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熊野那智大社
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山
祭神--熊野夫須美大神他
                                                       2010.10参詣

 紀伊半島南端・JR和歌山線・那智駅から県道43号線(途中から46号線と変わる)を北上(ほぼ並行して旧街道が走る)、大門坂分岐点(鳥居あり)で道路から離れて鬱蒼たる森の中を通る大門坂(そう急坂ではないが、ほとんどが荒々しい石段)を登りきると(つづら折りの県道を進んでもいい)、那智大社のお膝元・山上の町(土産物店多し)に出る(駅前からバス便あり)


大門坂分岐点
(大門坂登坂口)
 
大門坂(夫婦杉)
 
大門坂

※由緒
 社頭に掲げる案内には
  『この地を「熊野」と申します。クマとは「奥まった処」「隠れたる処」との意があり、そこに「上座」であり「聖」なる地と位置づけられています。クマとカミは同じ意味であり、「クマノ」は「カミの野」で神々の住まえる地といえます。
 神倭磐余彦命はこの地に上陸され、八咫烏の案内で大和の地に着き神武天皇となられました。
 その時に那智の瀧を大己貴の御霊代として祀られたのが那智山信仰の興りと伝え、仁徳天皇5年(約1680年前)この地に社殿を建立したと伝えられています。
 古来、「日本一大霊験所・根本熊野三所権現」那智山熊野権現と称し、「熊野那智大社」ともうし、・・・』
とあり、
 公式HPには
  『熊野那智大社社伝に
   「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大滝をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもと、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」
と記録されています。

  命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大瀧」を、この熊野に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられていますが、いずれにしろ古代からこの大瀧を神としてあがめ、また、親神さまである「大己貴命」(大国主命・瀧宮の祭神)をまつり、「夫須美神」(伊弉冉尊・主祭神)をおまつりしていたのであります。

 その社殿を、お瀧からほど近く、しかも見晴らしのよい現在の社地にお移ししたのは仁徳天皇5年(317)と伝えられています』
とある。

 当社は、所謂熊野三社体制の一翼に位置するが、本宮・速玉とはやや趣を異にし、HPにいうように、古来から、那智の大瀧(一の瀧落差133m)を神聖視し、これを神として崇める古代信仰に源を発し、そこに夫須美神を祀ることによって熊野三社体制の一社となったと思われる。
 なお、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智瀧が聖地化し、その滝本に夫須美神が勧請されたともいう(Wikipedia)

 当社案内・HPともに、那智大瀧信仰のはじまりを神武天皇に仮託し、当社社殿の造営を仁徳朝としているが、これらは伝承であって、これを以て当社の創建とすることはできない。
 なお、HPは仁徳5年を西暦317年としているが、これは書紀の期年(神武即位をBC660年として各天皇に在位年を計算したもの)によるもので実年とは異なる。
 なお、仁徳朝は4世記中頃・古墳時代前期とされるが、その頃に常設の社殿をもった神社があったとは思えない。


 公的史料・新抄格勅符抄が引用する大同元年牒(806)
 ・熊野夫須美神 四戸 紀伊 天平神護2年(766)奉綬
   (同時に、熊野速玉神にも封戸4戸が与えられている)
との記録があり、そこに夫須美神とあることから当社への封戸記録ととれるが、何故か当社ではなく熊野坐神(本宮の神)を指すというのが定説となっている。

 熊野坐神への封戸記録に、何故夫須美神と記されたかは不明だが、
 ・神社への神階綬叙記録としては、熊野速玉神・熊野坐神への綬叙記録はあるものの(859以降)、熊野夫須美神へのそれはない
 ・延喜式神名帳(927)には、熊野早玉神社(大)・熊野坐神社(名神大)2社は列しているが、熊野那智神社(熊野夫須美神社)の名はない
ことから、10世記中葉以前における独立した神社としての存否は不明で(神社ではなく修験道道場とみられていたのかもしれない)、何らかの誤記かもしれない。

 ただ、熊野に夫須美神(結神ともいう)との神が居られることは知られていたようで、
 紀伊続風土記(1910・明治末)には
  「式の熊野速玉神社は二神の名にして、熊野といふは熊野夫須美大神、速玉とは熊野速玉大神なり。
 此の二神元一殿に祀りし故熊野速玉神社といふ。御幸記神名を挙げて先ず証誠殿次に両所とある是なり。両所とは熊野夫須美神と御子速玉と二社合殿なるをいふ。・・・」
とあり、夫須美神は熊野速玉神社に速玉神との合祀として祀られていたという(両神をあわせて“結速玉神”・“両所権現”という)

  速玉大社における夫須美・速玉神合祀から、当社が分離独立(当社の創建)したのは何時かははっきりしないが、
 ・当社を本宮・速玉と併せて熊野三山とする初見は、“熊野本宮別当三綱大衆等解”(1083)との古文書で
 ・中右記(1109)に記す藤原宗忠の参詣記録(1083)に那智の名がある(以上Wikipedia)
 ・藤原定家の熊野参詣記(1201)に、本宮から新宮・那智に回ったとある(参詣記)
ことなどから、遅くとも11世記までには創建されたいたとおもわれる。


※祭神
 社頭の案内には、
  『御祭神は、熊野夫須美大神と申し上げ、日本で最初の女神「伊弉冉命」を主神とし十二柱の神々をおまつりし、・・・熊野三山の一社であります』
とあり、次の神々を祀る。

