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熊野修験と 熊野の縁起

※熊野修験
 熊野の地に仏教を浸透させ発展させたのは山岳修行者、所謂山伏と総称される修験道行者といえる。
 修験道は、山岳を神霊・祖連が坐す聖地として崇めたわが国古来の山岳信仰と、密教・道教などが習合して形成されたわが国独特の宗教形態をいう。

 今、山に行くといえば、レクレーションあるいは高山征服という我執によるものがほとんどだが、古来のそれは、山中の神気・霊亀に触れて我執を去ろうとする利自行であるとともに、そこで得られた超自然的な験力によって庶民の悩みを除却する利他行でもあった。

 わが国の修験道は、まず大峰・吉野にはじまり、それが南に広がる熊野へと入り、そこで吉野と熊野とが合体した大峰修験・新宮の神倉修験・那智の大滝修験といった修験道集団へとまとまり、各自別当と称する統率者のもので修行に明け暮れたという。

 この熊野3修験道が一体化したのが何時の頃かははっきりしないが、白河上皇が最初の熊野御幸(1090)から無事帰京したとき、その先導を務めた功により奈良・園城寺(三井寺)の長史・増誉(1032--1116)を初代の“熊野三山検校”(熊野検校)に任じ、あわせて現地在住の別当・長快(1037--1122)を“法橋”に補任したことから公的に認められ、熊野修験は僧網制に組み込まれ、圓城寺の傘下(本山派)に入ったという。

 検校とは、いわば熊野三山の精神的権威の象徴的存在で、当初は園城寺(三井寺・滋賀県大津市)から、後には聖護院(京都左京区)から検校職が出ている。
 これに対して別当とは在地での実質的な統率者で、宗務・諸寺の経営・治安維持・人事管理など凡てにわたる実務を束ねたという。

※熊野の縁起
 このように熊野は修験的色彩の強い神仏混合形態をもっていたが、そのなかから所謂“熊野の本地”と呼ばれる幾つかの縁起が生まれている。

 縁起とは、“精神的なものを含めて一切の現象は、互いに関係しあう種々の“因”と“縁”により生じる”という仏教の根本教義を指すが、わが国では、“社寺の創建由来・沿革・霊験譚”などを指す言葉として使われることが多く、熊野の縁起とは、“仏がどんな経緯で熊野の神として垂迹したか”を語るもので、通常「本地物」といわれる。
 これらの本地物は、当然ながら神仏習合が進んだ後に成立したもので、その内容は仏教的というより修験道的ときには道教的色彩が混入した荒唐無稽なものであるとともに、神話・伝承とは全く異なるものとなっている。

 今、熊野三社から出されている“参詣の栞”などには、熊野権現垂迹縁起からの引用が多く、垂迹縁起が今もって生きていることを示しているが、それは、熊野信仰が神道・仏教・修験道などが混在した複合的なものであって、熊野信仰全般についての定説がないことを示している。

 一般に知られている縁起としては、平安末期に出された「長寛寛文」(1164)が引用する「熊野権現御垂迹縁起」がある。

 そこには
 『(熊野三所権現は)むかし甲寅の歳、唐の天台山の王子・信が、高さ三尺六寸の八角形の水精の石となって、日本は鎮西の日子の峰(九州の英彦山)に降り、5年後に伊予国石鎚峰(四国の石鎚山)に渡り、次いで6年後に淡路国の遊鶴羽山(ユヅルハヤマ)に、また6年後の庚午の歳に紀伊国牟婁郡切部山の西の海にある玉那木(タマナギ)の淵の松の木に渡り、それから57年たった庚寅の歳に新宮の南・高蔵峰(高倉山)に降り給うた。
 次ぎに61年たった庚午歳、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に勧請された。これが結速玉家津御子と申す二宇社である。
 それから13年過ぎた壬午歳に、本宮大湯原の一位木(イチイノキ)の三本の末(枝)に三枚の月形となって天降り給うた。

 8年後の庚寅歳、石多川の南・河内の住人熊野部千与定(センノヨジョウ)という犬飼(猟師)が一丈五尺の猪を射、阿刀を追って川を遡って大湯原まで行くと、猪は一位木の下で死んでいたので、その宍(シシ・肉)を食らい、木の下で一泊した。
 すると、木の枝に三枚の月が懸かっているのを見つけた。

