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天津神社(京田辺市)
京都府京田辺市大住岡村62
祭神--天御中主尊・仁徳天皇
                                                   2019.11.29参詣

 JR学研都市線・大住駅の北約560m、駅東をほぼ南北に走る京奈和自動車道沿いに北上し西へ入った処に鎮座するが、地図が必要。すぐ南に隣接して来迎寺との寺院がある。

※由緒
 境内に掲げる案内(京田辺市教育委員会)には、
 「天御中主尊と仁徳天皇を祭神とする。
 社伝では、天禄年間(970-73・平安中期)の創建と伝えるが明らかでない。
 かつては若宮または若宮八幡宮と呼ばれていた。
 これは、同じ大住の西八区にある月読神社に対しての新宮としての呼び名であったとみられる。

 現在の本殿は、東に面した一間社流造の建物で、境内末社として水分神社(ミクマリ)がある。
 天和3年(1617)の社伝屋根吹き替えに際しての棟札を最古とし、以後、寛永10年(1633)・元禄13年(1700)・文化10年(1813)の造替・屋根葺替えに関する棟札がつたわっているという
 10月14日の宵宮には大住隼人舞(京田辺市指定文化財)が奉納される」
とある。

 当社蔵の棟札に、「元和3年(1617・江戸前期)社殿改築」とあることから、それ以前からの神社であるのは確かだが、それが何時まで遡れるかは不明。

 かつての当社が若宮(or若宮八幡宮)と呼ばれたのは、祭神・仁徳天皇が八幡信仰の祭神・応神天皇の皇子であることからと思われる。
 若宮とは、通常は主祭神の御子神を指すが、八幡信仰では応神天皇の御子・仁徳天皇を指す。

 また、“月読神社(京田辺市大住池平31、当社の西約800m)に対しての新宮”というのが、どういう由縁からかは不祥。
 臆測すれば、当社の鎮座地・大住とは、古代南九州に蟠踞した大隅隼人族が移住してきた土地といわれ(6・7世紀頃か、地名・大住は大隅隼人のオオスミがくるというという)、当社に大住隼人舞が伝わっていることからみると、当社も月読神社と同じく大隅隼人が関係する神社とも推測され、そこから月読神社よりも後に創建された当社を新宮と呼んだのかもしれない。(別稿・月読神社参照)


※祭神
  天御中主尊(アメノミナカヌシ)・仁徳天皇

 天御中主尊とは、古事記によれば天地開闢の時最初に成りでた造化三神の中心となる神で、古事記には
 「天地初めて発(ヒラ)けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神(タカミムスヒ)、次に神産巣日神(カミムスヒ)
  この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」
とある。

 記紀の中には御中主神以外の二柱はそれぞれの事蹟が記されているが、御中主神については何も記されておらず、延喜式神名帳の中に天御中主を祀る神社はみえない。
 しかし、中世以降、天の中央に坐す神ということから北極星の神格化である妙見菩薩と習合し、明治の神仏分離以降、妙見菩薩を天御中主と改めた神社は多い。

 社名・天津神社からみて、天つ神(天津神)の代表として祀ったのかもしれないが、臆測すれば、嘗ては妙見社であったものが明治以降、祭神を天御中主に変わったのかもしれない。ただ、それを示唆する資料はない。

 仁徳天皇を祀ることから、嘗ての当社は“若宮あるいは若宮八幡と呼ばれていた”というが、仁徳天皇の合祀由緒等は不明。

※社殿等
 道路に面して鳥居が立ち、境内に入る。
 拝殿右に社務所らしい建物があるが無人。

 
天津神社・社頭
   
同・鳥居

 境内正面に、切妻造・妻入り・瓦葺きの拝殿か建つ。

 
同・拝殿
 
同・拝殿側面(右:本殿) 

 拝殿背後、透塀(中央に神門あり)に囲まれた中が本殿域で、その中央に一間社流造・銅板葺きの本殿が東面して鎮座する。
 また、本殿域の右外に、一間社流造・銅板葺きの小祠が鎮座し、水分神社(ミクマリ)というが鎮座由緒等は不明。。


同・本殿 
 
同・本殿側面
 
境内社
(社名不明)

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