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山城(久世郡)の式内社/荒見神社
A:京都府城陽市富野字荒見田
祭神--天火明尊・天香山尊・天村雲尊・阿比良依姫尊・木花開耶姫尊
B:京都府久世郡久御山町田井字荒見
祭神--武甕槌命・応神天皇・仲哀天皇・別雷大神・倉稲魂命
                                                            2012.06.11参詣

 延喜式神名帳に、『山城国久世郡 荒見神社』とある式内社だが、城陽市富野と久御山町田井にある2社が式内・荒見神社を名乗り(いずれも社頭に“式内 荒見神社”の石標が立つ)、論社となっている。社名は“アラミ”と読む。
 なお公的には、明治10年(1877)、田井にある荒見神社を式内・荒見神社と認定したというが(式内社調査報告・1979)、その認定根拠など不明。

*富野・荒見神社
 JR奈良線・長池駅の西北西約600m、駅西側・府道24号線のアル・プラザ(スーパー平和堂)角を西へ、道なりに進んだ右側(北側)の大きな森の中に鎮座する。境内全域が森(神社の森-文化環境保全地区)に覆われ、周囲は堀割で囲まれている。

*田井・荒見神社
 近鉄京都線・大久保駅の西約3.7km、駅前から京阪バス・京阪淀駅行き(21系統)で田井下車。久御山田井交差点を右折・国道1号線を約300mほど進んだ左側に鎮座する。木津川大橋北詰から国道1号線沿いに約750mほど。
 富野・荒見神社の北西約6kmにあたる。

※由緒
 式内・荒見神社の創建由緒・年代等は不明だが、山城国風土記(713)・逸文(金沢文庫『伊勢内宮』引用)
  「荒海の社(祗の社) (祭神)名は大歳神」
とあり、8世紀初めには実在していたとみられるが(荒海=荒見)、それが富野の荒見神社か田井のそれかは不明。

【富野・荒見神社】
 当社配付の由緒(新見暦所載)によれば、
 「延喜式内社、国史所載、国内神名帳所載、以下古典による。
 宏遠人皇第36代孝徳天皇の御代、大化3年(647)9月、小篠峰に(神霊が降り)此所の管領・三富部連(ミトベムラジ)金建が畏みて御殿ご創建、天神五柱を鎮祭し、阿良美(アラミ)五社明神と申奉る。以降神境山麓一帯を五社ケ谷と呼称す。旧社地にして、古代より奈良街道に面したる聖地たり。

 第107代後花薗天皇・寛正2年(1461・室町後期)3月吉祥日、814年間奉斎の神地・五社ケ谷より現在の神域(往昔の御幸旅所)に、吉田神道管領長上・卜部朝臣兼知公御神殿を復元造営し遷宮申奉り、安羅見五社天神宮と申奉る。摂社・御霊社同時に遷祀す。
 ・・・
 明治20年12月まで安羅見天神宮と申奉る。明治中期の全国諸社合祀一郷一社指示の節、鎮座地名に依拠し荒見神社と改称す」
というが、六国史に当社関係の記録は見当たらず(国史とは山城国風土記を指すのかもしれない)、また、10世紀に編纂された延喜式および7世紀初頭編纂の風土記には一座とあるのに、当由緒で7世紀中葉に天神五座を祀るとするのは、年代的にみて平仄があわない。

 今、当社の東北東約1.8kmの辺りに五社ケ谷との地名(字名)が残るが、小篠峰の位置は不明。また、市販地図上では、五社ケ谷の辺りに旧街道らしき痕跡はみえない。

 当社創建後の経緯は不明だが、由緒にいうように、江戸時代には“天神宮”と呼ばれており、山州名跡志(1711・江戸中期)には、
  天神社 在同所(富野村)民居艮平林中 鳥居石柱南向 額天神宮縦額 拝殿西向 宮西向 
  御霊社 在本殿南西 所祭不詳
  巳上神土人為産沙神 例祭9月5日 神輿一基あり
とあるが(式内社調査報告・1979)、そこには式内・荒見神社の名はなく、江戸期には、当社を式内・荒見神社とする認識はなかったともとれる(田井の荒見神社が式内社と認識していたらしい-下記)

