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2007.10.20巡拝

熊野古道−水呑王子から祓戸王子まで

 紀伊田辺から熊野本宮にいたる中辺路、あるいは新宮・那智を巡る大辺路など、熊野三山の諸所彼処に『○○王子』と称する小社・小祠・石碑・叢林などが点在し、あたかも熊野への道しるべを示す数珠玉のように連なっている。

 王子とは何かといえば、諸説がある。一般には『熊野のカミの御子』とされるが、これを仏教側からみると『眷属神としての護法童子』となる。
 他にも、“その土地、その場に坐すカミを祀った聖地”で、そこを通る人々が香華を供えた『手向けのカミ』との捉え方、海の彼方からやってくる『マレビトカミを迎え、祈りを捧げる聖地』との捉え方などがある。

 熊野詣の盛時には、摂津・淀川尻の窪津(クボツ)王子(大阪市天満橋付近)からほぼ半里毎に連なり、「九十九王子」と総称されていた。99という数字は実数ではなく、“沢山の”という意味で、いわば京に坐す別宮・白川熊野社と熊野三山の途中にあって、両地を結びつける飛び石としての役割を持っていたといえる。

 中でも、泉州の籾井(南海市)・切目(印南市)・滝尻(中辺路町)・発心門(本宮町)の五社は“五躰王子”として重んじられ、そこは遠く熊野を遙拝する場であるとともに休憩所・宿泊所としての性格をもち、参詣途上の上皇たちは神前に幣帛を奉り、経を読み、和歌の会を催し、神楽舞・白拍子舞などを奉納したという記録が残っている。

 熊野古道・中辺路とはJR紀伊田辺から紀伊山中に入り“滝尻”・“近露”・“発心門”を経て熊野本宮大社までの約38q(王子数19ヶ所)をいうが、体力的に自信がなく、といって辺路巡礼の雰囲気だけでも味わいたいと、中辺路の最終区間・本宮大社近くの“水呑王子”から本宮大社までの約5qほどを歩いた。

    熊野古道:中辺路
熊野古道−中辺路風景
伏拝〜三軒茶屋間
熊野古道−中辺路風景
三軒茶屋〜祓戸間
熊野古道−中辺路風景
同:鎌倉時代の石畳

水呑王子−−田辺市本宮町三越字大横手
 横手の集落から林道(これも古道)をちょっとあがった処にある。
 『水呑王子』と刻んだ緑泥片岩の石碑(H≒78p、W≒37p)が立ち、横に赤い前垂れをつけた小さい地蔵菩薩2躰(座像と立像)がある。

熊野古道−中辺路・水呑王子 熊野古道−中辺路・水呑王子

 当王子は歴史の古い王子社で、平安末期の「中右記」(チュウウキ・1109)には『内水飲王子、新王子』とあり、11世紀末頃には祀られていた王子らしい。
 他にも『王子二、内水飲・祓殿』(熊野御幸記1201)、『内水飲について後小養を儲く』(修名院門参詣記1210)などとの記録があり、古くは“内水飲(呑)王子”と称していた。
 古く、滝尻王子付近にも“水飲”との王子があり(現存せず)、本宮に近いこちらを“内水飲(呑)王子”として区別したもので、江戸期になって“水呑王子”と表記されたという。

 以前は小学校分校の敷地内にあったが、昭和48年に廃校になり、その後2度ほど場所を移動しているという。
 なお、石碑の右ある地蔵菩薩像2躰のうち右の像は、腰の辺りで上下ふたつに割れていて、その間にお賽銭があげられている。信心すれば歯痛に効くという。

◎石塔−−『道休禅門』(ヒトヤスミ・ゼンモン)
 水飲みを出て、地道をとおり杉林の中を進むと、道端にぽつんと小さな舟形石塔が立っている。浮き彫りの仏像は地蔵らしく、右に「道休禅門」、左に「九月九日」とあるが、年代は不明。
 “道休”と書いて「ユキダオレ」と読む。昔、一人の僧(禅門とは名前ではなく、一介の私度僧であろう)がこの辺りで倒れて死んだので、それを悼んで立てた供養塔というが、詳細は不明。

熊野古道−中辺路・道休禅門石碑 熊野古道−中辺路と道休禅門碑

 古くから熊野では多くの修行者・行者が修行したというが、そんな行者にからんで日本霊異記に次のような話が載っている。
 『熊野村にいた永興禅師のもとに一年ほど滞在していた僧がいた。僧が立ち去ったあとしばらくすると、熊野川上流の山中に入った村人たちに法華経を誦す声が聞こえてきた。
 永興禅師が尋ねてみると、以前立ち去った僧が荒縄で両足を縛り、崖から身を投げて死んでいた。
 その後3年経っても読経の声が絶えないので、永興禅師が再び尋ねてみると、すでに身体は骨になっていたが、舌だけは腐らずに残って法華経を唱え続けていた』
というもので、この話そのものは法華経の功徳を説く説話だが、熊野の深山には多くの法華経行者が修行に明けくれ、なかには人知れず死んでいった者も多かったという。

 また、権門富貴の人はいざしらず一般の巡礼者の中には、ただ神仏にすがる以外に救いのあてがない人々による霊地巡礼が多かったという。
 医療が未発達だった当時、前世の業によるとされる不治の病におかされた人々は、最後の救いを熊野の神仏に求めて難行苦行の難路をたどってきた。そんな人々が道中で死んだとしても、その地に葬られればよい方で、大方は放置されたまま朽ち果てていったし、また、「行き倒れても郷里には知らせないでもいい」との旨を記した“捨て手形”を持った人も多かったという。

