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山城(久世郡)の式内社/旦椋神社
京都府宇治市大久保町北山
祭神−−高皇産霊神・神皇産霊神・菅原道真
                                                        2012.04.29参詣

 延喜式神名帳に、『山城国久世郡 旦椋神社』とある式内社。社名は“アサクラ”と読む。

 近鉄京都線・大久保駅の南西約200m、駅西側の道を線路に沿って南行、小川に架かる橋を渡ってすぐの右斜めに分岐する小道を進んだ右側(北)に参道入口がある。
 なお、境内はこの小道で南北に分断されており、北側には社殿が建ち、南側境内の中程に鳥居が立っている。

※由緒
 当社配布の冊子によれば、
 「その成立は古く、日本書紀にも“栗隈県”(クリクマノアガタ)の地に在ったと伝えられていますが、この社は天文19年(1550・室町末期)に焼失しました。現在、この神社の跡地は明らかではありません。
 一方、大久保地区の産土神として祀られていた天満天神は、現在の旦椋神社の神域にありましたが、たまたま天文年間の頃20年余の間断絶していました。
 これを再興するため新に本殿を造営して、ここに元の旦椋神社と、天満天神社が合祀されました」
という。

 冊子には、当社は“日本書紀にも栗隈県に在ったと伝えられている”とあるが、書紀に記されている栗隈は
 ・仁徳天皇12年条−−冬10月、山城の栗隈県に大溝を掘って田に水を引いた。これによって土地の人々は毎年豊かになった。
 ・推古天皇15年(607)条−−この年の冬、山背国栗隈に大溝(オオウテナ・用水路)を掘り・・・。
の2ヶ所で、そこには“栗隈の地に大溝を掘った”とはあるものの、当社にかかわる記述はない。

 この栗隈大溝の整備について、宇治市史(昭和48年・1973)は、
 「栗隈大溝は、仁徳期において原初的形態がつくられ、推古期に至って灌漑用、一部は舟運用の水路として整備された。書紀の2つの記述から、このような推定が成り立つであろう」
として、7世紀初頭には整備されていたであろうと推定し、その位置について、当地一帯の地形と条里制跡および地名などとの関係からみて、当社西方約1.4km付近を北流する“古川”とするのが有力という(今の古川は北流後流路を北東へ転じ宇治川へ合流するが、曾てのそれは、北流して当地の北方に拡がっていた巨椋池-オグライケ-に流入していたという)

 この栗隈の地には、“くりこまの屯倉(ミヤケ)”あるいは“久世の屯倉”とよばれる朝廷直属の屯倉があったといわれ、その地は、当社の西方約1.3kmの古川東側(古川と国道24号線の間)の“大久保町旦椋”付近と推定されている。
 この地名・旦椋は、曾ては“朝倉”と記されていたようで(朝食・アサクヒとする資料もある)、アサクラは屯倉にあった穀物貯蔵庫・校倉(アゼクラ)からくるともいわれ、宇治市史が
 「栗隈には屯倉の穀があって、その穀霊を祀った信仰が、この古社(旦椋神社)を誕生せしめた背景であったと考えられる」
として、当社の原点を穀霊信仰に求めている。
 当社は、時期は不詳ながら(推定:7世紀から9世紀の間)、この栗隈の屯倉(あるいはその付近)に奉祀された古社で、当社の社名・旦椋は朝倉の転かと思われるが、旦椋という難しい漢字を用いた理由は不明。

 当社創建後の経緯・沿革など不詳。
 上記冊子によれば、天文19年の火災により焼失したが、現在地にあって断絶していた天神社との合祀という形で再興したというが、兼右郷記(吉田神社神官・吉田兼右の1533--72年間の日記)・永禄9年(1566・室町末期)8月23日条に、天神社に関連する記録として、
 「山城国玖世郡大窪村天神社 及廿年余断絶、今度造立致新社、神躰奉造立之 供養事申候間遣了 坐像タカサ一尺余」
とあり、又、当社に伝わる最古の棟札に、「造営 永禄9年8月吉日」とあることからみると、永禄9年の再建顕座というのが実態かもしれない。

 当社旧社地とされる江戸時代の旧朝倉周辺には、塚が七ヶ所あり、“七社”(ナナノヤシロ)と呼ばれたという(山城志・1734)
 この七塚と当社との関連は不詳だが、久世郡村誌(1902)
 「古木数十株境を囲む、神社旧地の後方に七塚散在せり、依りて七社の別称あり」
というから、旧社地は七塚の近くにあったと思われる(七塚のひとつかもしれない)

 宇治市史には
 「大久保の西方には小字名が旦椋と呼ばれる水田があり、条里制では二十二坪・二十三坪にあたっており、古川にも近い。
 居住が可能な自然堤防地帯の一画で、しかも、そこには小さな盛土が残っている。この盛土はもと旦椋神社が祀られていた旧地であり、まわりの自然堤防は、古代栗隈郷の故地と考えることもできる」
とあり、たわわに頭を垂れた稲穂の中に小島状に浮かぶ神社跡伝承地の写真が掲載されている(右写真−昭和40年代以前のものか)
旦椋神社跡伝承地
旦椋神社跡伝承地(宇治市史から転写)

 また、ネット資料が引用する旦椋神社旧跡の発掘調査結果には、
 「本社跡と呼ばれる旦椋神社の旧鎮座地とされている所の現状は、田の中に長径5.3m、短径3.6m高さ50cmの盛土が残っていた。発掘によって、草の繁茂した表土下に、20cmぐらいの大きさの川原石が平坦に敷かれていた。・・・表面近くから瓦片が出土することから、石敷きの上に小さな社がおそらく南面してあったと推定される」
とあるという。ただ、この発掘調査調査にかかわる調査主体・調査時期などの詳細は不明で、この調査から塚の存続年代を推測することは出来ない。