 今、鬱蒼たる森の中に鎮座すること、鳥居および社殿の配置・方位などは変わらないが、鳥居の神額には“延喜宮 荒見神社”とある。明治20年以降の変更であろう。

 当社の祭祀氏族・三富部氏とは、新撰姓氏禄(815)に、
 「山城国神別(天孫) 三富部 火明命(ホアカリ・天火明命とも記す)之後也」
とある氏族で、
 火明命の裔とされる海部氏(宮津・薦神社の社家)に伝わる勘注系図(伝885--89・国宝)には、
 「水主氏(ミヌシ)・雀部氏(ササキベ)・軽部氏(カルベ)・蘇宣部氏(ソガベ)・三富部氏は玉勝山代根子命(タマカツヤマシロネコ・火明命9世孫)の裔」
との注記が、
 また、同系図のヤマシロネコの曾祖父にあたる建田勢命(タケダセ・火明命6世孫)には
 「孝霊天皇の御宇、丹波国丹波郷で宰(ミコトモチ-地方長官)と為って奉仕、その後、山背国久世郡水主村(現城陽市水主地区)に移り座す。・・・後更に大和国(葛木附近らしい)に移り座す」(大意)
との注記があるという(その後、その本流が尾張国に移り尾張氏-尾張国造-となったという)

 丹波国から当地へ移ったのが建田勢命か後の世代かは不詳だが、3代後のヤマシロネコの後裔氏族が当地一帯に多いことから、その世代までには当地に移っていたと推測され、これら後裔氏族が関与する式内社として、当社以外にも水主神社(水主氏、城陽市水主宮馬場)水度神社(三富部氏・城陽市水度坂)室城神社(榎室氏・久御山町下津屋)がある。

 なお、水主氏以下の諸氏がホアカリの後裔氏族(尾張氏系)とされることについて、城陽市史(2002)には、
 「継体天皇が越国から河内・山背を経て大和へ進出してくる際に、目子媛(メノコヒメ)を妃として納れていた尾張氏も勢力を畿内に伸ばし、尾張と大和を結ぶ交通路のある久世郡地域を掌握するため、同地域の有力氏族の一部を同族として組み込んだ結果と考えられている」
とあり、これが史実に近いかもしれない。

 なお、通常・尾張氏系と呼ばれる勘注系図と同じ系図が先代旧事本紀(9世紀後半、物部氏系史書)に載ることから、尾張氏と物部氏とは一体という。


【田井・荒見神社】
 当社社頭にかかげる由緒によれば、
 「当社の創建年代は不明であるが、延喜式および山城国風土記に現在の神社名で記載されているので、少なくとも千年以上前であることは明らかである。
 江戸時代、当社は五社大明神と奉称されていたが、明治初年現在の神社名に復した。当社は、寛永7年(1630)木津川堤切れの洪水によって社殿と社地を失い、寛文4年(1664)氏子の寄進によって現在地に社殿を再建した。
 明治10年(1877・神社明細帳には明治6年とある)6月、延喜式内社と決定された」
とあり、創建由緒などの記述はない。

 当社に関する古資料として、
 ・山城志(1734・江戸中期・並河誠所編)--荒見神社 田井村に在り、今五社と称す
 ・式社考徴(成立時期不明)--今実地を見るに郷内田畑の字に荒見と云あり。古き水帳に凡竪横三町余ありとみえたり。
        寛永7年洪水に其地流失す、因て今の地に移ると伝ふ
         (当社には、「正一位五社大明神社皆造宮寛文四甲辰大施主当村氏子中」との棟札があり、水害後の造営を証するという)
        富野邑の神社を当社(式内・荒見神社)にあつるは非也。並河氏の説(山城志)もあれば、田井邑に確定すと云ふに従う
 ・神社明細帳(1883)--明治6年(1873-当社由緒は10年という)村社に被列 同年延喜式内に荒見神社記と決定の旨府庁より達せらる
 ・古伝によれば、旧鎮座地は当社の東南・下津屋に接する小字東荒見・西荒見と称した所という
  (今も、当社の南400m附近に東荒見・西荒見の字名があり、現鎮座地より木津川に近い-約400m、ただ、この地区に何処にあったのかは不明)
などがあり(久御山町史・1986他)、江戸期から明治初年にかけて、当社を以て式内・荒見神社とする認識があったことを示している。
 ただ、山城志には当社を式内社と比定した根拠は記されておらず、その真偽は不明。