 ここで供養されている禅門なる人の正体はわからない。山中で修行していた行者かもしれないし、僧の姿はしているものの一介の巡礼者だったのかもしれない。しかし志半ばで亡くなった人であるには違いあるまい。

 熊野古道では、山中の道端や藪の中に苔生した小石碑や地蔵像などをみることが多い。忘れられた遺構ではあるが、一花手向けたいものである。

伏拝王子−−田辺市本宮町伏拝字茶屋
 林を抜けて伏拝の集落に入ってすぐ、古道の右手に低い丘があり、十数段の石段を登った狭い平地に『伏拝王子跡』を示す石祠と『和泉式部供養塔』が並んで立っている。
 両碑ともに、以前は別々の場所に離れてあったのを、いつの頃かこの丘の上に移されたものという。

 この王子は、上皇等が往来した参詣記にはその名がみえず、「九十九王子記」(1474)に記す和泉式部供養塔とともに『伏拝村外れの道の左側にある』というのが初出という。
 丘は南に開け、遠く南西方向の谷間に本宮本社の旧社地『大斎原』(オオユノハラ)を望むことができる。
 昔、中辺路の難路を難行苦行しながらこの地に到着した人々が、遠く熊野川と音無・谷田川の合流点にある熊野坐社(本宮大社)を望みみて、感動しながら伏し拝んだことからこの名がついたという。
 藤原定家も『感涙禁じ難し』と記している。古くからの本宮遙拝所である。

熊野古道−中辺路・伏拝王子への坂路
伏拝王子跡への坂道
熊野古道−中辺路・伏拝王子
伏拝王子社跡・石祠

◎和泉式部供養塔

熊野古道−和泉式部供養塔

 伏拝王子石祠のすこし左に立つ供養塔。卒塔婆形の長方形石塔の上に宝篋印塔の東進と笠部を積み上げたもので、延応元年(1239)の紀年銘がある。
 伝承では、紀州徳川家初代頼宣公(1602〜71)寄進というが、とすれば紀年銘と年代があわない。

 この供養塔は、ふたつの石造物を組み合わせたような形をしている。もと丘から村へ下りる“一里坂”の途中にあったというから、本宮からの距離を示す“町石”で、その上に宝篋印塔の上部を重ねたのではないかともいう。


 和泉式部(生没年不詳、977頃誕生との説あり)は平安中期の女性歌人で、恋多き女性として知られる。
 式部にからんで伏拝王子には次のような伝承が残っている。
 『和泉式部が熊野詣に出て伏拝まで来たとき、にわかに月の障りとなった。当時、女性の生理は不浄とされていたため、神詣ではできないものとあきらめながら、遠く本宮の森を伏し拝んで「晴れやらぬ 身の浮き雲のたなびきて 月のさわりとなるぞかなしき」との歌を詠んだ。
 するとその夜、式部の夢に熊野権現が顕れて「もろともに塵にまじはる神なれば 月のさわりも なにかくるしき」との返歌があった。これに喜んだ式部は、そのまま本宮に参詣することができた』というもので、熊野の神は“浄・不浄にかかわらず、すべての人々を受け入れる”ありがたい神で、他の神とは違うということを宣伝する説話といえる(熊野詣には厳しい精進潔斎が科せられ、月水については「本人は7日間の物忌精進」とある)

◎三軒茶屋跡

熊野古道−三軒茶屋跡  伏拝から本宮大社へ、杉林の中をとおる古道が一般道と交差する吊り橋のすぐ先に『三軒茶屋跡』との看板を揚げる休憩所がある。
 この地点は、中辺路と高野道(果無ハテナシ街道)との分岐点で、「右かうや十九り半、左きみい寺三十一り半」と刻まれた道標が立ち、傍らに“九鬼口関所跡”と記した関所の門が復元されている。
 説明によれば、『元和5年(1619)、水野重仲が新宮領主となって、かつての御幸道を改修した。当時は伏拝から本宮までの左右は松並木で道幅も広く石畳みがしかれていたが、今は道標と数カ所残る石畳みがその面影をとどめている』とある。
 近代になって、その名のとおり三軒の茶屋が建ち賑わったというが、今の休憩所がその名残である。
 昔の熊野古道には、各処に関所が設けられていたというが、当関所についての資料がなく詳細不明。

祓戸王子(ハライド・オウジ)−−本宮町下祓戸

熊野古道−祓戸王子

 中辺路の最終地点に残る王子跡。本宮町の住宅団地を抜けた一画、ちょっとした叢林の中に坐す。
 すぐ眼の先に本宮大社があるが、この社は明治26年に旧社地(大斎原)から遷座したもので、本宮旧社地・大斎原からはすこし離れている。
 今の本宮大社の地が祓戸王子の旧地ともいう。

 説明によれば、『この王子は、熊野詣における巡拝・休憩・宿泊所であった他の王子と違い、むしろ潔斎所として熊野本宮へ参詣する直前、旅の塵を祓い、身繕いを正すための場所であったと思われる。
 藤原定家は“明月記”のなかで、「建仁元年(1201)10月16日払暁、発心門を出ず、王子二(内水呑・祓殿)、祓殿より歩み指し御前に参る。山川千里を過ぎ遂に宝前を拝し奉る。感涙禁じ難し」とその喜びを記している』とあり、他にも当王子で身を浄めたとの記事が幾つか残っている。

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