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熊野/神倉神社
和歌山県新宮市神倉
祭神--高倉下命
                                                      2010.10参詣

 新宮市内から神倉神社に向かう道すがら、民家のすぐ裏手に聳え立つ岩山・神倉山(カンノクラヤマ・カミクラヤマ、標高:120m)の頂き近くに、名高い『ゴトビキ岩』が見える(右写真・中央上部に見える白い処にゴトビキ岩がある)

 大きな蝦蟇(ガマ=ヒキガエル)が頭をもたげて座っているように見えることから、当地の方言でヒキガエルを指すゴトビキをもって呼ばれる大岩で、神倉神社の御神体である。

 

◎由緒
 神社境内に何の案内もなく、創建由緒・時期等については不明だが、
 日本書紀・神武即位前紀に
  「九州日向を発った神武天皇は、海路瀬戸内海を通って難波に到り大和に入ろうとするが、登美の長髄彦(ナガスネヒコ)に阻まれたため、大阪湾を南下迂回して熊野の荒坂津に上陸されたが、土地の神が大熊となって吐いた毒気に当たって、神武以下の軍兵は気を失ってしまった。

 一方、熊野にいた高倉下(タカクラジ)という人が、夢に、アマテラスから『倉にある神剣フツノミタマを下すから神武に献上せよ』と告げられ、『承知しました』と答えたところで目が覚めた。
 翌朝、倉の中を覗いてみると、倉の底板に逆さに突っ立っている神剣があり、これを取って神武に差し上げた。すると、この剣の神威により、神武一行は目覚められて進軍し、賊を打ち破って大和に入ることができた」(大意)
という説話が載っている。

 簡単にいえば、神武の軍が熊野の地で苦戦・難渋しているとき、地元の豪族・高倉下が味方したことを神話的に表現したものといえる。

 その高倉下を祀るのが神倉神社だが、その原姿は、巨岩・ゴトビキ岩を御神体として崇敬する磐座信仰に発するものであろう。
 なお書紀には、「神武は、佐野を超えて熊野の神邑(ミワノムラ)に到着し、“天磐盾”(アメノイワタテ)に登った」とあり、この天磐盾がゴトビキ岩だというが、当地に残る神武伝承の一つであろう。

 この高倉下は、記紀では神武紀のこの場面にのみ登場する人物で、その出自は不明。
 先代旧事本紀(9世記前半・物部氏系史書)によれば、
  「アマテラスの孫・饒速日(ニギハヤヒ)の御子として天上界に生まれた天香語山命(アメノカゴヤマ)の別名で(アマテラスの曾孫)、父に従って天降り、紀伊国の熊野邑に居られた。天降った後の名を高倉下という」
とあり、尾張氏の遠祖で、物部氏の遠祖・宇麻志麻遅命(ウマシマジ)の異母兄に当たるという。

 記紀によれば、物部氏の遠祖であるニギハヤヒは、神武東征に先立って交野の哮ガ峰に天降ったとあり、大和へ入ったニギハヤヒを登美のナガスネヒコが主君として従ったという。
という。
 そのナガスネヒコは、神武の大和入りを阻み熊野迂回を余儀なくした抵抗勢力の首領であり、当然のこととしてニギハヤヒも抵抗勢力に属していたが、最後にはナガスネヒコを誅殺して神武に従ったとある。

 これからみると、神武がナガスネヒコを討伐する以前に、ナガスネヒコが奉じるニギハヤヒの子・タカクラジが神武を助けたという矛盾が生じている。
 神話の話といえばそれまでだが、これば、本来別系である尾張氏を物部氏系譜の中に組み込み一体化したためにおこった混乱と思われる。
 ただ、旧事本紀以外にタカクラジを尾張氏系と明記する史料は見あたらず(尾張氏系譜にタカクラジの名は見えない)、タカクラジの出自は不明とするのが妥当であろう。

 当社の創建時代は不明。
 下記するように、速玉大社所蔵の古文書では、裸形上人が朱雀元年(686)、神倉に登り社殿・仏閣を建立したというが、裸形上人とは、“仁徳天皇の頃(5世記か)天竺(インド)から熊野の海岸に漂着した”といわれる伝説上の人物で、これを以て当社の創建とみることはできない(熊野には裸形上人を開祖とする寺院が多い)

 また、当社に対する封戸記録・神階綬叙記録もみえず、延喜式神名帳(927)にもみえない。10世記頃には神社の形態を呈していなかったと思われ、当社の創建年代は未詳としかいいようがない
 