 当社の創建にかかわって、
 「この地の旧家・田井本家の先祖が五社明神(荒見社)を創建した」
との伝承があるという(式内社調査報告、当社を田井家の氏神とするネット資料もある)
 田井本家とは当社の宮主(宮司)で、戦前まであった宮座(神社の祭祀に携わる村落内の特権的な組織)とともに当社の祭祀を掌った旧家らしいが、資料不足のため、この伝承の真偽は不明。

※祭神
 今の祭神は、神名は異なるものの両社とも5座となっているが、延喜式(927)では一座とあり、風土記(713)逸文では大歳神一座という。時代の経緯とともに祭神名・座数の変更があったと思われるが、その時期等は不明。

 大歳神(オオトシ・大年神とも記す)とは、古事記にのみ登場する神で、スサノヲの御子という。本居宣長が
 「歳(年・トシ)とは穀物のことで、穀物(稲)の播種から収穫までを以て一年(ヒトトシ)という。・・・此の神は、穀物の事(豊饒)に大きな功があることから、此の名を負う」(古事記伝・1798、大意)
というように、穀霊を神格化した神で農耕を守護する穀神という。

 式内・荒見神社について、風土記に“荒海の社・祗の社(クニツヤシロ)”とあり、土着の国つ神(クニツカミ)を豊饒をもたらしてくれる穀神・大歳神として祀ったのが、本来の姿と解される。

 なお、社名の荒見とは荒水の転訛で、しばしば洪水を被ることから、“水神を祀ったのが当社の起こり”とする伝承があるという(久御山町史)。水神は単なる洪水防御だけではなく、稲作に必要な水を掌ることから農耕神でもあり、その神格は大歳神と通じるともいえる。

*富野・荒見神社
 今の祭神・五座のうち、主祭神と目される天火明命(アメノホアカリ)とは、
 ・古事記および日本書紀・一書6--天火明命、
 ・書紀・一書8--天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリ)
 ・先代旧事本紀・天孫本紀(9世紀後半・物部氏系の史書)
         --天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコクシタマアメノホアカリニギハヤヒ、別名:ニギハヤヒ)
とある神で、いずれもアマテラスの御子・天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)の御子(アマテラスの孫)で天孫・瓊瓊杵尊(ニニギ)の兄神という。
 なお当社由緒では、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命を以て正式の祭神名としている。

 勘注系図によれば、ホアカリに続く相殿神・天香山命(アメノカグヤマ、天香語山命とも記す)・天村雲命(アメノムラクモ)はホアカリの御子神と孫神で、阿比良依姫命(アヒラヨリヒメ)はアメノムラクモの后という(先代旧事本紀にも同じ系譜がある)。このアメノムラクモとアヒラヨリヒメの7世孫が、三富部氏直接の祖神・玉勝山代根子命となる。
 ただ古事記に、神武天皇が日向に居たとき娶った妃に“阿比良比売”(アヒラヒメ)との名が見え、当社由緒では、「阿比良依姫命は神武天皇の妃にまします」と記している。
 阿比良(アヒラ)とは薩摩半島の姶良(アイラ)がらきたもので、古代日向との縁が深く、そこから日向時代の神武の妃とされたものだが、それが、どういう由来で当社に祀られたのかは不明。
 当社が三富部氏創建とする由緒からすれば、アメノムラクモの后・アヒラヨリヒメとするのが妥当であろう。

