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熊野速玉大社
別称:熊野新宮大社
和歌山県新宮市新宮
主祭神--熊野速玉王神
併祭神--熊野夫須美大神・家津御子大神・天照皇大神
                                                                2010.10参詣

 延喜式神名帳に、『紀伊国牟婁郡 熊野速玉神社 大』とある式内社

 熊野川河口の町・新宮市西方の山裾に鎮座し、熊野新宮大社ともいう。

※由緒
 社頭に掲げる由緒には、
  「神代の頃、神倉山(権現山東南端)に御主神の熊野速玉大神(伊弉諾尊)・熊野夫須美大神(伊弉冉尊)が降臨、景行天皇の58年春3月に現在の境内へ早玉宮・結宮の2神殿を建てて神倉山から御遷宮、奈良朝末期頃から神仏習合・修験道によって熊野信仰が全国へ飛躍的に流布するに及び、中世熊野御幸は140度、各地よりの参拝は『蟻の熊野詣で』との諺が生じるほど盛行を極め、次々と諸神を追祀して壮大な熊野十二所権現の御社頭となった」
とあり、

 社務所で頂いた由緒には、
  「諸書によって考察すると、まず熊野三山の中心となる速玉(ハヤタマ・熊野速玉王神)・結(ムスビ・熊野夫須美大神)・家津御子(ケツミコ・家津御子大神)と申し上げる三柱の神が、神代の頃に神倉山に降臨され、次に熊野川の対岸・石淵に2社殿を建てて祀られ、景行天皇58年、新しく境域・社殿を現在の処に築営して速玉・結の2神を御奉遷申し上げたものと思われる」
とある。

 両者とも、神代の頃、速玉と夫須美(結)の2神(或いは家津御子を加えた3神)が神倉山に降臨されたというが、これは、熊野権現御垂迹縁起(1164・長寛勘文所収)を承けたもの。
、続く、景行天皇58年に速玉・夫須美2神を現在地へ奉遷したというのが、当社創建にかかわる縁起となる(この部分は御垂迹縁起にはない)

 これについて、紀伊続風土記(1910・明治末)にも、
  「此の三神再遷座し給はんとて、崇神天皇の御世石淵谷より本宮に遷し奉り、神倉にそのまま跡を止め給へるを、景行天皇の御世今の新宮の地に遷し奉れり」
とある。

 これによれば、当社の創建は景行天皇58年(4世記末頃か)となるが、古墳時代前期末頃とされる景行朝に常設な神社があったと思えず、景行朝創建とは伝承にしかすぎない。

 このように、当社の創建年代は不明だが、公式史料に上での当社の初見は、新抄格勅符抄が引く大同元年牒(806、奈良朝以後、社寺に与えられた封戸の記録)に、
 ・速玉神 四戸 紀伊 神護2年9月24日奉充
との記録で、これからみと、当社は天平神護2年(766・8世記前記)以前からあったのは確かといえる。

 また、当社に対する神階綬叙記録としては、
 ・貞観元年(859)正月27日--紀伊国・・・熊野早玉神・熊野坐神に並従五位上
 ・  同      5月28日--紀伊国従五位上熊野早玉神・熊野坐神に並従二位
 ・貞観5年(863) 3月2日-- 紀伊国従二位熊野早玉神に正二位を授けき (以上、三代実録)
 ・延喜7年(907) 10月2日--紀伊国牟婁郡正二位熊野早玉神正一位を、又従二位熊野坐神に正二位を授く (日本紀略)
とあり、貞観元年から延喜7年までの間(49年)に従5位から正一位まで上り詰めている。
 (なお、紀伊続風土記には、長寛勘文の引用として「天慶3年に速玉神と熊野坐神に正一位が授けられた」とあるが、日本紀略・同年条にそのような記録はない)

 これらの記録からみると、貞観元年には速玉神・坐神(熊野本宮)に同位の神階が同時に与えられているが、その後、坐神への記録はみえず、延喜7年のそれには速玉神・正一位、坐神・正二位と差がついている。
 今、熊野三山の首座は熊野本宮大社と思われているが、古くは、熊野速玉大社が三山の中心と理解されていたようで、本宮大社が首座とみられるようになったのは、上皇による熊野御幸(クマノゴコウ、907年の宇多上皇が最初)が盛んになった11世記以降(白河上皇・寛治4年・1090以降9回)、神仏習合によって坐神が阿弥陀如来の垂迹とされてからかもしれない

 また、神階綬叙記録あるいは延喜式神名帳に、那智の夫須美神(結神)の名は見えない。
 これについて、紀伊続風土記・那智大社条には
  「式の熊野早玉神社は二神の名にして、熊野といふは熊野夫須美大神にして、早玉とは御子早玉大神なり。此の二神元一殿に祀りし故熊野早玉神社といふ。
 御幸記神名を挙げて先ず証誠殿、次に両所といふは是なり。両所とは、熊野夫須美神と御子速玉神と二社合殿なるをいふ」
とあり、古く、この2神は一殿に祀られていたという。
 ただ、藤原定家の熊野御幸記(1201)には、まず本宮に参り、次ぎに新宮・那智と回っている。ということは、その当時、既に両社が分離していたことを示している。

