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山城(宇治郡)の式内社/天穂日命神社
京都市伏見区石田町
祭神−−天穂日命
相殿−−天照大神・大山咋命
                                                         2011.12.20参詣

 延喜式神名帳に、『山城国宇治郡 天穂日命神社』とある式内社。社名はアメノホヒノミコト。

 京都市営地下鉄東西線・石田駅の西約150m、1番出口から出て京都外環状線を右(南西方)へ、二つ目の角を右に入った先に鳥居が見える。外環状線との角の右に“式内 天穂日命神社”、左に“万葉遺跡 石田の社”(イワタノモリ)との石標が立っている。

※由緒
 創建由緒・年代共に不詳だが、三代実録(901)
 ・貞観4年(862)6月15日−−山城国正六位上天穂日命神・・・共に官社に預かる
 ・   同       18日−−山城国正六位上天穂日命神に従五位下を授く
とあり、アメノホヒを祀る神社が9世紀には実在したことが確認できる。

 鳥井脇に立つ案内板(京都市掲示)には、
 「当社は延喜式神名帳に載る天穂日命神社に比定されており、天穂日命を祭る。現在の本殿は天明3年(1783・江戸中期)の造営で、造営当時は天照大~と日吉山王を祭り、田中神社と呼ばれていた。・・・
 境内は万葉集などで和歌の名所として知られた“石田の社”に比定される。・・・」
とあるのみで、詳しい説明はみられない。

 当社に関する資料は少ないが、管見した式内社調査報告(1979)・雍州府志(1686・江戸前期)・旧神社由緒(ネット資料)などを参考に推測すれば次のようになる。
 雍州府志
 「田中社 木幡の東北にあり、須麻神社と称す。また、石田と称す。天照大神・日吉二座なり。
  伝へ云ふ、天武天皇の時(673--86)、この里に、一夜の間に稲を積むこと数尺、その上に白羽の矢あり。老翁来現していはく、この地よろしく天照大神ならびに日吉社を鎮座すべしと。しかるときは、永く帝都南方の守護神とならんと。これにより鎮座す。その苗を積む処、苗塚と号す。今に存す」(“伝云”以下について、神社便覧-1664-他にも同じ記述あり)

 今、参道左の疎林になかに小さな自然石の碑があり、“苗塚”と刻してあることから、この伝承は当地に係わるものと理解される。
 資料によっては、この伝承から、天穂日命神社は天武朝に創建とするものもあるが、この伝承は田中社の創建伝承であって天穂日命神社のそれとは読めず、また、この時勧請された神はアマテラスとオオヤマツミであって、アメノホヒの名は見えず、この伝承と天穂日命神社との関係ははっきりしない。

 当社の鎮座地について、京都寺社案内(ネット資料)によれば、
 「曾て、石田村集落の東方丘陵地に鎮座していたという。その後(年代不明)、西方の現在地、田中明神が祀られていた石田の社に遷されたとみられている」、
 また、
 「もとは石田集落東の台地上にあった。宇治川を渡って山科に入り、逢坂山を越える道筋にあり、その岡の上にあった。逢坂山を越えようとする旅人は、この社に幣(ヌサ)を捧げたという」
ともあり、とすれば、当社は現在地東方の街道筋にあったが、何時の頃かに現在地・石田の社に遷座したことになる。

 これに対して、旧神社由緒には
 「天穂日命神社は旧来より鎮座あり、老翁の告によりて奉祀する二神の鎮座しますは田中神社と伝え二社ある筈なるも、後に二社を合祀したものと考える」
とある。これによれば、曾て石田の社に天穂日命神社と田中神社の2社があったが、何時の頃かに合祀されたと解される。

 この両論のどちらが史実なのか判断できないが、
 ・山城志(1734)−−田中明神 石田村石田の森にあり
 ・都名所図会(1780)−−石田森醍醐の南にあり、石田社は民家の中にあり
 ・山城国風土記残編−−藤岡の頭に神座天穂日命二座、中冬を以て之れを祭る。土人麦を以て神供料となす。
                 藤岡は石田の森のことにて藤の名所なりしなり
                (手持ちの山城国風土記逸文に藤岡の項はなく、ここでいう残編の出典資料不明)
 などからみて、江戸時代には当地・石田の森に田中明神との社があったことは確かで、その祭神が、今、当社相殿に祀られているアマテラス・オオヤマツミと解されるが、今の形になった由緒・時期などは不明。

