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由 岐 神 社
京都市左京区鞍馬本町
祭神--大己貴命・少彦名命
相殿神--八所大明神

                                               20156.01.15参詣

 叡山電鉄鞍馬線・鞍馬駅の北約350m、鞍馬寺仁王門(山門)を経て参道を約200m強ほど進んだ左手に鎮座する式外社。
 社名は“ユキ”と読む。

※由緒
 当社参詣の栞によれば、
  「天慶年間(938--46・平安中期)、京の都では醍醐天皇の御崩御(930)、大地震、又、平将門(天慶の乱・935--40)等天変地異により騒然としており、都を鎮めるため、
 天慶3年(940)9月9日に、61代朱雀天皇の詔により、皇室の守護神として御所にお祀りの由岐大明神を、御所の北方に当たる鞍馬の地に天下泰平と万民の幸福を祈念いたし、
 藤原忠平に勅して道々に篝火を焚き、手には鴨川の葦で作った松明を持ち、神道具を先頭にその行列の長さ十町(約1km)に及ぶ天皇自らの国家的一大儀式により御遷宮されました」
とあり、
 社頭の案内板には、
  「当社は王城北方の鎮めとして、天慶3年(940)9月9日、靫大明神(後改め由伎更に改め由岐)と奉祀し、大己貴命・少彦名命二座を鎮奉し、古来天皇の御病気や世上騒動のとき社殿前に靫をかけて平安を祈ったため靫社となづけられた」
とある。

 当社社名・ユキについて、参詣の栞は、
 ・天皇の御病気、天災又争乱の時、神前に靫(ユキ)を奉り祈られたことにもとづいています
というが、日本の神々5(1986)
 ・神聖・清浄を表す“斎”(ユ)を伴う言葉、則ち神事に用いられた常磐木(斎木-ユキ)や神聖な酒を意味する悠紀(斎酒)に由来すると推定される
 ・後に、同音の“靫”の字を充てて、当社を靫明神と呼んだが、これは神木としての斎木を靫で代用したものであろう
 ・また、勅勘を受けたとき、謹慎の標として当人の家の門口に検非違使が靫を懸けることが平安末期におこなわれたが、元々は謹慎中の人を斎木で封じ込めるということが転じたものであろう
という。

 非常時に際して社前に懸けられ、当社名の由来とされる靫とは、“矢を入れて背負う筒型の道具”だが、徒然草(1331頃・鎌倉末期)203段に
  「勅勘をこうむった家の門に靫をかける作法は今は絶えており、知っている人はいない。
 帝の御病気とか、一般に世の中に流行病がはびこるときは、五条の天神に靱をおかけになる。鞍馬にある靫の明神というのも、靫をおかけになったことのある神である。
 看督長(カトノオサ)が背負う靫を勅勘の家におかけになると、誰も出入りできないならわしであった。
 このことが絶えて以来、今の世では、封印をつけるならわしになってしまった」(講談社学術文庫版・現代語訳)
とあり、
 また雍州府史(1684・江戸前期)には、
  「靫明神  一に由木に作る。社家の説に曰く、時疫流行の日、看督長の負う所の靫を神の戸に懸け、以て時疫を鎮す。
 本朝の俗、勅勘の家の家門に靫を懸けて人の出入りを禁錮す。故に、社に懸けるも亦神を罰するの意也。
 倭俗に、主上の旨に忤(サカラ)ふに勅勘を蒙ると謂ふ、凡そ君父の命に違うて蟄居するを勘当を蒙ると謂ふ」(漢文意訳)
とあるという。

 当社あるいは京都・下京区にある五条天神社(祭神:大己貴・少彦名・天照大神)に靫を懸けるのは、祈願のための幣帛奉献というより、天下騒乱や疫病等の流行を、神が邪神・悪霊を排除しなかったためにおこった罪として之を罰し、依って邪神・疫神を排除しようとしたものであろう。

 当社由緒では、当社創建を天慶3年9月9日とするが、その傍証となる古資料は見あたらず、
 また、御所にあった由岐大明神を勧請したというが、延喜式神名帳の宮中神の中に由岐大明神はみえない。

 これらからみて、当社は疫病鎮圧・天下泰平を祈願して創建された神社で、鞍馬寺の鎮守だったと思われるが、その実態ははっきりしない。

◎鞍馬の火祭
 当社の祭礼として、毎年10月22日の夜に行われる“鞍馬の火祭”がある。
 この火祭は、江戸時代の古文書に
 ・靫明神社 鞍馬の里人の産砂の神とて九月九日に祭礼をなす--菟芸泥赴(ツギフネ・1684)
 ・当神土人産土神と為す 例祭九月九日--山州名跡志(元禄年間)
とあるように、古くは旧歴の9月9日に行われていた祭礼で、今では日を変えて10月22日の夜に行われている。