 月に「どうして雲上から離れて木の枝におられるのか」と聞くと、「吾は熊野三所権現であって、一枚の月は証誠大菩薩(セイショウダイボサツ・家津御子)と申し、あとの二枚の月は両所権現(夫須美神・速玉神)である」と告げられた』(漢文意訳)
とある。

 この縁起の主人公である王子・信とは、中国は天台山国清寺に山王・天弼真君(テンヒツシンクン)として祀られている周の霊王の太子・信という道教の神で、縁起譚の主人公を唐(カラ)・天竺(テンジク)に求める一つのパターンに沿ったものという。

 この縁起では、王子・信が唐天竺からわが国に渡来して各地を渡り歩き、最後に熊野三所権現として顕現したという話だが、中に出てくる八角の水精(水晶か)とか一位木・月形などは神の依り代あるいは神そのものとされるもので、この縁起がいろんな信仰の混合、特に道教的思想をもって熊野信仰を教義づけたものといえる。

 また王子・信が転々とした九州の英彦山以下の山々は、いずれも修験道・山岳信仰の聖地とされる処であって、それらの山々での修験と熊野修験が如何に強く結びついていたか、熊野の勢力がこれら霊山に及んでいたかを示すものといえる。


 また、鎌倉時代の写本といわれる「熊野日記」(熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記か)には、
 『昔、インド摩訶陀国に千人もの妃をもつ善財王と称する国王がいて、その中に“五衰殿の女御”と呼ばれる妃がいたが、その醜さゆえ国王の関心をうけられず惨めな日々を送っていた。
 その彼女が千手観音に一心に祈りを捧げると、金色に輝く美女に変身し、国王の寵愛を一身に受けるようになった。
 このため、他の妃たちから憎まれ、彼女が懐妊したことを知ると策をめぐらして無実の罪に陥れ、山中で惨殺してしまう。

 その時、彼女は月足らずのまま王子を産み、死後も骸から乳を出して王子に与え、また虎がやってきて王子を養った。
 王子が4歳の時、苑商山(オンショウザン)に住む貴見聖人が十羅刹女のお告げをうけて王子を見つけ、手元に置いて養った。
 王子が7歳になったとき、貴見聖人は王子を連れて宮中に参内し、これまでの一部始終を語って女御の無実を明らかにした。

 これを知って嘆き悲しんだ国王は、五垂殿の女御を殺した妃たちを嫌って、王子・聖人とともに黄金造りの飛車(トビクルマ)に乗り日本国に飛来した。
 始め英彦山に着き、やがて山々を転々と移動して熊野に落ち着くことになった。これが熊野三所権現の神々で、本宮の本地・阿弥陀如来は貴見聖人で、西宮(結宮)の本地・千手観音は五衰殿の女御で、中宮(速玉宮)の本地・薬師如来は善財王で、証誠殿左の一社(若宮)の本地・十一面観音は王子であって、それぞれが神として現れた』
との縁起がある。

 これも主人公を天竺・インドに求めた例だが、女御の無実が晴れるまでの前段は、“施陀越王経”(センダオツオウキョウ)にいう施陀越王の王子出生をめぐる過去の因縁が仏陀によって解き明かされたという説話(詳細不明)と類似しているといわれ、その説話が熊野の修験者間で改変されたものだろうという。

 この縁起は、先の垂迹縁起が道教的色合いが濃かったのに比べて、修験道の色彩が強く、そこには、古くから熊野に根付き勢力をひろげてきた修験道行者たちがかかわったことを示唆しているという。

 この縁起は、人々に、神社仏閣に祀られている霊験あらたかな神仏も、その前世にあっては、人の世の苦しみや悩みに翻弄されるか弱い人間であり、その人間が前世において様々な苦難をくぐり抜け、いかにして神仏として蘇ったかという“輪廻転生の物語”といえる。
 そして、そのような苦難をくぐり抜けた神であるからこそ、我々が抱える様々な苦難・悩みを聞いてもらえ、救ってもらえるのだという信仰へと連なるものといえる。

 なお、熊野縁起・五衰殿の女御は広く知られていたようで、神道集にも“熊野権現事”として一部加筆改変して載っている(お伽草子にもあるというが未確認)

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