 ホアカリ--子・アメノカグヤマ--孫・アメノムラクモおよびその后・アヒラヨリヒメは、当社の祭祀氏族・三富部氏の系図(勘注系図)に列する神々で、これらを祭神とするのはわかるが、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)は大山祇神(オオヤマツミ)の娘で、皇孫・ニニギ尊の后であり、これを合祀する理由は不明(アヒラヨリヒメを神武の妃とすれば同じことがいえる)

 ただ、これらの神々と風土記がいう穀神・大歳神とは直接の接点はない。強弁すれば、火明命は日明命とも解される日の神で、太陽神は農耕神としての神格ももつことから、大歳神と無関係とはいえない。

*田井・荒見神社
 当社の祭神五座は、
 ・武甕槌命(タケミカツチ)--春日大神
 ・応神天皇・仲哀天皇--八幡大神
 ・別雷大神(ワケイカツチ)--賀茂の大神
 ・倉稲魂神(ウカノミタマ)--稲荷神
で、一見して、著名な神々を寄せ集めた神との印象が強く、これらの神々を当初からの祭神とするには疑問がある。

 ただ、ウカノミタマはスサノヲの御子でオオトシの兄弟神とあり(古事記)、当社が五社大明神と呼ばれていたことから、風土記がいう祭神・オオトシが、より著名な穀神であるウカノミタマへと替わり、あわせて他の4座を併せ祀ったのかもしれない。その時期は不詳だが、だいぶ後世(平安時代か)になってのことであろう。

※社殿等
*富野・荒見神社
 道路に面して鳥居が南面して立ち、傍らに「式内 荒見神社」との自然石碑が立つ。社域の四周は狭い堀割に囲まれ、社殿域以外は樹木に覆われている(文化財環境全区域)。鳥居のすく先に薬医門があり、境内に入る。

 境内中央に拝殿(入母屋造・間口奥行二間・檜皮葺)が、弊殿の後ろ、透塀に囲まれた神域内に本殿(三間社流造・間口三間・奥行二間半・檜皮葺)が、いずれも西面して建つ。
 本殿は慶長2年(1597・桃山期)3月の再建、曾ての国宝(明治39年指定)で、今は重要文化財という(当社由緒)

富野・荒見神社/鳥居
富野・荒見神社・鳥居
富野・荒見神社/薬醫門
同・薬医門
富野・荒見神社/拝殿
同・拝殿
富野・荒見神社/社殿
同・左:弊殿、右:本殿
富野・荒見神社/本殿
同・本殿
富野・荒見神社/本殿正面
同・本殿正面

◎摂社他
 神域の右手に摂社・御霊社が建つ。中臣氏の祖・天児屋根命を祀ることから、ミタマシャと呼ぶのであろう。
 社殿背後に“菊水の神座”との泉があり、傍らに「菊水は長命の泉にして、此の泉は荒見の神がその身に召します水の衣なり。・・・」と刻した石碑が立つ。昭和60年造営という(当社由緒)

荒見神社/摂社・御霊社
摂社・御霊社
荒見神社/菊水の泉1
菊水の泉1
荒見神社/菊水の泉2
菊水の泉2

*田井・荒見神社
 国道1号線西側に神社の森が見えるが、道路側に入口はなく、社域には西側から入る。
 鳥居の脇に式内・荒見神社との石碑が立つ。
 鳥居を入り、参道を進んだ北側に拝殿(入母屋造割拝殿・間口三間・奥行一間半・瓦葺)が、拝所から左右に伸びる透塀の中に本殿(三間社流造・間口二間半・奥行二間・銅板葺)が、いずれも南面して鎮座する。

田井・荒見神社/鳥居
田井・荒見神社・鳥居
田井・荒見神社/拝殿
同・拝殿
田井・荒見神社/拝所
同・拝所
田井・荒見神社/本殿
同・本殿
田井・荒見神社/本殿正面
同・本殿正面

 境内には、末社・天神社と厳島社の小祠2社(一間社流造・銅板葺)があるが、祠に社名の記載なく、どちらがどの社か不明。

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