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熊野/花の窟
花窟神社
三重県熊野市有馬
                                                              2007.10.22参詣

 日本書紀(神代上5段)
 「イザナミ尊 火の神を生みし時に灼かれて神退去(カムサ)りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬り(ハブリ)まつる。
 土俗(クニヒト)、此の神の魂を祭るに、花の時には亦花を以て祭る。又、鼓吹幡旗(ツツミ・フエ・ハタ)を用て歌ひ舞ひて祭る」
との一節がある(一書5)

 イザナギ・イザナミによる国生み・神生みの最後に、イザナミは火の神・カグツチを生んだがためにホト(陰部)を灼かれて死んでしまったので、その亡骸を熊野の有馬村に葬ったという神話で、その墓陵が、今、熊野市有馬村にある『花の窟』(ハナノイワヤ)だという。

 一方の古事記には、「神避りまししイザナミ神は、出雲国と伯岐国との境の“比婆の山”(ヒバノヤマ)に葬りまつりき」とある。

 書紀と古事記とでイザナミの墓陵の地が異なる理由は不明だが、古代ヤマトからみて、紀伊と出雲は南北の違いこそあれ、いずれも幽国(黄泉国、あの世)であり、顕国(この世)との境界をなす地と解され、その境界の地にイザナミを葬ったという意味では同じといえる。

 花の窟は、JR紀勢本線・熊野駅の南東約1kmに位置する。
 海沿いに走る国道42号線の間際まで円錐形をした山が迫り、その山腹に巨大な岩塊(H≒20m)が露出している。 

 その巨岩の下部にある大きな岩の窪みが、イザナミの墓陵・花の窟である(国史跡・天然記念物)

 今、当地は“花窟神社”(祭神:イザナミ・カグツチ)と称しているが、花の窟をご神体とする神社で社殿はない。

巨岩遠望(海岸より)

花窟神社・神門

◎花の窟
 鳥居を入り叢林の中の参道を進むと神門があり、その中が聖域となっている。
 聖域のなか、巨岩下部にみえるのが「花の窟」(高:約6m・最大幅:約2.5m・深さ約1m)と称する窪みで、その前を瑞垣(約9m四方)で囲み白石を敷き詰めた拝所の中に、金色の幣帛が立てられている。

 巨岩の各処には小さな穴・割れ目が開いている。手の届く割れ目には、海岸から持ってきたであろう白い小石が挟み込まれている。嘗ての熊野詣での人々が、道中の安全を願って手向けた小石かもしれない。

 
巨岩全景(下部に窪みあり)
 
花の窟

同 左 

 古代人にとっての岩窟・岩屋は他界・あの世への入口と解されていたという。
 出雲国風土記・出雲郡宇賀郷の条に、
 「即ち北の海の浜に磯有り。名は脳の磯(ナヅキノイソ)。・・・窟(イハヤ)の中に穴在り。人、入ることを得ず。深き浅きを知らず。夢に此の磯に至らば必ず死ぬ。故、俗人(クニビト)、古より今に至るまで、黄泉(ヨミ)の坂・黄泉の穴と号(ナヅ)く」
との説話がある。夢のなかで近づくだけでも人は死ぬ、いわんや窟に入るとは、である。
 一方、同・島根郡加賀の神埼(カムサカ)条には、
 「即ち窟有り。高さ十丈ばかり。周り五百二歩ばかり。東と西と北に通る。所謂佐太大神の生まれし処也」
とあり、岩窟は生命の生まれ出る聖地(再生の場)とも観念されていたという。

 花の窟は大きな窪みであり穴ではないが、観念上では岩窟と同じで、そこにイザナミを葬ることは、死者を幽国に送るとともに、その再生を願ってのことともいえる。

 イザナミは多くの国を生み神々を生んだが、一方、黄泉比良坂(ヨモツソラサカ・此岸と彼岸の境)で逃げ帰ろうとするイザナギに対して、「汝の国の人草(ヒトクサ・人々)、一日に千頭(千人)(クビ)り殺さむ」と宣言している(古事記)
 国を生み神を生み人草を殺すということは、イザナミが古代世界にみられる大地母神(ダイジボシン)であることを示唆するもので、花の窟に聳える巨岩とは、生と死を司る大地母神の身体であり、窪みはイザナミのホトとも解される。
 ホトとは、すべての生命が生まれ出、且つ死して帰っていく母なる故郷でもある。

◎王子の岩屋
 平安中期の旅日記・「いほぬし」(増基法師・10世記末頃)に、
 「花の窟のもとまで着きぬ。見れば、やがて岩屋の山なるなかを穿きて経を込め奉りたるなりけり。これは弥勒菩薩の出給はん世に、とり出したてまつらんとする経なり。天人つねにくだりて供養し奉るといふ。げに見奉れば、この世に似たるところにもあらず。卒塔婆の苔に埋もれたるなどあり。
 傍らにわうじ(王子)の岩屋といふあり。ただ松のかぎりある山なり。そのなかに、いと濃き紅葉などもあり。むげに神の山と見ゆ」
との一節がある。

 これによると、平安時代の当所は、イザナミの墓陵というより、弥勒信仰にもとずく埋経(マイキョウ)のちあるいは風葬・埋葬の場として知られていたようで、伝聞によれば、近年になっても経典や人骨が出土したという。

 弥勒信仰とは、釈迦入滅後56億7千万年後に此の世に現れ、一切の衆生を救済するという弥勒菩薩を待ち望む信仰で(弥勒下生-ミロクゲショウ)、平安時代から、弥勒出現の時に居合わせてその救済に与らんがために、写経した経典を地中に埋める行為(埋経)が貴族階級を中心に流行したという。
 なお、弥勒信仰には、弥勒菩薩が住むという兜率天(トソツテン)への往生を願う弥勒上生信仰もある。

