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庚申信仰とは

 今、“庚申(コウシン)信仰”とか“庚申さん”といっても知る人は少ないであろう。
 “庚申”とは干支(エト)でいう“カノエサル”で、昔、年や日などを干支で記していたとき、60年(日)の周期で巡ってきた。庚申日は年に6回(年によっては7回、この年を「七庚申年」と呼ぶ)巡ってくるが、その庚申の夜、人々は身を慎み徹夜して過ごしたという。

T、庚申信仰とは
 庚申信仰とは、教祖もなければ経典・教義らしきものもない信仰で、今の我々からすると何とも得体の知れない俗信である。もともと中国の民間道教の一つで、その源淵は東晋時代の古書『抱朴子』(ホウボクシ、葛洪著・283〜363)に記されている『三尸(サンシ)説』によるという。

※三尸説
 『三尸』とは人の体内に住む三匹の虫で、それぞれ頭部・腹部・脚部に潜むとされる。
 抱朴子には、
  『人の体内に潜む三尸は形はないが、実は鬼神や霊魂の類である。人が死ぬと、三尸は体外に出て好き勝手なことができるので、常に人の早死を望み、庚申の夜、眠っている人の体から抜け出して天にあがり、人間の罪過を事細かく天帝に告げる』
とある。
 天帝(司令神ともいう)は、庚申の日には門戸を開いて多くの鬼神たちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すが、その最たるものが寿命の伸縮である。

 人間は誰しも過ちはあることで、それを60日ごとに天帝に報告されて寿命が短くなるのは困るわけで、そのために庚申の夜、三尸の虫が体内から抜け出られないように徹夜して過ごすことが必要、と説くのが庚申信仰の骨子で、特定の神仏に祈るものではなく、ただ庚申の夜一晩を寝ないで過ごすという特異な行為で、これを『守庚申』といった。

 この三尸説に対して、五来重氏は、古くからの庶民信仰から起こったとして、
  「すでに民間にあった日待・月待での徹夜の祭が、修験道の影響で庚申待になったもので、これは室町以降のことと思われる。しかも、その中間には先祖の荒魂をまつる“荒神祭”であったものが、音韻の類似から庚申に変化したものであろう。というのは、古くは“庚申”も“カウジン”と発音したらしいからである。
 そのために、庚申待の本尊を荒神の仏教化した忿怒形の青面金剛としたものと、私は理解している」
として、庚申待(待とは祭の意)は わが国に古くからあった先祖マツリを源とするもので、先祖の加護によって厄難をのがれ、豊作を願うのが目的だったが、後になると、庚申尊縁起に
  「それ年に6度の庚申あり。先ず一番の庚申には地獄の苦を遁れ、二番の庚申は餓鬼道の苦を遁れ、三番の庚申には畜生道の苦を遁れ、・・・この故を以て深く信仰する輩は寿命長久にして七福祭祀するなり。庚申の日には諸仏初め十二天童天降り、庚申帰依の衆生を加護し給ふ・・・」
とあるように、仏教と同化して広くおこなわれるようになったという。(石の宗教・2007)。 

※庚申の御遊
 この三尸説あるいは守庚申がわが国へ伝来したのは飛鳥時代とも奈良時代ともいうが、はっきりしない。
 しかし平安時代、宮中で天皇を中心とした守庚申がおこなわれていたのは確かで、これを『庚申の御遊』と呼んだ。「続日本後記」(869編纂)仁明天皇・承和元年(834)七月庚申の条に
  『中旬はじめの庚申の日だから、天皇出御のもと侍臣に酒を賜り、御前で囲碁をして遊んだ』
とあることや、慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」承和5年11月26日(庚申日に当たる)の条に、
  『(中国揚州の地で)廿六日の夜、人々は皆睡らない。これはわが国正月の庚申の夜と同じである』
とあること、その後の史書あるいは公卿の日記などからみて、9世紀末から10世紀のころ庚申の御遊は半ば恒例化していたという。

 宮中でおこなわれていた庚申御遊がどんなものだったかははっきりしないが、清少納言の「枕草子」(1000年頃)に、
  『(中宮さまが)「庚申御遊をなさいます」というので、内の大臣殿がいろいろお世話なされた。夜が更けてきた頃、題を出して女房どもにも和歌を詠ませることになった。みんなが緊張し、良き歌を詠もうと苦吟いていたが・・・』(94段)
とあるように、人々は管弦を奏したり、和歌を詠んだり、碁や双六をしたり、時には酒なども出して夜を過ごしたようで、睡らずに三尸の虫を体内に閉じこめるという庚申本来の趣旨からは外れた遊興的なものだったらしい。