 その起源について、参詣の栞には
  「(天慶3年に篝火を焚き松明を連ねて神を迎えたことから)鞍馬の村人は之に感激し、この儀式と由岐大明神の霊験を後世に遺し伝えたのが鞍馬の火祭の起源であります」
とある。

 この神事について、五来重氏は修験道からみて次のようにいう(鞍馬寺縁起と修験道文化・1981、大意)
 ・今は由岐神社の祭礼となっているが、単なる祭礼に火祭がおこなわれるはずはなく
 ・その前身は修験道行事即ち入峰や出峰にともなう柱松で
 ・その元は、斎燈(柴燈・採燈)であって、穢れを清めたり悪霊を払ったりする浄火だったと思われ
 ・これを修験者(山伏)は験力競べ、または神意を占問(ウラト)うための火とした

 ・由岐神社の火祭も、秋の峰入りにともなう火祭が形を変えて残ったものと思われ
 ・大松明を山門前に立て並べて注連切りして火を付けるのは、柱松の名残で、
 ・小さな手松明は、この大松明の火受けに点火する火揚げ松明の名残と見ることができる
として、旧歴9月の秋峰入峰修行の終了に際して、柱松を立て、出峰の修験者が火揚げ松明を投げ上げて点火の速さを競った験力競べが、現在の火祭へと変化したのではないかという。

 因みに柱松とは、15~20mほどの高い柱の先端に藁などで作った火受けを取り付け、その中に、下から火の付いた小松明(火揚げ松明)を投げ入れて点火する行事で、お盆の迎え火・送り火に類するものだが、その速さで、その年の豊凶を占ったともいわれ、
 修験道では、二組の修験者がそれぞれの柱の火受けに火揚げ松明を投げ入れて点火の速さを競ったとも、それぞれの柱によじ登り、火打ち石で頂の火受に火を付ける速さを競ったともいう。

 当社に対する神階綬叙記録として、参詣の栞には
  ・天正17年(1589)後陽成天皇正一位宣下
とあるが、これは中世以降の神道界を壟断した吉田家によるもので、天皇名はあるものの、奈良・平安朝の神階に比べて権威は低い(吉田家は各地の神社に正一位を授与している)


※祭神
 当社祭神大己貴命(オオナムチ=オオクニヌシ)・少彦名命(スクナヒコナ)は、天孫降臨以前、二神協力して国土を造営したとされ、参詣の栞には、
 ・御祭神は、国を治め人民の生活の道を教えになり、特に医薬の道をお授けになった医薬の神であります
 ・二柱共に、天上神である皇孫に国土の統治権を献上され(国譲り)の大業をなしとげられたところから、・・・
とあるが、当社名・ユキとの関係もみえず、この神が当社に祀られる由緒は不明。
 当社が疫病除けの神ということからみて、この二神がもつ医療の神としての神格によるのかもしれないが、はっきりしない。

 相殿の八所大明神とは8柱(多くの神の意もある)の神々の総称で、当社以外にも主神あるいは相殿神として祀っている社は多いが、八所の神々の構成はそれぞれ異なっており、鞍馬寺鐘楼の前にある小祠・八所明神社の前には、
 ・宮中賢所の祭神である八柱の神々(天照大神が主祭神というが詳細不明)
とあるが、当社がどのような神々を以て八所大明神とするのかは不明。

※社殿等
 参道の途中に石造鳥居が立ち、すぐ奥に近接して、建物の中央に通路(石階段)を通した割拝殿(ワリハイデン・横長の切妻造・檜皮葺・重要文化財)が建ち、参道を進み石段を登った境内奥の左手に、本殿(向拝付流造・銅板葺)と社務所が建つ(境内右奥、鞍馬寺への参道へと続く)

 
由岐神社・鳥居

同・拝殿(背後より) 

同左(背後の石段上より) 
 
同・本殿
 
同・本殿(側面)

◎末社
 参詣の栞によれば、当社末社として
  ・三宝荒神社--祭神:三宝荒神大神、古くよりこの地に火の神・竈の神として祀られていた
  ・白長弁財天社
  ・冠者社--祭神:素戔鳴命 古く鞍馬冠者町に祀られていた社
  ・岩上社--祭神:事代主命・大山祇命 古くより鞍馬岩上に祀られていた社
  ・大杉社--鳥居の背後にある大杉(願掛け杉・樹齢800年・樹高53m)の根元にある小祠
  ・八幡宮社
  ・石寄社
を列記する(案内は社殿脇の説明板による)
 三宝荒神社から大杉社までは参道の左右に鎮座するが、八幡宮・石寄社は見かけず。

 
三宝荒神社
 
白長弁財天社
 
冠者社
 
岩上社

大杉社 

大 杉 

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