トップページへ戻る

山城(綴喜郡)の式内社/天神社
京都府京田辺市松井向山
祭神−−伊弉諾命・天照大神
                                                         2012.01.13参詣

 延喜式神名帳に、『山背国綴喜郡 天神社』とある式内社。社名は“アマツカミノヤシロ”と訓む。

 JR学研都市線(片町線)・松井山手駅の北約1.5km、松井集落西側に隣接する小高い岡の上に鎮座する。
 駅の西側を南北に走る府道736号線を北上、松井の交差点を右(東)へ進んだ集落内に一の鳥居が立つ。
 なお、松井交差点手前の右側(東)山麓に“天神社参道”の看板があり、山道を登り神社道標を目安に進むと社殿前に出る。

※由緒
 社頭に掲げる由緒(京田辺市教育委員会)によれば、
 「社伝によれば、もとは松井交野ヶ原(カタノガハラ)に創祀されたものを、現在地に移したという。
 長岡京遷都の翌年・延暦4年(785)、桓武天皇が天神を交野柏原に祀ったことが続日本紀にみえる。この交野は現在の枚方市樟葉の交野天神社とされるが、ここ松井にも交野ヶ原・柏原の地名があり、社伝との関係が注目される」
とある。

 桓武天皇が天神を祀ったというのは、中国・唐朝でおこなわれていた郊祀壇(コウシダン)祭祀を模したもので、郊祀壇祭祀とは、北天の中心にあって動かない北極星を天の最高神・晃天上帝(コウテンジョウテイ)として崇め、これに国家鎮護・除災招福を祈るために、冬至にあわせて宮廷の南郊に壇を設け、皇帝自らが晃天上帝と王朝の始祖を祀ったことをいう。

 通常、交野ヶ原とは現枚方市一帯を指し、桓武天皇は、続日本紀(797)
 ・延暦4年11月10日 天の神を交野の柏原に祀った
 ・ 同 6年11月5日  天の神と高紹天皇(タカツグ=光仁天皇)を交野に祀った
とあるように、2度にわたって交野の地で天つ神とともに父帝・光仁天皇(天智天皇以来10代ぶりの天智系の天皇で、これを新王朝の創祀とみたものという)を祀ったという。
 この郊祀壇跡に創建された神社(候補社)として、枚方市内に交野天神社(楠葉丘2丁目)と杉ヶ本神社(片鉾本町)の2社があるが、いずれが郊祀壇跡かは不明。。

 この枚方市説に対して、上記由緒は
 ・松井の地は、山城国綴喜郡の南部にあるものの河内国交野郡に隣接し、当地付近も交野と称していたこと
 ・当地は曾て交野ヶ原といい、また一町余り西に字柏原の地名があること
として(特選神名牒・1876)、当社こそが郊祀壇跡に創建された神社ではないか、というものだが、
 ・当地は古くから山城国に属しており、ここらが河内国交野の範囲内にあったとの確証はないこと
 ・桓武天皇の生母は、高野新笠(タカノニイカサ)と呼ばれる百済系渡来人の出身で、天皇は渡来系氏族と密接であったこと
 ・交野ヶ原と呼ばれていた枚方市には、天皇と親しかった百済系渡来人の百済王氏が居住し、また桓武朝の重臣で右大臣の藤原継縄(天神祭祀の勅使を務めた人で、その妻は百済王氏出身)の別邸があったこと
 ・為に、桓武天皇は屡々枚方市の交野ヶ原に行幸していたこと
など、桓武天皇と枚方市の交野ヶ原との関係が深いことからみて、桓武がおこなった天の神祭祀は枚方市内の何処かでおこなわれたとみるのが順当で、当社がその跡であることを示唆する資料はない。

 当社の創建年次は、上記由緒によれば延暦4年となるが、それを証する資料はない。
 ただ江戸中期の古文書・山城志(1734)
  「明応2年(1493)9月造営の社殿棟木に、『延暦24年(805)2月2日草創』と記してあった」
とあり、延歴年間の創建が何とか推測できそうだというのみで(式内社調査報告)、また、その後の経緯も不明。

