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鞍 馬 寺
京都市左京区鞍馬本町
本尊--千手観世音菩薩・毘沙門天王・護法魔王尊
                                                             2016.01.15参詣

 京阪電鉄・出町柳駅から発する叡山電鉄鞍馬線の終点・鞍馬駅から、門前町の町並みにそって左へ行った先に仁王門(山門)がある。
 仁王門から本堂である金堂まで約1km。つづら折りの坂道を標高差160mほど登ることになるが、思ったより楽に登れる。

※縁起
 当寺で頒布する小冊子・鞍馬山には、
  「鞍馬寺の開創
 鞍馬寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起』(アンバガイジエンギ)は鞍馬寺開創の様子を次のように記しています。
 奈良・唐招提寺の鑑真和上の高弟・鑑禎上人(ガンチョウ)は、宝亀元年(770)正月4日寅の夜の夢告と鞍を負った白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天(ビシャモンテン)に助けられ、仏法を守護するお像が降臨されたと悟った上人は、その毘沙門天をお祀りします。
 それから四半世紀のちの延暦15年(796)のこと、造東寺長官の藤原伊勢人(イセンド)は、日頃信仰する観世音を奉安する一宇の建立を念願していましたが、夢のお告げと白馬の援けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があり毘沙門天が安置されていました。
 自分は観世音を祭りたいのにと訝がる伊勢人に、『毘沙門天も観世音も根本は一体のものである』と再び夢告がありました。納得した伊勢人は、草庵を三間四面の堂舎に造り替え毘沙門天を奉安、のちに千手観音を造像して併せ祀り宿願を果たしました。 
 そして、鞍を負った馬が鞍馬山を示したことにちなみ、鞍馬寺と呼ぶようになったのです」
とある。

 鞍馬寺史(1916・大正5)は、その創立について、
 ・鞍馬寺は松尾山金剛壽命院と号す。京都市を北に去る約3里、加茂川の上流を却下に控えたる鞍馬山の中腹にある。
 ・寺伝によれば、その創立は奈良時代宝亀年間となし、過海大師鑑真と共に来朝したる鑑禎を以て創健者に擬すれども、古書に多く載する諸説の一致するところに拠れば、桓武天皇の延暦15年創立とすべきなり。
 ・その創立発願者は東寺の造長官たりしと伝ふる藤原伊勢人なりとす。
 ・鞍馬寺の本尊は毘沙門天則ち多聞天なり。毘沙門天は四天王の一にして、須弥山の第四層級にありて、特に北方の守護と世人に福徳を与ふることを主る神なり。
 ・鞍馬寺は、藤原伊勢人の建立に係る一私寺に過ぎざれども、毘沙門を以て本尊とし、王城の北方に当たりて殊に国家鎮護のために設けられしことは想ふに難からず。
 ・しかし、平安遷都の実現せられしは、延暦13年(794)10月12日車駕新京に遷幸ありしにはじまるが故に、鞍馬寺の創立はそれより後であるべきは当然なり。
 ・延暦15年(796)といへば、なほ造宮の工事続行中なれども、早くも鞍馬寺創立の企てが起こされしなるべく、その成就は恐らくそれより数年後なりしなるべし。
と記し(要点のみ列記、以下同じ)、鞍馬寺の創立者は伊勢人であって、その開山時期は延暦15年より少し遅れるという。

 また、当寺に伝わるという鞍馬寺史所収の「鞍馬蓋寺縁起」によれば、
①・昔、南京招提寺に一人の沙門あり、鑑真和上の弟子鑑禎と云ふ
 ・宝亀元年正月4日の夢に、「山城国北方に高山あり、殊勝の霊地なり」とあり
 ・夢覚めて後、彼国をさして尋行て一の野村にいたる(今西京木辻辺りか)。路遠くして日暮れて止宿す
 ・翌日、心に願って云ふ。「夢の告を信じ、山北に来たるといへども、いまだ何処といふ事をしらず。指南を得ん」
 ・須叟の間休息して睡眠す。夢中に高僧告げて云、「明朝日の出の時に東方に佳瑞を現ずべし」と
 ・天明けて東方を見るに、朝陽の光の中に白馬あり。白馬蓋の如くまして猶空中にあり(故に鞍馬蓋寺と号す)
 ・上人の眼瑞馬にありて心険難をわすれ、忽ち絶頂にいたりて勝地を得たり

