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熊野本宮大社
和歌山県田辺市本宮
主祭神--家津美御子大神
併祭神--速玉王神・熊野牟須美大神・天照皇大神

                                                             2010.10参詣

 今、熊野本宮は新宮川(熊野川に続く)西岸のやや小高い処に鎮座するが、明治初頭までは、現鎮座地の東南東約500mほどの熊野川と音無川・岩田川とが合流する三角州・大斎原(オオユノハラ)に鎮座していた。
 それが明治24年(1891)の大洪水で被災し、翌々年、上四社(誠証殿・速玉宮・結宮・若宮)を現在地へ遷し、残りの中・下四座は大斎原に残る石祠に祀られているという。

 国道168号線に面した大鳥居につづく参道の石段を登り、正面に『日本一 大霊験所』との扁額(豊臣秀頼寄進という)があがる神門を入ると、玉砂利を敷き詰めた境内に入る。
 境内には神さびた3棟の社殿(誠証殿・西御前・若宮)が横に並び、その前面を画する瑞籬には4っの鈴門が開く。
 この結構は、場所こそ違え、一遍上人絵巻などにみる古社殿(大斎原)そのままである。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
  「当宮は熊野三山《本宮・新宮・那智》の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く世に知られています。
 御主神は家津美御子(ケツミミコ)即ち素戔鳴尊(スサノオ)と申し、樹木を支配される神であり、紀国《木ノ国》の語源もここから起こっております。

 大神は、植林を御奨励になり造船を教えられて外国との交通を開かれ、人民の幸福を図られるとともに生命の育成発展を司られた霊神で、第十代崇神天皇の御代に熊野連(クマノノムラジ)が当地に社殿を造営したと伝えられています。

 奈良朝の頃から、修験の行者が頻繁に出入りして修行し、ますます神威がひろまりました。
 延喜7年《約千年前・929》、宇多天皇の御幸をはじめ約三百年にわたり、法王・上皇・女院の御幸は実に百数十回に及びました。

 これと前後して、当時の神仏習合によって、御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者が全国各地から熊野の深山幽谷を埋め、『蟻の熊野詣』とか『伊勢に七度熊野に三度どちらが欠けても片参り』などとうたわれるとともに、全国に御分社を祭り、その数は現在約五千社を数えます」
とある。

 この由緒は、当社主祭神・ケツミコ神をスサノオ尊として記したものだが、そこに記されているスサノオの事跡に関して、日本書紀8段一書5には
 ・素戔鳴尊が「韓郷(カラクニ)の嶋には金銀がある。もし吾が児が治める国に舟がなかったら良くないだろう」といわれ、
 ・髭を抜いて放つと杉の木に、胸の毛を放つと桧に、尻の毛は槙に、眉の毛は樟になった。
 ・そして、その用途を定めて、「杉と樟は舟を、槙は現世の国民の寝棺を造るに良い。その為の沢山の木の種子を皆播こう」といわれた。
 ・このスサノオの子である五十猛命(イタケル)・妹の大屋津姫命(オオヤツヒメ)・抓津姫命(ツサマツヒメ)は、よく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。
 ・その後、スサノオ命は熊成峯(クマナリノミネ、比定地不明)においでになり、ついに根の国(死者の国)にお入りになった。
とある(大意)

 上記由緒は、これら書紀の記述を潤色改変したもので、本来の創建由緒というより、伝承にもとずく後世の創作とみるべきあろう。


 当社の創建時期について、当社参詣の栞は
  「熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではないが、神武天皇東征以前に既に御鎮座になったと云われており、崇神天皇65年に社殿が創建されたと“神社縁起”などに記載されている。
 熊野大神を斎き祀ったのは熊野国造家だが、この氏族は、アマテラスの孫・饒速日(ニギハヤヒ)の子孫で物部氏の祖にあたる。
 ニギハヤヒの孫が味饒田命=熊野連に当たり、その孫が成務天皇の御代に国造を賜り、爾来この子孫が代々大神に奉仕し江戸時代に及んだ。
 奈良朝の頃より、熊野においては仏教が取り入れられ本地垂迹がおこなわれたが、平安朝以後は仏化して熊野三所権現・熊野十二所権現と称して、祭神に仏名を拝するようになり、云々」
とあり、