 所謂十二所権現を祀るのは本宮・速玉と同じだが、当社独自の祭神として、
第一殿に「瀧宮」を祀るのが他と異なっている。

 上五社
 ・第一殿 瀧 宮   大己貴命(別名:飛瀧権現)
 ・第二殿 証誠殿  家津御子大神(ケツミコ・別名:スサノオ)・国常立尊(クニノトコタチ)
 ・第三殿 中御前  御子速玉大神(クマノハヤタマ、別名:イザナギ)
 ・第四殿 西御前  熊野夫須美大神(クマノフスミ・別名:イザナミ、結神:ムスビともいう)
 ・第五殿 若 宮   天照大神 

 

社殿等配置図
中央上・右から第1~5殿、左・八社殿・御県彦社
右上・那智の大瀧

 ・第六殿(八社殿) 
   中四社 禅師宮  忍穂耳尊(オシホミミ)
         聖 宮   瓊瓊杵尊(ニニギ)
         児 宮   彦火々出見尊(ヒコホホデミ)
         子守宮  鵜葺草葺不合尊(ウカヤフキアヘズ)
   下四社 一万宮・十万宮  豊斟淳尊(トヨクムヌ)・国狭槌尊(クニノサツチ)
         米持宮        泥土煮尊(ウヒヂニ)
         飛行宮        大戸道尊(オオトノミチ)
         勧請宮        面足尊(オモダル)

 当社の主祭神(第四殿)・熊野夫須美大神の“フスミ”とは、“産霊”(ムスヒ)と同意で、万物の発生・成育を掌る霊力、身近な言葉でいえば、穀物の生長・成育を掌る霊力を神格化した神といえる。
 また、その夫須美大神の別名をイザナミとするのは、記紀神話において、イザナミが国生み・神生みといった天地万物を生み出した女神であることから、これをムスビと同意とみたものであろう。

 第一殿・瀧宮とは、当社の根源である那智の大瀧を神格化したもので、その祭神を飛瀧権現(ヒロウゴンゲン)とするのは、神仏習合の面影を残すとはいうものの納得できる。
 ただ、それを大己貴命(オオナムチ=大国主)とする理由は不明。あるいは、オオナムチが出雲の地で“国造りし大神”と呼ばれていることから、当地の地主神として、この名を掲げるのかもしれない。

 また、第二殿・証誠殿の神・ケツミコとは本宮大社の主祭神で、穀神・食物神というが、これにあわせてクニノトコタチ(書紀・開闢神話における始原の神の一柱)を祀る由緒は不明。

 なお、 境内左、八社殿の南にある御県彦社の祭神は不明、社前に八咫烏像があることから、これに関連したものかもしれない。

 当社祭神(十二所権現)の詳細については、別項・「熊野の神々」参照

※社殿等
 山上の町(土産物店多し)から案内に沿って参道(石段多し)を登りきり、朱塗りの大鳥居を入って右手の境内奥に朱塗りの社殿群が東南東方に向いて鎮座する。

 社殿配置は上掲社殿等配置図のとおりだが、
 ・中央の拝殿(入母屋造・檜皮葺)を中心に左右に瑞籬が延び(各本社殿前に鈴門あり)
 ・境内左に八社殿・御県彦社が南北に並び、右に大木の周りに小舎が点在する。
 ・瑞籬奥に鎮座する本殿は屋根の一部が見えるだけ。


熊野那智大社・全景 
 
同・社頭全景
 
同・拝殿

◎青岸渡寺
 社殿域の右手、ほぼ隣接して、西国三十三ヶ所・第一番札所・那智山青岸渡寺(天台宗)がある。
   本尊--如意輪観音菩薩
 伝承によれば、仁徳天皇の時代、インドから渡来した裸形上人の建立という。
 かつての当寺は大寺だったようで、中世から近世にかけて、那智大社とともに神仏習合の修験道場として栄えたが、明治の神仏分離に際して如意輪堂を除いて破却されたという。
 そのとき破却を免れた如意輪堂を信者の手で復興したのが、今の当寺という。

 なお、本堂前の広場から、朱塗りの三重塔越しに那智の大瀧がはっきり見える。

 
三重塔と那智大瀧
    
青岸渡寺・本堂

◎那智の大瀧
 那智山駐車場から、石段を登らずに右手・鬱蒼たる森の中の地道を進み、石段を降った小広場の先に那智の大瀧(那智48瀧の一の瀧、高さ:133m・滝口の幅:13m)が、大轟音を響かせて落下している。

 滝壺前の瑞籬には鳥居が立ち、その先の自然石の上に金の御幣が立っているが、古来からの“お瀧拝所”という。
 滝壺の左に“お瀧祈願社が建ち、そこまで行けば滝壺が間近に見えるという(不参)


那智の大瀧・遠望 
 
同・正面(手前は祈願所)
 
同・右から

 当社社伝によれば、
  『神武天皇が熊野灘から那智の海岸・錦浦に上陸されたとき、那智山中に光り輝くものをみて、この大瀧を探り当てられ、神として祀られた』
とあり、熊野年代記には『仁徳天皇5年、那智大瀧出現』とあるというが、これらは伝承にすぎない。

 また、神仏習合瀧すすんだ平安時代になると、修験道の始祖とされる役行者か、この大瀧一帯を山岳修行第一の霊場として開いたとの伝承があり、
 那智48瀧一帯は那智修験道の修行道場として多くの修験道行者が瀧修行に専念したという(66代花山天皇も退位後出家し、二の瀧を中心に修行されたといわれ、それに伴う幾つかの伝承が残り、また、誤って恋人-人妻・袈裟御前を殺して出家した文覚上人が大瀧に打たれるという荒行を行したという)

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