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熊野那智参詣曼荼羅
付--熊野観心十界図

 わが国で曼荼羅といえば、密教の世界観を象徴的に描いた「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」(両者をあわせて「両界曼荼羅」という)を指す場合が多いが、幾つかある曼荼羅の一つに「宮曼荼羅」と呼ばれるものがある。
 宮曼荼羅とは、仏像とか神像などはではなく、神社境内の風景を俯瞰的に描いたもので、神社境内を聖域・浄土ととして表したものという。

※熊野那智参詣曼荼羅
(クマノ ナチ サンケイマンダラと
 熊野那智参詣曼荼羅とは、熊野聖(ヒジリ)あるいは熊野比丘尼(ビクニ)と呼ばれる半僧半俗の人々が、これを持ち歩き各地でひろげて、観音浄土としての那智の美しさと熊野信仰・那智信仰のありがたさを絵解き(絵をみせながらの説明)した絵画で、“宮曼荼羅”に属する。 

 熊野那智へ実際に詣るなど見果てぬ夢であった多くの人々に、熊野比丘尼らの絶妙な絵解きのリズムに乗せて、熊野那智の聖なる世界を地方に居ながらにして体験させ、熊野信仰・那智信仰へと結縁させるために用いられた宗教絵画である(同種のものが20数点ほどあるという)
 制作--室町時代、材質--紙本、大きさ--縦160cm・横150cm

     

 画面右上から那智大瀧が落下し、滝壺では、大瀧に打たれる荒行をしているうちに気を失った文覚上人(1139--1203)を救おうとする不動明王(正確には、明王の侍者セイタカ・コンダラの2童子)が、
 左上には那智大社の社殿が建ち並び、その左上には死者の世界といわれる妙法山阿弥陀寺(別項「妙法山阿弥陀寺」参照)がみえる。

 証誠殿前の斎庭には衣冠束帯に威儀を正した貴人(鳥羽上皇ともいう)を公卿・供養僧らがとりまき、今まさに神前読経が始まろうとしている。その上には2羽のカラスが飛んでいる。

 また、堂舎を結ぶ路上には先達に導かれた白衣の人が歩いている。那智大社への参詣人だろうが補陀落寺(別項・「補陀落寺」参照)へ向かう死者ともとれる。

 右下の浜辺には、補陀落渡海の船が帆をひろげ、その前に数人の僧侶が見える。渡海上人と見送りの人か。
 左下には米俵を積んだ船がもやっている。

 この曼荼羅は、生の世界と死の世界との対比と連続を描いたものといわれ、
 右上の大瀧下に描かれた文覚蘇生に象徴される生の世界と、左上の阿弥陀寺に象徴される死の世界とが対比され、
 右上の生の世界は、画面を斜めに横切って、左下、那智の浜に繋がれた米俵を積んだ船へと連なり(生の世界)、 
 左上の死の世界は、右下の浜に建つ補陀洛山寺と浜辺にある補陀落渡海の船へと連なっている(死の世界)
  (下部、那智の浜の部分も、左右が生と死の対比となっている)

 この曼荼羅の主調は“生と死”という人生の大事であり、それが、画面の左右の対比と上下交差した連なりとして描かれているといえる。

※熊野観心十界図(クマノカンシンジッカイズ)

 新宮大社拝殿の右方壁際に、一幅のタペストリが掛かっている。遠目にはよくみえないが、「熊野観心十界図」と呼ばれる宗教絵画である。

 “十界”(ジッカイ)とは、仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・人界・天界の六道(苦の世界)に、同じく声聞(ショウモン)・縁覚(エンカク)・菩薩・仏界という悟界(ゴカイ・悟りの世界)を加えた十の段階を意味する。

 当社に十界図があることは、嘗ての当社が神仏習合の聖域として那智修験道の中心であったことによるものであろう。

 図の上半分は、仏の世界・救済の世界(天界・人界)で、
 ・中央少し上に“心”の字が書かれ、
 ・その上下に阿弥陀如来をはじめとする諸菩薩、それを供養する僧侶などが描かれ、
 ・これらを覆うように“半円形の橋”が架かり、橋を渡る老若男女多くの人々が描かれている。

 右下の赤ん坊から、坂を上りながら子供になり大人になっていく。頂上辺りが人生の真っ盛りで、坂を下るにつれて年老い、左下には老人と墓が描かれている。
 人の一生を描いたものという。 

 これに対して下半分は死者の世界・亡者の世界で、
 ・墓の下では閻魔大王が亡者を裁き、極楽行きと地獄行きに別けており、
 ・三途の川を渡る亡者たちから衣を奪う奪衣婆・釜ゆで地獄・針山地獄・血の池地獄・無間地獄といった地獄の有様が描かれ、
 ・所々では、地蔵菩薩が地獄に落ちた亡者たちを何とか救おうとされている。

 この観心十界図は、人々に地獄の有様・恐ろしさを訴え、そこから救ってくださる阿弥陀如来の慈悲をみせることで、阿弥陀に結縁する功徳を説いたものという。


 熊野聖・熊野比丘尼たちは、参詣曼荼羅あるいは十界図の絵解きを物語った後、
  「この物語は熊野権現の本地なり。一度読み参らせ候へば、(熊野三山へ)一度参りたると同じなり。この本地を用い参らせざる者は、現世にては天狗の法をうけ、後世にては悪童に墜ち、無間の底に沈むべし。御本懐の理(コトワリ)よくよく承りて信心いたすべし。
 権現へ参るべき力なくは、この草子をを読みてなりとも、居ながら祈る心なすべし・・・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」
と称えたという。

 熊野比丘尼とは、熊野聖と同じように、諸国を回遊遊行して貴賤大衆から“一銭半紙の喜捨”をうけ、それを香花・仏具や社寺の修理復興の費用とした女性の勧進聖で、彼女らは、年に一度熊野で修行し、他は諸国を回っての勧進活動をおこなうことで、熊野信仰の布教・発展につとめたという。
 ただ、近世になると、回国勧進活動という本来の宗教行為がままならず、次第に、生きていくための音曲芸能の徒(歌比丘尼)へと姿を変え、後には春を売るまでになったという。

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