◎論社について
 式内・天神社には、当社の他に論社として式内・朱智神社、同・棚倉孫神社の2社があるという。

*朱智神社(スチ)−−京都府京田辺市天王
  祭神−−迦爾米雷王(カニメイカヅチオウ)
  当社を式内・天神社の論社とするのは、東方山麓にある普賢寺村・大御堂脇に式内・地祇神社(クニツカミノヤシロ、別稿「地祇神社参照)が鎮座することから、天つ神の社・国つ神の社を対のものと考え、その西方山頂にある当社を天神社(アマツカミノヤシロ)と判断したのだろうという。
  しかし、朱智神社の祭神・カニメイカヅチオウ(別名・朱智王ともいったという)が、神功皇后の祖父に当たるといわれるように(記紀)、当地一帯が息長氏に関係の深い土地であることから、息長氏がその祖神を祀った式内・朱智神社であることは確実という。

*棚倉孫神社(タナクラヒコ)−−京都府京田辺市田辺棚倉(別稿・「棚倉孫神社」参照)
  祭神−−倉下命
  棚倉孫神社が、字・天神の杜(モリ)に鎮座し、近くの小川を天津神川と称することから、式内・天神社の論社というものらしいが、江戸時代は天満宮とも称していたようで、菅原道真を祀る天神社を国つ神を祀る天神社と混同したのではないかという。
                                                               (以上・式内社調査報告・大意)

※祭神
 今の祭神は、イザナギ命・アマテラス大~とする。
 当社が郊祀壇跡とすれば、天つ神としてこの2座を祀るのは順当といえるが、その場合、同時に祀られたはずの光仁天皇が見えないのが疑問で、由緒と祭神とが整合しない。

 式内社調査報告によれば、“中古の祭神は知り得ない”としながらも
 ・神名帳考証(1733・1813−江戸中期・後期の2書あり)−−天津彦根命(アマツヒコネ)
 ・山城綴喜郡誌(1908・・明治後期)−−イザナギ命・アマテラス大~
との資料があるという。

 神名帳考証で祭神とされるアマツヒコネとは、記紀によれば、天の安川におけるアマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた5男神の一柱で、山代国造(後の山代直・山背忌寸)の祖とされる。
 延喜式に祭神一座とあることからすると、当地に居住した山代直(ヤマシロノアタヒ)一族がその祖神を祀ったのはありえることだが、それを証する資料はなく、由緒とも整合しない。

※社殿等
 松井集落内の府道736号線の南側、集落の中・民家に挟まれて一の鳥居が立つ。
 参道を進み、右に曲がった先の二の鳥居をくぐり、やや長めの石段を登ると境内に入る。
 境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥に装飾過多とも思えるような朱塗りの本殿(二間社流造・檜皮葺)が、いずれも東面して建つ。
 社頭の由緒には、
 「現在の本殿(京都府登録文化財)は、江戸中期・享保2年(1717)に、それまで2棟であったものを1棟にしたもので、山城地方に少ない二間社として貴重である。
 平成4〜5年(1992--3)に屋根をもとの檜皮葺きに戻し、彩色の修理をおこない、かつての姿がよみがえった」
とある。

天神社/一の鳥居
天神社・一の鳥居
天神社/二の鳥居
同・二の鳥居
天神社/拝殿
同・拝殿
天神社/本殿正面
同・本殿正面
天神社/本殿
同・本殿
天神社/本殿西面
同・本殿南面

◎末社
 社殿右手に末社合祀殿(熊野社・松尾社・稲荷社)と社名不明の小祠1社が、左に末社合祀殿(八幡社・春日社)と不明小祠2社があり、他に水分神社、神武天皇・伊勢神宮・明治天皇の遙拝所がある。

天神社/末社合祀殿(左手)
末社・合祀殿(社殿左手)
天神社/末社合祀殿(右手)
末社・合祀殿(社殿右手)
天神社/社名不明の末社
社名不明の末社

トップページへ戻る