トップページに戻る

熊野のカラス

 カラスという鳥は、何処にでもいるわりには嫌われている。全身真っ黒ということ、甲高いばかりで声に艶がないこと、雑食で時には腐肉をあさるという悪食からかもしれない。「カラスの鳴き声が悪いと死人が出る」「夜、カラスが鳴くと凶事が起こる]といった俗信があるように、カラスには死と結びついた不吉なイメージがつきまとっている。

 その半面、神鳥・霊鳥との見方もある。中国には、『昔、太陽は10個あった。10個の太陽は、東の果ての湯谷の山頂にある扶桑の木の10本の枝に止まっていて、毎日一枝ずつ枝を登り、朝、一番上の枝に止まっている太陽がカラスに乗って飛び立ち、天空を回る。夕方になると、西の果ての蒙谷に沈み、地中を通って湯谷に帰ってくる』との伝承があり、ここでのカラスは太陽と一体のものとして捉えられている。

 また社寺などでの儀式の場で立てられる幡(のぼり)には、太陽の中に三本足のカラスが描かれ、月中の蟾蜍(せんじょ、ヒキガエル)とともに慶事を飾っていが、ここでのカラス、特に三本足のカラスは太陽と一緒になって霊鳥と捉えられている。

 カラスを農耕儀礼と結びついた「神の使い」とみる風習もある。例えば各地にあった『烏勧請』(からすかんじょう)と呼ばれる風習では、春の農作業開始に先だって田の畦に白紙を敷いて3種の供物(食べ物)を供え、カラスを呼んで、3っの供物のうちまずどれを啄むかによって、その年に蒔く稲の種類を占うという。
 宮島の『御烏喰神事』(おとぐいしんじ)なども同種の儀礼で、いずれもカラスを神使・ミサキ神とみて、その行動によって神意を占うものである。

※熊野のカラス
 そのカラスが、熊野では神使・霊鳥として大事にされているが、端的にいえば神武東征神話にある“八咫烏(やたがらす)”のせいであろう。
 日本書紀(神武即位前記)にいう「ヤタガラス神話」とは、『神武天皇が熊野の山中で道に迷って困っていたとき、アマテラスから遣わされたヤタガラスの先導で、無事に大和の宇陀に出ることができた』(大意)というもので、ここでのカラスは神武を先導するミサキ神としての役を担っている。

 しかし一説では、熊野地方では死者の葬送に際して風葬・水葬が卓越しており、風葬された屍体を啄みその風化を助ける、所謂“鳥葬”の役を担っていたのがカラスだったともいう。そこでのカラスは、不浄の鳥として忌み嫌われるとともに、霊魂の運び屋として神聖視されていたといえる。
 これら古来からの風習あるいは霊魂の運び屋という見方が八咫烏神話と一体化したのが、熊野のカラスということができる。

 熊野三社には、それぞれヤタガラスを祀る末社がある。


熊野本宮・八咫烏幡
【熊野本宮大社】
 本宮大社には摂社として「八咫烏神社」があるが、今は旧社地・大斎原に合祀されている。本宮参道脇に掲げられている由来書によれば、「熊野ではヤタガラスは神の使者とされている。
 三本足とは、当社の主祭神ケツミコの御神徳である“智・仁・勇”または“天・地・人”を表し、熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すともいう。カラスは一般に不吉な鳥とされているが、未知の国へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされ、云々」とある。
 日輪の中に三本足のカラスが羽を広げている神紋は、日本サッカー協会のシンボルマークでもある。足技のサッカーとカラスの三本足とが結びついたものか・・・。

熊野速玉・八咫烏神社(右)
【熊野速玉大社(新宮)
 参道脇に、そのものズバリの「八咫烏神社」として祀られている。赤い鳥居の奥に末社2座が鎮座するが、右が八咫烏社、左は手力男神社。
 社頭の由緒書によれば、「祭神:建角見命(たけつぬみのみこと)。当社末社として古くから丹鶴山麓に奉祀されていた。神武帝の道案内をせられたと古典に記され、熊野神の使者ともいわれ、交通安全・招福に御神徳が高い」とある。

 タケツヌミの命とは別名・賀茂建角身命とも呼び、京都・賀茂御祖神社(下鴨神社)の主祭神。もと日向の高千穂に天降りし、神武帝を先導して大和の葛城に至り、山城に遷り、石河の瀬見の小川を溯って賀茂の地に鎮座した(山城国風土記逸文)。云々」とある。
 神武の東征を先導したということから、ヤタガラスと一体視されたと思われる。