あるいは、神社ではなく、聖らが集まる修験道道場とみられたのかもしれないが、一般に、聖は平安中期頃に発生したということから、当社を中心とした神倉聖集団の成立は平安中期頃であろう。

 また、平家物語(1240以前という)・平維盛の熊野参詣段(10巻)に、
  「本宮より舟にのり、新宮へぞまいられける。“かんのくら”(神倉)をおがみ給ふに、巌松たかくそびへて、・・・」
とあり、また、平安後期の梁塵秘抄に“新宮聖”とあること、参道の石段が源頼朝寄進ということ(いずれも下記)などから、平安中期頃にあったのは確かであろう。


◎参詣記
 神社への登坂口に立つ朱色の鳥居の先には、長い石段(538段)が天に登る蛇のようにうねうねと続いている。この参道石段は源頼朝の寄進という。
 石段は、そんなに急峻ではないが、大小の自然石を積み並べたもので荒々しく登り辛い。降りは更にあぶなかしく、足場を確認しながら一歩一歩降ったが、2月6日の“御燈祭”(ゴトウサイ)には2000人ともいわれる男たちが、火のついた松明を掲げて駆け下りるという。

 
神倉神社・鳥居

同・参道石段1 
 
同・参道石段2

 参道の石段を登り切ったところに鳥居をもった朱塗りの簡単な柵があり、その中が神域となっている。
 鳥居を入って数十メートルほど進んだ右側に、大きな注連縄を張った巨石・ゴトビキ岩(高:約12m、幅:約10m)があり、その下、石垣に上に朱塗りの小祠がある。
 ゴトビキ岩の前には狭い広場があり、その前は絶壁となっていて見晴らしはいいが、怖くて真下は覗けない。

 これが神倉神社の御神体と拝殿で、一応は神社としての形態を整えてはいるが、本来の姿は、古来からの磐座信仰に発するものであろう。

 
神域への入口
 
ゴトビキ岩
 
ゴトビキ岩と拝殿

 熊野新宮の古代人にとって、ここ神倉山は神が降臨する神奈備山であったと思われ、その山頂に坐す磐座・ゴトビキ岩をカミが降臨する御神体として崇め、やがてそこに社を建てて山宮とし、その遙拝所として山麓に造られた里宮が熊野速玉神社とみることができる(速玉神社の別称・新宮とは。当社に対する新宮で、当社は速玉大社の奥の院ともいわれたが、両社は無関係とする説もある)

 熊野権現垂迹縁起によれば、神倉山は、各地の霊山を巡った熊野三所権現が61年も留まった霊地とされ、これが熊野信仰の原点ともいうが、今は、熊野速玉神社の境外摂社となっている。

 嘗ての神倉山は、新宮(神倉)修験道の修行道場であって、速玉大社所蔵の文書・神倉旧記(年代不明)には
  『白鳳15年・朱雀元年(686、持統朝元年)、裸形上人再度神倉に登り、社殿を建立し仏閣を造営して神威増す。是より神倉聖(修験者)始まる』
とあるという。
 裸形上人とは、上記のように、仁徳朝にインドから熊野に渡来したという伝説上の人物で、その上人が300余年経った飛鳥時代になって当地に社殿を造営したというのはおかしな話で、熊野に多い裸形上人伝承の一つであろう。
 また、神倉聖が飛鳥時代に始まったというが、聖集団の発生は平安中期以降とみるのが順当であろう。

 また梁塵秘抄(1169・平安後期)に、
  『聖の住所(スマイ)はどこどこぞ、大峰葛城石の槌 箕面上勝尾 播磨の書写山 南は那智新宮』
という新宮聖とは、神倉山を根拠とする聖・修験者を指すという。

 また、嘗ての神倉山には、ゴトビキ岩の前面に仏閣(本尊:愛染明王・十一面観音・大黒天、 11間×7間)が、岩の後方の尾根の上には社殿2宇が、境内には満山社と子安社があったという。
 これらの社殿形態は、神仏習合時代の神倉山の有様を窺わせる資料である。

 これらの社殿は、明治3年(1907)の台風で倒壊、アマテラス・タカクラジの両神は一旦速玉大社に合祀されたが、大正7年(1918)に社殿再建・遷座したのが今の小祠という(速玉神社には今もタカクラジが祀られている)
 なお、山麓の大鳥居・神橋・社務所などは昭和に入っての造営という。

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