 当社が式内・天穂日命神社に比定されたのは明治になってのことで、旧神社由緒掲示によれば
 「京都府庁に於いては明治10年(1877)6月考証確定の結果左の沙汰書を公布したり。
  宇治郡第二組 石田村
 其の村鎮座田中明神は延喜式内天穂日命神社に相違無之段、今般詮議決定候条此旨達候事  明治16年6月 京都府」
というが、その根拠は記されていない。

※祭神
 当社主祭神のアメノホヒ命とは、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた五男三女神の男神の第2子で、アマテラスの右のミズラに巻いた勾玉から成ったという。。
 記紀神話によれば、天孫降臨に先立つ国譲り交渉の2番目の使者として葦原中国に派遣されたが、3年たっても報告しなかったとあるが、
 出雲国造神賀詞によれば、命をうけて葦原中国に天降り、国見した結果、荒ぶる神々が多いことを報告し、その神々を鎮めるために子の天夷鳥(アメノヒナトリ、タケヒナトリともいう)に経津主(フツヌシ)を添えて派遣し平定させた功績のある神と、全然逆のことが記されている。
 その子・アメノヒナトリが出雲国造の祖神とされるように、出雲国に縁の深い神で、農業神・稲穂の神・養蚕神・木綿の神・産業の神など多彩な神格をもつという。

 オオヤマツミは、イザナギ・イザナミの国生みのときに生まれた神(古事記)、あるいはイザナギがカグツチを切ったとき生まれた神(書紀)ともいわれ、山を司る神という。

※社殿等
 鳥居を入り、石田の森の中を通る参道の先、右手の石垣を積んだ基壇上に本殿覆屋が、左に拝殿が建つ。

 今、本殿は覆屋の中にあって実見できないが、社頭の案内によれば、
 「今の本殿は天明3年(1783・江戸中期)の造営で、京都にはほとんどない二間社流造・檜皮葺。柱間は正面に蔀戸、東側面前方に板扉を構え、他は板壁。内部は棟通りに板扉を設けて、手前の外壁と内陣に分ける。
 細部に装飾的要素が見られるが、彫刻はおとなしく、派手なものではない。
 かなり早い時期から覆屋に入っていた入っていたようで、保存状態は良好。
 平成15年4月、京都市登録有形文化財に指定された」
という。
天穂日命神社/境内配置図
社殿等配置図(社頭案内より転写)
 覆屋正面の小さな隙間から覗いたところでは、本殿正面に掲げられた天穂日命と記した神額と、正面蔀戸および御簾が見えるのみで、案内がいう各部の構造・装飾は見えない。
天穂日命神社/鳥居
天穂日命神社・鳥居
天穂日命神社/拝殿
同・拝殿
天穂日命神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋
天穂日命神社/本殿(写真転写)
同・本殿(社頭案内より転写)
天穂日命神社/本殿(部分)
同・本殿正面(一部)

◎末社
 本殿の左に末社・篭守神社(コモリ・子守とも記す)・春日神社・稲荷神社が、右に末社・天満宮社と八幡宮社とが並ぶ。

天穂日命神社/末社−1
末社(左から篭守社・稲荷社・春日社)
天穂日命神社/末社−2
末社(左から八幡社・天満宮)

※石田の杜(イワタノモリ)
 当社が鎮座する石田の森は、万葉集編纂時から和歌の名所・石田の社として知られ、万葉集には
 ・山科の 石田の小野の ははそ原 見つつか君が 山路越ゆらむ−−1730
  (山科の石田の小野の柞原(ハハソハラ)を見ながら、あの方は山道を越えているのだろうか)
 ・山科の 石田の杜(モリ)に 弊(ヌサ)置かば けだし我妹(ワギモ)に 直(タダ)に逢はむかも−−1731
  (山科の石田の社に弊を奉ったら、もしやわが妻に じかに逢えようか)
 ・山背の 石田の杜に 心鈍(オソ)く 手向したれや 妹に逢ひかたき−−2856
  (山城の石田の社に いい加減に手向けをしたので あの娘に逢えないのか)
 ・山科の 石田の杜の 皇神(スメミマ)に 弊(ヌサ)取り向けて 我は越え行く 逢坂山を−−3236長歌の一部
などが見え、境内・鳥居の右手に上記・1730の万葉和歌および順徳院の和歌(ひぐらしの 涙やよそに余るらん 秋と石田の森の下風)を刻した歌碑が立っている。 


万葉和歌-1730

順徳院和歌

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