◎神紋
 速玉大社社殿を囲む瑞垣に開く鈴門に掲げられている幔幕には、“ナギの小枝をくわえた2話のヤタガラス”が描かれている。

熊野速玉・八咫烏神紋

熊野那智・御県彦神社鈴門
【熊野那智大社】
 那智でのヤタガラスは『御県彦神社(みあがたひこじんじゃ)』に祀られている。祭神は速玉と同じくタケツヌミの命。

 大社本殿とは別に、本殿の左手、カギ形になった一画に鎮座する。真っ赤な鈴門の左前に立つ「八咫烏」と記された銅柱の上からは、ヤタガラスが今まさに飛び立とうとしているが、高すぎて三本の足はよく見えない。

 当末社を“御県彦”と呼ぶ由縁は不明。“県・アガタ”とは古代の地方行政区画の呼び名で、アガタヒコはその長官、そこからみると“地主神”ということかもしれない。

 なお、那智参詣曼荼羅のなかにもヤタガラスが飛んでいる。その下に鳥羽上皇とも後白河上皇ともいわれる貴人が描かれているから、曼荼羅のカラスは貴人を案内する熊野権現の使いということになろう。

 本殿では多くの人々がお詣りしているが、残念なことに、ほんの20mほどしか離れていない当社にまで足を運ぶ人はいない。現今の風潮のなかで、ヤタガラス伝承云々といっても知る人は少ないのであろう。

熊野那智・ヤタガラス像

熊野那智・八咫烏神紋
◎神紋
 真っ赤な鈴門に掲げる幔幕には“ナギの小枝をくわえた2羽のヤタガラス”が描かれている。ヤタガラスとナギというモチーフは速玉のそれと同じだが、ヤタガラスの姿はやや違っている。

◎八咫烏神事
 熊野三山には、正月元旦(2日ともいう)の朝におこなわれる『八咫烏神事』という祭儀がある。
 本宮・新宮・那智いずれもほとんど同じだが、最も古式を残しているといわれる那智のそれは、
 元旦の朝まだき、黒い布を幾重にも巻いてカラスの嘴になぞらえた烏帽をかぶった神職が、那智の大滝の近くから若水を汲み上げ、朝霧の中を本殿まで駆け戻って、祭神・フスミ大神の神前に供えるという。
 神使であるカラスが春一番の若水を熊野の神に供え、新しい年の到来を言祝ぐ神事である。

※熊野午王宝印(クマノ ゴホウ ホウイン)
 熊野のカラスでよく知られているものに『熊野午王宝印』のなかに飛んでいるカラスがある。

 午王宝印とは、各地の神社が発行する厄除け護符の一種で、熊野のそれは、中央に押された朱色の宝印の周りに烏点(うてん)という絵文字で神社名が書かれている。
 烏点とは、数羽のカラスを組み合わせて作られた絵文字で、一見しただけでは判読できない。
 使われているカラスの数は、入手した午王宝印では本宮82羽・新宮48羽・那智 72羽を数える。

  午王宝印は、八咫烏神事で汲みあげられた若水を用いて墨を摺り、精進潔斎し烏帽をかぶった神官が柳枝で机を打ちながらあげる乱声のなか、一枚一枚丁寧に摺られるという。年が改まる新年に当たって、新しく神霊を刷りこんでつくる護符である。
 なお、この護符を午王宝印と呼ぶのは、これに捺印してある朱色の如意宝珠を印する朱肉の中に、牛の肝から採った高貴薬・午黄が混ぜられているからというが、これは俗説である。


本宮大社

速玉(新宮)大社

那智大社

 本来の午王宝印護符は、裏面に願い事を記して神社に奉納したり、そのまま家屋の柱や軒先などに張って災害除けとしたものだったが、室町期以降、この護符に真偽正邪を正す霊験があるとして人間同士の約束事を書き付ける起請文として多用されている。
 神の使いであるカラス立ち会いのもと、お互いの約束事を神前で誓い合うわけで、もし、この誓いを破ったら、その報いとして、当人は血反吐を吐いて死に無間地獄に堕ちること確実とされ、そのとき、遠い熊野では神と人の間を取りもったカラスが3羽死ぬと信じられていたという。

 この熊野午王宝印に記された起請文は、いろんな人(特に戦国武将たち)がいろんな場で利用している。
 例えば、源義経が兄頼朝に疑われたとき、身の潔白を証する起請文に使ったといわれ、また主君信長の横死を知った豊臣秀吉は、毛利方との和解交渉に際して7枚もの起請文を渡したというが、いずれも熊野午王宝印に記されたという。
 ただ、その効果はといえば疑問で、虚々実々の駆け引きを信条とする武将たちにとって、来世での地獄墜ちなど眼中になく、起請文などはその場を切り抜ける単なる形式ではなかったかと思われる。

 そんな午王宝印は、江戸時代になると花街・遊郭を飾る粋な小道具のひとつともなり、花街の花魁たちは馴染みの客に充てて「○さまいのち云々」と書いた午王宝印を乱発したといわれ、里謡に「誓詞書くたび三羽ずつ、熊野で烏が死んだげな」と唄われたように、熊野では多分、何千何万ものカラスが死んでいったであろう。

トップページへ戻る