②・其処に留連して火をうち柴をたひて、漸半夜にのぞむ
 ・忽ちに鬼魅を見るに、形は婦女に類し、髪は夜叉の如し。眼は雷光の如く輝き、口には毒気を吐く
 ・上人驚怖して持つところの錫杖を以て、其鉾を猛火に焼て鬼の胸を刺すに、鬼傾動せず錫杖を噛み砕くこと雪に湯をなぐるがごとくにして、須叟に呑み畢りぬ
 ・上人、これを見て驚愕し西谷の朽木の下に逃げ隠れぬ。鬼魅追求して、既に食せんとす
 ・其の時、上人一心に三宝を念ず。爰に朽木仆れて忽ちに鬼魅を押し殺す。一説に毘沙門天と云ふ。
 ・明旦におよびて毘沙門天の像顕現す。誠に知りぬ、仏法護持の像、此処に降臨しぬと
 ・上人草庵を結びて、其の薫修をたづぬるに四十余回の星霜を送りたまへり
と、僧・鑑禎による当寺の前身である草庵造営の次第を記し、(大略)

 続けて
③・弘仁年間(810--23)に及びて東寺を造るに、勅使(造東寺長官)散位従四位下藤原朝臣伊勢人と云ふ者あり。窃に念願して云。我勅命を受けて寺を造るといへども、心に念ずるところ、まさに一堂を建立して観音を安置せむとす。願わくば霊地を示されんことを。
 ・忽に夢告ありて云く、「皇城の北に崔嵬(サイカイ・高く険しい)の峯あり」と
 ・夢中に路を尋ね其の地に至ると、白髪の老翁来りて告ぐ、「此の地は殊勝第一の霊地なり。東西高くして中央平らなり。宜しく土木の功を課して伽藍を草創せん」と
 ・伊勢人問うて云、「老翁は誰哉」と。答へて云、「吾は此処の地主・貴船明神也。汝の道心を感じて勝地を示す」と
 ・伊勢人夢に驚き我が願いの満ることを悦び、日頃乗りし白馬に告げて云、「伝へ聞く。天竺に白馬あり、聖教を追て大呉に来たり、其の処に精舎を建てて白馬寺と号すと。吾に夢告あり。汝其の所に至り留まるべし」と。馬北風に嘶いて去る
 ・翌日、跡を尋ねて山水を彷徨き絶峯に登りて東方を望むに、土地顕敝にして萱草繁茂せり。馬、其中に有りて北に向ひて立てり
 ・又、方丈の草堂あり。毘沙門像を安す。其躰奇異にして眼も及ばざるべし。即ち吉土をうらなひて礼をなして帰洛す
 ・窃かに素意を思ふに、期する所の尊は観音也。今安し奉る所は多聞天の像也。仏天同意なりとへども猶乖ありと
 ・其夜の夢中に惣角天童来たりて云、「汝是未だ断感の凡夫にあらざる也。しらずや観音と毘沙門とは、たとへば般若と法華とのごとし。眼目異名也。本地是一なり。疑惑すべからず」と
 ・伊勢人懺悔し、草庵を改めて三間四面の精舎を営造し、毘沙門天像を奉安す。今の鞍馬寺即ち是也
 ・其後、本願を遂むがため四十二臂の観音菩薩像をつくりあらはして、天王の像の傍らに安し奉り、供養し恭敬す。今の鞍馬寺西に在る観音堂也
と、伊勢人による鞍馬寺建立及び観音堂造営の経緯を記している。(大略)

 更に続けて
④・寛平年中(889--98)、東寺の十禅師峰延(ブエン)鞍馬を尋ね、その霊気をうけて帰寺せず当山に止宿す
 ・某年五月の頃、峰延 瑜伽の壇場において護摩の秘法を修す
 ・日中の勤行の時、山北より大蛇匍匐して頭をもたげ舌を出す。舌ながきこと三尺ばかりで火炎をひるがえすが如し。眼に千光ありて朝日に向かふがごとし。頻りに毒気を吐て峰延を呑まんとす
 ・峰延、大威徳并に毘沙門天の大咒をもって一心に大蛇を加持す。大蛇咒縛せられてたちまちたおれぬ
 ・三箇日を経て、峰延氏人峰直に告ぐ、峰直駆来てこれを見て大いによろこびて公家に奏聞す。則ち綸言ありて人夫五十人を給て、大蛇を切破りて静原山の奥にはこび捨てさせぬ。其所を大虫の峰と号すといふ