※庚申待(コウシンマチ)
 この庚申の御遊という形で、一夜を睡らずに過ごして長寿を願う守庚申の風習は、鎌倉・室町時代になると上層武士階級へと拡がり、「吾妻鏡」にも守庚申の記事が散見され、また.続く室町将軍家あるいは織田信長が庚申待と称して酒宴乱舞の宴をもったとの記録もあり、これを『庚申待』といった。
 庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのであろう。

 この庚申待が一般庶民に広まったのがいつ頃かは不明だが、古書「庚申之本地」(1527、室町末頃)
  『貴賤上下ともに庚申を守れば七福が生ずる。貧人はその分にしたがって供物せよ』
とあること、関東地方にその頃の庚申塔が残っていることなどからみて、室町末期(16世紀前半)には一般に広まっていたらしい。

 ただ一般庶民の庚申待には、宮廷貴族のそれとは異なり礼拝対象となる神仏が登場してくる。
 はじめの頃は阿弥陀仏や薬師如来・文殊菩薩などの諸仏だったが、江戸時代にはいると、それらの庶民信仰を主導した密教僧や修験行者の影響を受けて、仏教系では青面金剛が単独の主尊となり、神道系では猿田彦命へと収斂していったという。

 いずれにしろ、そこでおこなわれる庚申待は、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ現世利益を得ようとするもので、三尸説など影も形もないものに変貌している。
 換言すれば、庶民の庚申待とは、古くから続いているカミ祀り(カミ祀りは夜おこなうのが本来の姿)・先祖祀りが庚申尊という珍しい神仏の祀りに変化したものといえる。

 庚申講の人々は、入浴するなどして身を浄め、庚申尊の前で般若心経や真言陀羅尼あるいは念仏を唱えるといった“おつとめ”をおこない、その合間に酒を飲んだり世間話をしたりして夜を過ごした(「長話は庚申の夜に」ともいったらしい)が、完全に徹夜するのではなく、鶏が鳴くのを聞いて祀りを終え寝にはいったともいう。
 古くから鶏が鳴くと夜のあいだ跳梁していた悪霊・邪鬼どもが退散するといわれ、すべての禍は去っていくといわれていた。これが今、庚申尊掛軸や庚申塔に鶏が記されていることの由縁でもある。

※庚申の神仏
 今、庚申信仰で礼拝対象となっているものは、仏教系では『青面金剛』、神道系では『猿田彦』というのが大方である。

◎青面金剛(ショウメンコンゴウ 
 庚申尊としての青面金剛は、室町末期頃に諸仏の一尊として現れ、江戸時代に入って主尊として崇拝されるようになったが、庚申と青面金剛との関係はよくわからない。

 青面金剛とは仏・菩薩ではなく、ましてや神でもない。仏教(密教)パルテノンの天部に属する夜叉(ヤシャ)の類である。夜叉とは、ヒンドゥー教にいう荒々しく怖ろしい鬼神だが、仏教に入って帝釈天の使者で毘沙門天の眷属となり北方を護るとされる護法善神で、中国で民間道教と習合して庚申尊となったという(仏教辞典)

 また雑密経典・「陀羅尼集経」によれば、“大青面金剛呪”という真言陀羅尼を唱えて青面金剛に祈れば、諸病たちまち治癒するという。特に江戸時代に死病として恐れられた労咳(ロウガイ、今の肺結核)は“伝尸(デンシ)病”とよばれ、これの予防・治癒には体内に潜む三尸九虫を駆除する要があり、それには青面金剛に祈ることが肝要とされていたという。
 この伝尸・デンシが字形・音ともに三尸・サンシに似通っていること、病気治癒に験があるとされたことなどから庚申と混同され、青面金剛が持ちこまれたのかもしれない。

庚申信仰−青面金剛童子像  陀羅尼集経に記す青面金剛は、一身四手(下手に三股叉と棒、上手に法輪と羂索を持つ)、身は青色、眼は三眼で牙をむき、髑髏を頂く逆立った頭髪や両腕には大蛇がまといつき、足許に邪鬼を踏まえるという恐ろしい姿で、その左右に童子二人を従えるという(中央に青色の主尊、左右に赤色2躰・黄色2躰の五夜叉一組が普通)

 これに対して庚申尊としての青面金剛はほとんどが主尊の一躰のみで、身は青色と経典に準じるが三面六手と腕が多くなり(一面もある)、中段の2手には弓と矢を持つのが普通で、二童子とともに三猿・鶏などを従えるという違いがある。
 他に二手・四手・八手などがあるというが、いずれもその忿怒相を以て邪霊を威嚇調伏し、教えに従わない衆生を教化するとされる。
 ただ庚申尊掛軸での青面金剛が、前に4夜叉を描いているところは経典に忠実といえる。