 また紀伊続風土記(1910・明治末)には
 「此三座の神此地に鎮まり座せる初めを考ふるに、水鏡(1196頃・鎌倉初期)に“崇神天皇65年”と申して熊野の本宮は出おはしまししなりと見ゆ。
 此れは神世より阿須加の社の北の石淵に鎮まりまししに、崇神天皇の御世此地に宮作りして新たに遷りなせるなり。
 本宮と称するは、三山の内にして今の地に祭り奉れる事、当社最先なることを以て本宮と称し奉れるならむか」(本宮大社条)
とあり、いずれも崇神65年創建という(崇神17年とする古資料もあるという)

 しかし、神武天皇以前というのは論外であって、崇神朝とするのも、古墳時代前期とされる4世記中頃に常設の社があったとは思えない(ただ、必要の都度、神籬を設けての神マツリはあったかもしれない。なお、書紀・崇神65年条は崇神天皇の崩御年で、任那からの朝貢記事はあるものの、神事についての記述はない)

 また、ここにいう熊野連(クマノノムラジ)とは
 ・先代旧事本紀(国造本記、9世紀前半、物部氏系史書)に、
  「熊野国造 成務朝の御世、ニギハヤヒ五世孫・大河斗足尼(オオアトノスクネ)を国造に定む」
 ・新撰姓氏録(815)
  「山城国神別(天神) 熊野連 饒速日命孫味饒田命之後也」
とある氏族で、熊野国造家系譜(ネット資料・真偽不問)によれば、
 ・大河斗足尼の子・稲比に熊野直(クマノアタヒ)の姓が与えられ
 ・その9世の孫・伍百足が熊野本宮禰宜に任じられ、
 ・その子・蝶に熊野連の姓を賜った(その後、南北朝時代に和田と改姓したという)
とある。

 成務朝に任じられたという国造職は、その地方の有力豪族に与えられたものであることから(大化改新以降のそれとは異なる)、熊野国造家は、古くからから当地方を支配していた豪族であって、当社祭祀にもかかわっていたと思われる。
 しかし、旧事本紀は多くの国の国造任命を成務朝としていることから、その真偽は疑わしく、少し後かもしれず、成務3代前の崇神朝創建というのも伝承とみるべきであろう。

 公的史料上での当社の初見は、神抄格勅符抄が引用する大同元年牒(奈良朝以後の封戸記録)にある、
 ・熊野牟須美神 四戸 紀伊 天平神護2年奉充
で、神名からみると那智大社への封戸記録とみられるが、ネットにみる大同元年牒には“熊野坐神社”との注記があって当社に対するそれだという。とすれば、当社は天平神護2年(766)にあったのは確かといえよう。

 また、延喜式神名帳(927)には、
 ・紀伊国牟婁郡 熊野坐神社 名神大
とある。

 蛇足ながら、紀伊続風土記には、熊野権現御垂迹縁起(別項「熊野の神々」参照)の後に続けて、
  「千与定はいづれの人なる事詳ならざれども、其の時に当りて一僧ありて、本宮の南15町許なる山中大湯原(今の湯の峰のことなるべし)の地に御正体といふべき三箇の鏡を懸置きしに、八ヶ年を経て八与定大猪を追ひて此地に至り、一宿を経て彼の三箇の御正体を見出し、尊信渇仰して人々に伝えしより、一同雷同して一社は誠証大菩薩、一社は両所権現と称へ、これより三所権現の称始めて起りしなるべし」(本宮大社条)
とあり、垂迹縁起とやや異なっている。


※祭神
 社頭の案内には、
 ・御本社(誠証殿) 家都美御子大神(素戔鳴尊の別名)
 ・西御殿(速玉宮) 御子速玉王神
       (結 宮)  熊野牟須美大君
 ・東御殿(若 宮)  天照皇大神
とあるが、主祭神・家都美御子大神(ケツミミコ)は通常・家津御子大神(ケツミコ)と呼ばれる神で、素戔鳴尊(スサノオ)の別名という。

 また、当社発行の「参詣の栞」には
  「主祭神は家津御子大神・別名:熊野加武呂之命(クマノカムロノミコト)で、古史によれば、はじめ海原を治められたが、出雲国の簸の川上に下り八岐大蛇を退治され、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を得てアマテラスに献上し、国土の経営はもとより、遠く大陸をも治められたとある。
 紀伊続風土記(1910・明治末)に、『大神大御身の御毛を抜いて種々の木を生じ給ひ、其八十木種の播生れる山を隠鬱野(クマヌ)とも木野ともいへるより、熊野奇霊御木野命(クマノクシミケヌノミコト)と称し奉るべし』」《 》は原注
とあり、記紀にいうスサノオの事蹟が縷々記されている。

