須社) ・猿田彦命(天孫降臨の道案内の神)
   
・日本武尊(景行天皇の皇子) ・大山咋命(お酒の神) ・菅原道真(天神さん)
の6座が合祀されているが、これらの神々は明治末期の神社統廃合によって近傍各所から合祀されたものという。
 栞には、明治39年(1906)・同41年・大正3年(1914)の三度にわたって合祀された神社名を挙げるが、古町の大黒社(大国主命)・新町の恵比須社(事代主命)・知守町および日吉町の日吉社(大山咋命)・日詰町の大鳥社(日本武尊)を除いて、井守社・金刀比羅社に対応する神名は不詳。

※社殿等
 白山之記には、
 「金劔の宮の境内には、宝殿(本殿のことか)・拝殿・講堂[大日如来あり]・宝蔵・三重塔・鐘楼がある」
とあり、神社と寺とが一体となった宮寺形式の神社だったことを示すが、明治の神仏分離によって神宮寺は廃寺となっている。

 参詣日が大雪の後のことで、正面参道(石段)が雪に埋もれていたため、南側の緩やかな坂を登って境内に入る。
 参道の正面を雪囲いに囲まれた拝殿が西面して建ち、その背後に弊殿と本殿覆屋が連続している。
  拝殿−−正面に千鳥破風・唐風破風を有する入母屋造・銅板葺
  本殿−−一間社流造というが、覆屋の中にあり実見不能。

金剣宮/南の入口
金剣宮・南の入口
金剣宮/拝殿
金剣宮・拝殿
金剣宮/神額
同・神額

◎末社
 社殿の左手(北側)に末社5社が略固まって鎮座し、左に離れた高所に招魂社がある。社殿はいずれも雪囲をもつ覆屋の中にあり、一間社流造らしい。
 白山之記には、
 「末社としては、荒御前・糺宮・大行事・乙劔がある」
とある(祭神不明)が、今の末社は違っている。
 ・乙劔宮(オトツルギグウ)−−彦火火出見尊〈ヒコホホデミ・祭神の御子〉
 ・金刀比羅宮−−崇神天皇
 ・丈六宮−−大山咋命(オオヤマクヒ)
 ・金劔宮恵比須社−−大阪今宮戎社の分霊
 ・粟島神社−−少彦名命(スクナヒコナ)
 ・招魂社−−地域の英霊
が点在している。乙劔社は古来からの鎮座らしいが、他の鎮座時期・由緒など不明。


左:金刀比羅宮・右:乙劔宮

丈六宮

粟島神社

 当社には、次の伝承が残っている。参詣の栞によれば、
 ・寿永2年(1183)、木曾義仲が倶利伽羅谷の合戦で平家の軍に大勝したことを奉謝して、鞍を置いた馬20頭を寄進した
 ・文治2年(1186)、奥州に落ちる途上の源義経が当社に参詣し、夜もすがら神楽を奉納した(義経記)
という。
 ただ、これと同じ伝承が白山比盗_社略史にも記され、そこには両武将が参詣したのは白山比盗_社とある。

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