◎猿田彦
 仏教にいう青面金剛に対して、神道の側から「庚申の夜に祀るべき祭神は猿田彦大神である」と説いたのは、江戸前期の儒者・神道家である山崎闇斎(1618〜82)で、その流れを汲む神道家によって広まったという。

 サルタヒコとは記紀神話で天孫ニニギ尊の降臨に際して道案内者として現れた国つ神で、簡単にいえば“赤い顔をした鼻高の天狗”である。
 そのサルタヒコを庚申尊とするわけは、猿田彦の“猿”が庚申の“申”に通じることもあるが、サルタヒコが降臨するニニギの道の露払いをしたことかせ、禍を払う力があると考えられたためとも、別名・大田神と呼ばれるサルタヒコが田の神・豊饒の神とみなされ、豊作豊饒の願いを叶えてくれる神と考えられたためともいう。
 ここには、山の神が春になると里に下りてきて田の神となって豊饒を見守り、豊かな収穫を見届けて山に帰っていくという、わが国古来からの山の神・田の神交代信仰がうかがわれ、庚申尊が豊饒を司ると見られていたことを示唆している。

※庚申塔
 今、庚申信仰が残っているかどうかはわからないが、かつて庚申待がおこなわれていたことを証するものに『庚申塔』と呼ばれる一群の石碑・板碑がある。
 “庚申”・“庚申待”・“庚申供養”などと刻んだ文字碑、あるいは青面金剛を彫りこんだ石碑で、信州から北の東日本に多いというが、関西でも、注意すれば古い集落の片隅などで時折見かけることがある。

 庚申塔とは、庚申縁起に
  『一座と申すは三年に十八度なり。両三年目には供養致すべし。供養とは道の辺に塚をつき四方正面の卒塔婆を立てて供物をととのえ、云々』
とあるように、3年18度の庚申待を続けた記念として立てたもの、庚申年を記念したもの、特に庚申のご縁年として祝われた七庚申年を記念したもの、庚申講内に目出度いことが起こったのを記念して立てたものなど種々あるという。

 しかし、いずれにしろ庚申講あるいは庚申年を記念して石碑を立てることと、守庚申本来の三尸説とは何の関わりもない。庚申塔とは、縁起に“供養のために卒塔婆を立てよ”というように一種の供養塔ということもできる。その例証として、仏教で三十三回忌を迎えてホトケがカミになったことを祝って立てる“梢付塔婆”(ウレツキトウバ)と同じように、七庚申年を記念して枝先の梢が残る生木を立てる風習もあったという。
 庚申待が、三尸の虫を云々するというより、先祖の霊を祀る古来からの祭祀習慣の延長上に位置づけられていたことを示唆しているといえる。
 今、残っている最古の庚申塔は、文明3年(1471、埼玉県川口市)の庚申待板碑で、ついで文明15年(1483、東京都足立区)、長享2年(1488、東京都練馬区)が続くという。いずれも室町時代のもので、室町期には庚申信仰が一般に広まっていたことを示す遺構である。

庚申信仰−庚申塔
熊野・那智の庚申塔
(左は青面金剛)
庚申信仰−庚申塔
伊豆・修善寺の庚申塔

U、庚申信仰の現状
 庚申信仰は、いろんな変遷を経ながらも庶民の宗教生活になかに根を下ろしていたようだが、大正以降急速に衰えたという。
 資料によっては昭和30年代頃の農村部には残っていたともいうが、平成の世になった今、昔ながらの庚申信仰はなくなったといっていいだろう。
 例えば、江戸時代に日本三大庚申とその殷賑さをうたわれた大阪・四天王寺の庚申堂、京都・八坂の庚申堂、東京・入谷の庚申堂についても、大阪・京都の2社は庚申日ともなればそれなりの参詣人を集めてはいるが、東京・入谷のそれは廃絶しているという。

 庚申信仰を支えたのは同信心の者が集まってつくる“庚申講”だったといえるが、人々の社会的関係と宗教意識が大きく変わってしまった今、都会はもとより地方にあっても宗教を絆とした集まりがもたれることはなくなっている。
 今、四天王寺や八坂にお詣りする人々も老齢の方が多く、時が経つほど寂れていく可能性がある。
 四天王寺庚申堂・八坂庚申堂など、大阪近傍の庚申堂については稿を改めて記す。

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