 ケツミコをスサノオの別名とするのは、
 ・ケツミコは、出雲にある熊野大社の祭神・クシミケヌの別名で
 ・出雲国造神賀詞に
  「伊射那伎(イザナギ)の日真名子(ヒマナコ。マナコ=愛し子、日は敬称)、加夫呂伎(カブロキ・敬称)熊野大神櫛御気野命(クシミケヌ)
とあり、クシミケヌはイザナギの愛し子だという
 ・また、イザナギの愛し子とはスサノオを指す
ことから、クシミケヌの別名であるケツミコはイザナギの愛し子・スサノオを指す、という論法による。

 しかし、クシミケヌをスサノオとするのは平安初期頃からといわれ、元々は別神とみるのが妥当であり、そこからみてケツミコ=スサノオ説は平安以降の付会といえる。

 ケツミコは“ケ(食物)+ツ(の)+ミコ(御子)”であり、クシミケヌは“クシ(奇)+ミケ(御食・食物)+ヌ(主ヌシ)”を指すことから、両神ともに食物神・穀神、五穀の豊穣を見守る神という。

 併祭神である御子速玉王神(熊野速玉王神)と熊野夫須美大神とは、熊野速玉大社および那智大社それぞれの主祭神で、ケツミコとあわせて熊野三所権現という。
 また若宮・天照皇大神とは、熊野十二所権現を構成する五所王子の筆頭・若宮を指す。“若”を“御子”の意としてイザナギの御子・アマテラスというのだろうが、これは後世のこじつけであろう。

 当社は、古くは熊野十二所権現と総称される12柱の神々を祀っていたが、明治24年の大洪水で旧社地・大斎原の社殿が被災し、現鎮座地に遷座したとき、上記4座のみを現社地に遷し、残りの8座は旧社地に残る石祠に残したという。

 注--これらの神々については、別項「熊野の神々」を参照のこと。


※社殿等
 国道168号線に面して立つ大鳥居を入り、長い参道を過ぎて神門を入り、玉砂利を敷き詰めた境内に入ると、神さびた社殿3宇が南面して並び、その前面を画する瑞籬には4っの鈴門(拝所)が開いている。

 社殿は左(西側)から、
 ・相  殿-- 第二殿・速玉宮、第三殿・結宮の合祀殿、(切妻造平入り檜皮葺)
 ・御本殿--第一殿・誠証殿(向拝付き切妻造妻入り檜皮葺)
 ・第四殿--若宮、(本殿に同じ)
が並ぶが、瑞籬が高く、社殿の屋根が見えるだけで、その詳細は見えづらい。

 現社殿は、享和2年(1717)徳川家斉将軍の命により、紀州公治宝鄕が音無里(現大斎原)に建立し、明治の大洪水で破損したものを修理して遷したものという(社頭案内)


熊野本宮大社・大鳥居 

同・神門 
 
同・社殿配置図
 
同・社殿全景

速玉宮・結宮相殿社殿 
 
証誠殿社殿
 
若宮殿社殿

◎証誠殿
(ショウセイデン)
 本宮大社の主本殿は、『証誠殿』と呼ばれる。
 今、証誠殿には主祭神・ケツミコ大神が祀られているとされるが、神仏習合が常態であった江戸時代までは、ケツミコ大神というより西方浄土(極楽浄土)の主尊・阿弥陀如来が坐す処として親しまれていた。

 多くの人々が熊野を目指したのは、熊野縁起に
  「大日本国六十余州の一切衆生、恭しく我が許(誠証殿)に詣でば、貧窮を除き、富貴を与え、現世に安穏、後世には善処(浄土)に生ぜん」
というように、証誠殿に坐す阿弥陀如来に極楽往生を確かなものにしてもらい、現世を安穏に過ごさせて貰いたいがためであったという。
 なお、証誠とは「念仏を唱える者は極楽往生疑いなし」という意味で、阿弥陀信仰・極楽往生希求の信仰からの呼び名という。

 今、本宮大社にある3宇の社殿をみるとき、左にある相殿が最も大きく、その右(3宇の中央)にある証誠殿が主殿との印象は薄い。

 今の熊野本宮大社に、かつての熱烈な阿弥陀信仰の痕跡はない。これは、明治の神仏分離によって仏教色が排除されたためで、嘗て、神と仏は一体という信仰があったことを知らない今の参詣者にとって、この地が阿弥陀信仰の聖地であるとの認識はないであろう。