 この縁起の成立が何時頃かは不明だが、扶桑略記延暦15年条、平安後期)・伊呂波字類抄(平安末期)・今昔物語(巻11-35話、平安末期)などに略同意の縁起がみえることから、遅くとも平安中期末(10世記末~11世紀)までには成立していたと思われる。

 この縁起について、五来重氏は、
 ・この縁起は、峰延の開創に伊勢人が外護者となったことを示すもので
 ・同時に、峰延の来山以前から鞍馬山の山神を祀る優婆塞(修験者・山人など)が居たことが想定され
 ・その優婆塞が仏教的創設者である峰延に服属して山を譲り、採花汲水の堂衆になった事実を、山神である鬼が退治されたという縁起とし
 ・加えて、鞍馬寺という寺名を馬に関係づけるためと、毘沙門天とともに観音を祀ることを説明するために、伊勢人を開創者とする縁起に改変されたものと思われる
とし、
 鑑禎による鬼神退治②(扶桑略記は峰延の事蹟とする)、峰延による大蛇退治④について、
 ・ここで出てくる鬼魅とは山の神の化身で、それが女体で現れるのは、山の神は女神(山姥)であるという一般の理解に沿うもので、
 ・上人が逃げ込んだという西谷とは後の僧正谷で、今、鞍馬寺奥の院といわれる魔王堂が建っている辺りを指す
 ・この話から、魔王堂(奥の院)の魔王大権現を山神(鬼・天狗)として祀る山人(仙人や優婆塞)がおったところに、仏教的山岳修行者である峰延が入ってきて、トラブルがあったことが想定されるが
 ・このような場合、高僧と山神が葛藤の末、山神が降参してその山を譲り、その山の守護神になったり、高僧の従者になったりするのが普通で鞍馬寺縁起もこの型を踏襲したものと思われ
 ・加えて、この縁起成立の時にあったと思われる蓮華会(竹伐り会)の由来を説明する目的もあって、峰延の大蛇退治が附加されたものであろう
という(鞍馬寺縁起とその修験道文化・1981、五来重著作集4巻所収)

◎鞍馬の竹伐り会
 鞍馬寺では毎年6月20日に竹伐り会という儀式が行われ、当社公式HPには
  「峰延上人が大蛇を法力で斃し、朝廷から遣わされた人夫が静ケ嶽に捨てたという故事に因む行事。
 僧兵のいでたちをした鞍馬法師が近江・丹波の両座に分かれ、大蛇に見立てた青竹を裂帛の気合いとともに伐り、その速さを競い、豊作を占い、水への感謝を捧げる破邪顕正を祈る古儀」
とあり、
 ここにいう峰延上人の故事とは、上記鞍馬寺縁起④にいう伝承を指す

 この縁起について、五来重氏は次のようにいう(前掲書および宗教歳時記2010、大意)
 ・ここで何故大蛇が出るかというと、大蛇は山神の化身であり、それが水神として現れたと解釈できる
 ・縁起で伊勢人に夢告で鞍馬山の勝地を教えたのは、水神信仰で知られる貴船明神で、古代信仰で鞍馬山の山神と貴船の水神は一体であった
 ・それが縁起では、大蛇は山神と同じく仏教的開創者に服属する形をとるので、峰延上人による大蛇退治の説話になったもので、その成立は室町時代くらいかと思われる
 ・それが江戸時代の日次紀事(1685)や滑稽雑談(1712)に書かれて、竹伐りの説明といえば、すべてこの説が持ち出されるようになった
 ・更に、この伝説に尾鰭がつき、峰延上人の邪魔をした大蛇は二匹で、雄蛇のほうは切ったが、雌蛇は、この山に水を出すことを誓ったので助けたとなったが
 ・これは、鞍馬山の山上、本堂の上にある池に住む水神が峰延に服属したことを説話化したものかもしれない(金堂背後の山中にある龍池には、道が荒れはてて行けないという)
 ・この大蛇は山の神の化身(水神)であり、山の神には恐ろしい懲罰(たたり)の面と優しい恩寵(めぐみ)の面との2面があることを民衆が知っていたから、こんな話ができたので
 ・恐ろしい面が雄蛇で、やさしい面が雌蛇である