 当社は熊野新宮大社とも呼ばれるが、その新宮とは何処に対する新宮かについて、嘗ては、紀伊続風土記に 
  「新宮(ニヒミヤ)は本宮に対する名に聞ゆれば、崇神天皇の御世の方(伝承では崇神朝の創建というがやや早ければ本宮(モトミヤ)と称え、景行天皇の御世はやや後なれば新宮(ニヒミヤ)と呼び奉りしならむか」
というように、本宮に対する新宮とみていたが、
 今は、由緒にいうように、当社が神倉山からの遷座ということを重視して、神倉山に鎮座する神倉神社に対しての新宮とする説が有力という。
 ただ、当社の祭礼等に神倉にかかわるものがないため、これを疑問視する説もあるという。


※祭神

 熊野十二所権現すべてが祀られているが、主となるのは
 ・第二殿 速玉宮-熊野速玉大神--別名:伊弉諾尊--当社主祭神
 ・第一殿 結  宮-熊野夫須美大神--別名:伊弉冉尊
 ・第三殿 証誠殿-家津御子大神--別名:素戔鳴尊
 ・第四殿 若  宮-若一王子--別名:天照皇大神
 ・第五殿 神倉宮-高倉下命(神倉神社祭神)
である。

社殿配置図

 他に、同じ神域内に
 ・第6~9殿---中四社--禅師宮(天忍穂耳尊)・聖宮(火瓊瓊杵尊)・児宮(彦火々出見尊)・子守宮(鵜葺草葺不合尊)
 ・第10~13殿--下四社--一万宮十万宮(豊斟淳尊国狭槌尊)・勧請宮(泥土煮尊)・飛行宮(大戸之道尊)・米持宮(面足尊)
 ・第14殿----奥御前三神殿(天之御中主神・高皇産霊神・神産霊神)
また、神域右手に
 ・第15殿----新宮神社(末社、新宮市内に祀られていた神々13柱、明治41年合祀)
 ・第16殿----熊野恵比須神社(末社、昭和45年合祀)
があり、また神域から離れて
 ・手力男神社(鑰宮-カギノミヤ)
 ・八咫烏神社(昭和57年遷座)
がある。(右上の社殿配置図参照)

 なお、当社祭神(十二所権現)については別項「熊野の神々」、神倉宮については別項「神倉神社」参照のこと。


※社殿等
 一の鳥居をくぐり、参道を進んだ先の神橋を渡ると神門があり、境内に入る。
 横に広い境内の奥に、左寄りの拝殿(切妻造平入・銅板葺)から左右に伸びる瑞籬の奥に本殿が並ぶ。ただ、瑞籬が高く屋根のみしか見えない。
 本殿は、左から第一殿・結宮、第二殿・速玉宮の2宇は独立した社殿(切妻造妻入・銅板葺)を有し、
 その右に並ぶ横長の合祀殿(切妻造平入・銅板葺)内に第三殿・証誠殿、第四殿・若宮、第五殿・神倉宮が鎮座する。
 又、その右に中四社・下四社の合祀殿が建つ(上提、社殿配置図参照)

 第一・第二殿が独立社殿で他は合祀殿であることは、当社主祭神は速玉大神だが、夫須美大神もそれに準ずる扱いを受けていることを示唆する。

 
熊野速玉大社・一の鳥居
 
同・神橋
 
同・絵図
 
同・神門
 
同・拝殿

同・本殿 (屋根が見えるのみ)
左から、第一殿・第二殿・第三~五合祀殿

◎末社
 本殿域の外、境内右手に、朱塗りの小祠2宇
 ・第15殿 新宮神社--旧村社・太上社(大己貴命)他6社、無格社・火之神社(軻遇突智命)他5社、計13社を祀る合祀殿で
                 元新宮の近傍にあった小祠を明治41年(1908)当社内に合祀したという
 ・第16殿 熊野恵比須神社
が並ぶ。
 なお、第14殿 奥御前三神殿(天御中主神他2座)は、第二殿と三殿の間にあり、外からは実見不能。

 また、参道脇に立つ朱塗りの鳥居の奥に、末社2宇
 ・左:天力男命神社(天手力男命)--鑰宮(カギノミヤ)ともいう
 ・右:八咫烏神社(建角身命)
がある。
 社頭の説明によれば
 ・天力男命神社は、延喜式神明帳に「紀伊国牟婁郡 天力男命神社」とある式内社で、元は神門内にあったが、嵯峨天皇・弘仁4年(813)に勅命により現在地付近に移された小祠で、
 ・八咫烏神社は、古くから熊野川右岸の丹鶴山山麓にあった小祠で、昭和37年現在地に移されたものという。


第15殿・新宮神社 
 
第16殿・熊野恵比須神社
 
左:手力男命社・右:八咫烏社

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