 今、当社の西・古川と国道24号線との間に“大久保町旦椋”の地名があり、その辺りが旧朝倉の地と思われるが、今、大久保町を含む周辺全域が市街地化して七塚も消滅しており、旧社地の確定はできない。

◎祭祀氏族
 当社にかかわる古代氏族について、宇治市史は
 「栗隈県の管掌には栗隈氏があたっており、後には久世郡の郡司となった・・・」
として、栗隈氏なる氏族を挙げている。
 ただ、新撰姓氏禄(815)に栗隈氏の名は見えず、正史上に見える栗隈氏関連記述として
 ・書紀・天智7年(668)2月条−−(后の一人として)栗隈首徳万(クリクマノオビト トコマロ)の女(ムスメ)があり、黒媛郎(クロメノイラツコ)といった。水主皇女(ミヌシノヒメミコ)を生んだ
 ・同・天武12年9月条−−栗隈首(オビト)・・・に姓(カバネ)を賜って連(ムラジ)とした
 ・続日本紀・称徳・神護景雲2年(768)9月条−−正八位上の栗隈連広耳に外従五位下を授けた。私財を献じたことによる
 ・同・桓武・延暦3年(784)12月条−−(長岡京造営に際して)外従五位下の栗隈連広耳は役夫に食料を与えて養ったので、従五位下を授けた
などがあるが、その出自などは不明。

 これらの記述からみると、栗隈屯倉から生み出された財力を背景に、朝廷と密接なかかわりをもった有力氏族と推測され(栗隈大溝の建設に関係した渡来系氏族ともいう)、そのことから、栗隈県の産土神的性格をもつ当社の創建・経営にかかわった可能性はあるが、それを証する史料はなく、今の当社に栗隈氏の関与を窺わせるものもない。

 なお上記以外に、天智7年に筑紫率(後の太宰帥:太宰府長官)に任じられた栗隈王(?--676)なる人物があり(天智7年条)、天武天皇即位前記には、壬申の乱(672)に際して、近江朝廷(大友皇子)からの出兵要請を、“太宰府の任務は外敵への備えである”として拒否したとある。
 この栗隈王は敏達天皇の曾孫で、橘諸兄(橘氏の祖)の祖父とされる人物で、太宰帥には従三位相当の政府高官(大納言級)が任命されたことからみて、栗隈を名乗るものの、上記栗隈連とは無関係であろう。

※祭神
 今の祭神・高皇産霊神(タカミムスビ)・神皇産霊神(カミムスヒ)・菅原道真のうち、菅原道真は合祀されている天満天神宮の祭神であることから、式内・旦椋神社の祭神はタカミムスヒ・カミムスヒの2座となる。

 タカミムスヒ・カミムスヒは、天と地が始めて別れたとき、高天原に成りでた造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・タカミムスヒ)のなかの2柱で(古事記)、記紀によれば、タカミムスヒはアマテラスとともに高天原の中心神として国譲り使者の派遣・天孫降臨を指令したとされ、一方のタカミムスヒは神産巣日御祖神(タカミムスヒミオヤ神)として主に出雲系神話のなかに登場する神で、わが国神統譜の始原に立つ神々といえる。

 一方、両神共通の神名・“産霊”(ムスヒ)の“ムス”が“生成発展”を意味し、“ヒ”が“霊”であることから、ムスヒ神とは“万物を生みだし成長成熟させる神秘な力をもつ神”と解釈される。
 アマテラスが天岩屋に隠れたとき、カミムスヒが御子のオモイカネ神に命じて祭祀を執り行わさせて大神を呼び戻し(再生)、カミムスヒが、オオナムチ(大国主)が兄神達に殺されたとき、キサガイヒメ等を遣わして蘇生させたというのも、ムスヒの神がもつ生成・再生の神としての神格を示している。

 この生成・成熟の神ということは、穀物の発芽・成熟を司る穀神・穀霊にも通じることで(穀神は秋に死んで春に蘇る−再生する)、宇治市史が“当社は、屯倉(校倉)における穀霊を祀ったのが始まり”というのは的を得た解釈といえる。 

 ただ、穀神といえばウカノミタマ・ウケモチなどを挙げるのが一般であるのに対して、当社がタカミムスヒ・カミムスヒという特異な神を祭神とする理由は難解で、近世の当社が天満宮として知られていたことからみて、当社が明治10年(1877)に式内・旦椋神社と認定されたときに、時の神祇官・神学者等によって新に持ちこまれた神ともとれる。

※社殿
 広い境内を南北に分ける道の北側、参道の途中に古びた四脚門があり、その奥、境内中央に拝殿(コンクリート入母屋造・瓦葺)が、その奥、透塀に囲まれた中に朱塗りの本殿が鎮座する。

 当社配布の冊子には
 「現在の本殿は、永禄9年に建立されたものが元で、たちの高い一間社流造で、屋根は檜皮葺、・・・(幾度か改修が行われたが)正面扉周り及び格子囲を替える程度で、保存状態は良く、江戸時代初期の様相をそのまま残している本殿として、高く評価されている」とあり、平成元年から2年にかけて、本殿彩色の復元工事がなされたという。

旦椋神社/社頭
旦椋神社・社頭
旦椋神社/鳥居
同・鳥居
旦椋神社/拝殿
同・拝殿
旦椋神社/本殿
同・本殿
旦椋神社/本殿正面
同・本殿正面

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