◎一遍上人の熊野成道
(イッペンショウニンのクマノジョウドウ)
 大斉原にあった頃の証誠殿には、時宗の祖・一遍(1239--89・旧名:智信)にかかわる「熊野成道」(クマノジョウドウ)という話が伝わっている。

  念仏称名(ショウミョウ)による極楽往生を広めていた智信は、「南無阿弥陀仏 六十万人往生決定」と記した念仏札を配っての布教に一抹の疑問を懐き、証誠殿に参籠して阿弥陀如来の教えを仰ごうとする。
 参籠していると証誠殿の戸が開き、白髪で長頭巾を被った山伏姿の熊野権現が現れ、
  「融通念仏(ユウズウネンブツ)すすむる聖、いかに念仏をばあしく(無理に)すすめられるぞ。御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。 阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生はじめて往生するところ也。 信不信をえらばす、浄不浄をきらわず、その札を配るべし」
と告げた。
 ややあって目を開いてみると、十二・三歳ごろの童子百人ばかりがやってきて、手をさしだして「その札うけむ」といい、念仏札をうけとってどこかへ立ち去った、という。

 ここで熊野権現は、念仏の功徳を信じて称名することによってのみ、極楽往生ができるという智信の考えを否定し、信不信・浄不浄にかかわらず衆生を救うのは阿弥陀如来であるから、智信はただ念仏札を配りさえしたらよい。配られた念仏札を手にした人は、信不信にかかわらず必ず往生できる、と教えたということで、阿弥陀仏の救済は、人智・人力を超えたところにある、との教えといえる。

 その後、智信は名を一遍と改め、「大権現の神託を授かりし後、いよいよ他力本願の深意を領解(リョウゲ)」したとして全国を遊行して念仏を勧めてまわり、そのなかで信濃国で“踊り念仏”をはじめたという。
 
◎大斉原(オオユハラ) --旧社地
 大洪水以前の当社は、熊野川と音無川・岩田川の合流地点・大斉原に鎮座していた。
 紀伊続風土記は、
  「当社の境ち熊野川の中島にして本宮村の南に当り、昔音無川岩田川落合の所にあり。・・・境地中島なれども古は地高くして水の患なかりしに、近世に至りて川筋高くなりて大水の出る時は水の社地を浸す患起れり。
 鎮座の初めよりは年久しき事なれば、かく地形の遷り変る事自然の勢い遁れがたき事なりかし」(本宮大社条)
として、近世になって出水が多発したことを示唆している。

大斉原・旧絵図(資料転写)

 今の熊野川は上流にダムができて穏やかな流れだが、平安の昔は流量豊かな暴れ川だったようで、参詣人は衣の裾を濡らしながら徒歩立ちで川を渡りお詣りしたといわれ、これを「濡れ草鞋の入堂」といった。
 これは、聖域に参るための自然の禊ぎで、音無川との名は、忌籠もりの潔斎と慎みを意味するという。

 後鳥羽上皇に従って熊野三山にお詣りした(1201)藤原定家が、熊野御幸記で、
  「山川千里を過ぎて、遂に宝前を拝し奉り、感涙禁じ難し」
と記し、一遍上人が熊野権現の託宣を得たのは、この大斉原にあった本宮大社である。

 昔、大斉原の音無川では、持ってきた杖を流し後世を祈ったという。その由来・功徳について、小栗判官物語は
  「(元の身体に戻った小栗判官は2本の金剛杖を流しながら)いかに客僧、この杖になんぼう由来のましますなり。一本を音無川に流すれば、死して冥途に赴くときに弘誓(グセイ)の舟と浮かぶ也、又一本つき麓に下向ましまさば、侍ならば所領を得る、なんぽう目出度きこの杖也」
という。

 この風習は、杖に穢れを移して流すことで、来世の極楽往生を担保し、あわせて現世の安楽を得ようとする信仰だという。
 かつてのわが国では、穢れは水による禊ぎによって浄められるとされたが、実際に水に入る代わりに人形に穢れを移して流すという風習があり、その名残が雛祭りで、杖を流すのも同じ趣意である。

 今回は時間がなく参詣できなかったが、今は叢林に覆われた一画に石祠2基が立ち、一つには中・下四社を、一つは攝末社を祀るという。

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