 「いほぬし」(庵主)とは、増基(ゾウキ)という僧が、京から中辺路・熊野本宮を経て伊勢路を通り帰京するまでの見聞記で、
 「何時ばかりのことにかありけん、世を逃れて、心のままにあらむとおもひて、世のなかに聞きと聞く所々、おかしきを尋ねて心をやり、かつは貴き所々拝みたてまつり、我が身の罪を滅さむとある人有りけり。いほぬしとぞいひける」
との一文で始まり、熊野にかかわる最古の紀行文という(10世記末頃)
 岩屋社頭の案内には、「平安時代中頃の長徳元年(995)12月、増基法師が花の窟を訪れ、云々」とある。

 花の窟に向かい合って一つの岩場がある。
 “いほぬし”がいう“王子の岩屋”がこれだろうが、白い小石を敷き詰めた奥に大きな岩石の上に人頭が乗っているような岩があり、前面瑞垣脇の標柱には“祭神 軻遇突智尊”(カグツチ)とある。

 カグツチとは、イザナギ・イザナミの御子の“火の神”で、イザナミ逝去の原因となった神をいう。
 カグツチの“カグ”は“輝く光・火”を、“チ”は神霊・霊魂を意味することから(ツはの)、カグツチとは“光り輝く火の神”であり、火之迦具土神(ヒノカグツチ)・火之夜藝速男神(ヒノヤギハヤオ)とも記す

 カグツチは怒ったイザナミによって斬り殺されるが、その死体からは山の神が、飛び散った血からは岩石神・水神・雷神などが生まれたという。
 この神話には幾つかの解釈があるが、火山現象と結びつけ、山神の化生は溶岩が冷え固まって岩山となることを、水神・雷神の化生は噴火に伴う雷電・大雨・大水などの現象を表すともいう(日本神話の研究・1998)
 

 このカグツチ誕生神話は、世界各地にある“火の起源神話”の一類型で、起源神話とは
 ①英雄(あるいは神)が、天上の火を盗んで人類にもたらしたという“プロメテウス型”
 ②神・人間(老婆が多い)あるいは動物の体内から火が取りだされ、人間に与えられたという“体内型”
 ③火の神自身が、何らかの神から誕生するという“アグニ型”
などに大別されるが、カグツチ神話は③のアグニ型(アグニ--インドの火の神)を主体とし、②の体内型が加味された混合型とみることができる。

 アグニ型の火の神は、生まれるやいなやその母胎である神を焼き殺すといわれ、それはカグツチがもつ火の神としての属性により、イザナミがホトを灼かれて死んだことと通じるが、逆にみると、大地母神であるイザナミが自らを滅することで、人々が生きて行くに必要な火を生み出したともとれる。
 また体内型とは、イザナミ自身がその体内に火を蔵していたとみるもので、これが火の神・カグツチという形で外に出たことは、火きり杵の回転により火きり臼が火を発する古代の発火行為に通じるともいう。

◎お綱掛け神事--三重県指定文化財
 花の窟では、毎年2月2日と10月2日に“お綱掛け神事”と称する祭がおこなわれている。 
 書紀にいう  
  「土俗(クニヒト)、此の神の魂を祭るに、花の時には亦花を以て祭る。又、鼓吹幡旗(ツツミ・フエ・ハタ)を用て歌ひ舞ひて祭る」
に因む特殊神事である。

 神事は、花の窟の巨岩の頂上から、藁縄で編んだ長さ180mほどの大綱を、一旦境内の高柱まで引き渡し、そこから海岸まで引き下ろしておこなわれるという。

 張り渡された大綱には、縒った藁縄を梯子状に組んだ細長い幡旗(ハタ)5流が垂れ下がり、その中央3流の下部には季節の花(春:ツバキ・ダイダイなど、秋:キク・ケイトウなど)が、両側2流には日の丸を描いた白扇が括りつけられるという。
 なお、中央3流はイザナギ・イザナミが生んだ3貴神・アマテラス・ツクヨミ・スサノオを表すともいう。

 
お綱掛け神事・古図
 
春に掛けられたお綱が残っている
 
幡旗のサンプル

 今の幡旗は藁縄で作られているが、紀伊続風土記(1806・江戸後期)によれば、
 「寛文記に、昔は紅の幡旗に金銀にて花を作り散らし、火の祭と云ひしとある。錦の旗は毎年、朝廷より奉献給ひしが、いずれの年にか熊野川洪水にて錦旗を積みし御舟破れしか、祭日に至り、せんすべなく縄にて旗を作りし。其の後、錦旗のこと絶へて縄を用ふ」
とあり、昔は朝廷から下賜された錦の旗を用いたという。

 このお綱掛け神事は、書紀にいうように、当処に葬られたイザナミの霊を鎮めるための神事というのが一般の理解だが、農耕神事という一面もある。
 古代にあって、花といえば“稲の花”を意味したことから、お綱掛け神事で大綱に吊される花とは、単なる季節の花ではなく“稲の花”を象徴するもので、春2月のお綱掛け神事は、その年の稲の豊作を祈る予祝神事であり、秋10月のそれは豊作に感謝する収穫祭ともいえる。

 この大綱は毎回新たに掛けられるが、その時、前回の大綱が残っていても取り除かず、それし、豊作を約束するものとして喜ばれたともいわれ、この神事が豊穣を願う神事であることを示唆している。

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