 また、僧兵姿の法師による竹伐り会について
 ・古代の鞍馬は修験道の山で、修験道には、原則として春峰・夏峰・秋峰・冬峰の呼ぶ四季の入峰修行があり
 ・通常、修験者(山伏)が入峰修行を終えて村に帰ってきたとき(出峰)、山の神を村に迎えての祭り(蓮華会)、修行中に得た験力の試験(験競べ)、入峰修行の慰労のための延年芸能という三つの行事が行われた

 ・曾ての鞍馬では、観音の縁日に合わせて6月18日から蓮華会に入ったようで
 ・その日、竹釣りと称して蛇に見立てられた根こじの孟宗竹を寺庭に吊り下げ
 ・19日の夜に、寺の巽のほうの左義長谷で松明を焼いたというのは、柱松頂上に点火する遅速を競うという形での験競べをおこなったことにちがいなく
 ・翌20日の昼には竹伐りの験競べがあり、その夜は護法付けの験競べがあったのであろう

 ・20日の竹伐りというのも、元は竹の柱松の頂上で御弊を切る遅速を競うもので
 ・その夜おこなわれる護法付けも、京都古習志に
  「蓮華会がおこなわれると2名の“宮地”という稚児が使役をする。・・・江戸時代には宮地は一名だったようで、“祈られ坊(ボン)”とも称し、人身御供の意だという人もあった。本堂に座り、祈られると伏し、深い眠りに陥った。竹伐りがおこなわれるや水一斗を浴びせられて初めて覚めたと云ふ」
とあるように
 ・護法付けとは、尸童(ヨリワラ・上記の宮地)を中央に座らせて廻りから山伏が祈り責め、人事不省になると護法善神(山神の化身である天狗や護法童子など)が憑依したとして、託宣を得ようとする修験道の巫術にほかならず、宮地2名が使役されるのは、二手に分かれて護法を付ける遅速を競う験競べがあったためであろう

 これらからみて、竹伐りの行事は、修験者が夏峰修行から出峰した際におこなわれた蓮華会での一連の行事のなかで、唯一つ、形を変えて残ったもので、修行によって得た験力を競いあう験競べであったものが、単に竹を伐る速さを競う腕力競べに変化し、それに近江座・丹波座による豊穣占いという名目が附加されたものであろう。

 鞍馬の祭礼としては、竹伐り会の他にも“鞍馬の火祭”が有名だが、これについては別稿・由岐神社参照。

※本尊
 鞍馬寺は、
  ・千手観世音菩薩
  ・毘沙門天王
  ・護法魔天尊
の3尊を一体として『尊天』と称するという。

 中央に坐す毘沙門天は、鑑真和上の高弟・鑑禎上人の前に顕れた尊天で、千手観世音菩薩は、藤原伊勢人が勧請した菩薩として縁起に記されているが、護法魔王尊についての記載はない。

 鞍馬山の信仰について、小冊子は
  ・鞍馬山の信仰は、宇宙の大霊であり大光明・大活動体である『尊天』を本尊と仰いで信じ、その心を我が心として生きていくことで、尊天信仰といいます
  ・尊天とは、人間を初め、この世に存在するものすべてを生みだしている宇宙生命、宇宙エネルギーです。真理そのもので、神仏の区別を超えてひとつの形に固定されず、しかも本質を保ちつつ、森羅万象、日月星辰、あらゆる神あらゆる仏の相となって顕現します
  ・その働きは愛と光と力となってあらわれ、また月に代表される水の気、太陽から放たれる気、母なる大地-地球の気の三つの気(エネルギー)にもあらわれので、それぞれ
  月輪の精霊--愛--千手観世音菩薩
  太陽の精霊--光--毘沙門天
  大地の精霊--力--護法魔王尊
の御姿であらわして、この三身を一体として『尊天』と称します

 護法魔王尊については、
  ・太古の昔から鞍馬山は大地の力・護法魔王尊のお力に満ちたところでした。この護法魔王尊ははるか6500万年前に、人類救済の使命を帯びて金星から天降ったとも伝えられています
  ・鞍馬山は有史以前から護法魔王尊が素晴らしい波動を発しつづける霊山であり
  ・この鞍馬山から発せられる護法魔王尊の波動を感じて、鑑禎上人や伊勢人、それ以前の密教的修行僧たちが鞍馬山へと目指したのでした
という。

 曾ての鞍馬山は神道と仏教(特に山岳仏教)・道教などが習合した修験道の道場であり、尊天あるいは護法魔王尊というのは、修験行者らによって崇敬された当山独自のものといえる。

※堂舎等
 重層朱塗りの壮大な仁王門(山門)を入り、由岐神社を経て、杉木立に挟まれた小石混じりの九十九折(ツヅラオリ)参道を進んた先に中門(四脚門)があり、ここからは石段の多い参道となる。
  ・仁王門--両側の仁王尊像は湛慶作という
  ・九十九折参道--枕草子に「近くて遠きもの・・・鞍馬のつづらをりといふ道」(159段)とある道
  ・中門--元は仁王門の脇にあった門で、勅使が通った門という


案内略図
 
参 道
 
本堂域直前の石段
 
鞍馬寺・仁王門
 
同左(側面)
 
中 門

 鞍馬山信仰の中心である本堂域には、中央に本殿金堂が、その左(西側)に光明心殿、右(左側)に閼伽井護法善神社が南面して並ぶ
 ・本殿金堂
   宇宙エネルギーである尊天の働きを象徴する千手観世音菩薩・毘沙門天・護法魔王天を奉安する鞍馬信仰の中心道場
   地下は宝殿となり信者たちの清浄髪が奉安されているという
   普通、お寺では中心となる堂舎を本堂又は金堂と呼ぶが、当寺では本殿金堂と呼ぶ。鞍馬山が修験道場だった頃の痕跡であろう
 ・光明心殿
   内陣に護法魔王尊像が奉安されている堂舎で、護摩供を修する道場という
 ・閼伽井護法善神社(アカイゴホウゼンシンシャ)
   水神を祀る社で、寛平年間(889--98)、峯延上人を襲う雄の大蛇は法力により倒されて竹伐会の由来となり、鞍馬山の水を永遠に絶やさぬと誓った雌蛇は命を助けられ、閼伽井善神として此処に祀られたという。堂舎の背後に小祠がある
   なお、背後の山中に龍池と称する池があり、雌龍が潜むといわれるが、今は立ち入り禁止

 
同・光明心殿
 
同・本堂金堂
 
同・閼伽井護法善神社
 
金堂・内陣
 
閼伽井社・小祠

 ・本坊(金剛寿命院)
   光明心殿の左に東面して建つ 鞍馬寺寺務所
 ・金剛床
   金堂前の広場に敷きつめられた、円と三角を組みあわせた幾何学模様の板石
   宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく拡がる様を模したもので、人間が尊天と一体化する修行の場という
 ・翔雲台
   金堂の反対側にある朱塗り欄干に囲まれて突きだした一角
   鞍馬山は北方守護の浄域で、擁護授福のため、本尊ここに降臨ありて、はるか平安京を望まれた、という
   中央の板石は本殿後方よりの出土品で、平安時代より鞍馬寺に伝えられた如法写経会の経巻を埋納した経塚の蓋石という


本坊(金剛寿命院) 

金剛床 
 
翔雲台・経塚蓋石

 参道脇には、幾つかの小祠が点在する。仁王門からの巡に記せば、次のものが目につく。
 ・吉鞍稲荷社--祭神:茶枳尼天尊・吉鞍稲荷大明神
   五穀豊穣・各種産業の守護神
 ・鬼一法眼社(キイチホウゲン)
   鬼一法眼は、牛若丸に「六韜三略」の兵法を授けた武芸の達人という
 ・双福苑
   朱塗りの橋をはさんだ二つの小堂には、左に大黒天、右に恵比須等が祀られ、ており、この辺りを双福苑と呼ぶ
 ・福寿星神社 --祭神:福禄寿・寿老人
 ・巽の弁財天社
   本殿の東南(巽)の方角にあるので「巽の弁天さま」と呼ばれ、福徳・智恵・財宝・伎芸を授けてくれる神


吉鞍稲荷社 
 
鬼一法眼社

双福苑 
 
福寿星神社
 
巽の弁財天社

 ・転法輪堂
   一丈六尺の阿弥陀如来が鎮座し、鞍馬寺歴代と信徒各家の酬徳尊神を祀る。祖先の恩徳に感謝するお堂
 ・寝殿
   大正13年木曾御料材の檜材を下賜されて、平安時代の寝殿造を忠実に模して建立され、同年貞明皇后御教皇の折りには休憩所として使用された。今は如法写経会の道場としてつかわれている


転法輪堂 
 
寝 殿 

 本堂域左手に奥の院への参道入口があるが、今回は不参(奥の院まで約1km、奥の院から貴船まで約600m)

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