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山城(葛野郡)の式内社/阿刀神社
京都市西京区嵯峨広沢南野町
祭神−−天照皇大神
                                                         2012.02.11参詣

 延喜式神名帳に、『山城国葛野郡 阿刀神社』とある式内社。社名は“アト”と訓む。

 嵐電嵐山本線・車折神社駅の北北東約250m、駅から北へ出て、東西に走る府道187号線(丸太町通)・広沢南野交通信号の少し東、サンメンバーズホテルの南側に鎮座する小祠だが道路からは見えない。
 道路北側の広沢郵便局の向かい側に、駐車場にはさまれた狭い参道入口があり、「式内 阿刀神社」との石標が立つ。

※由緒
 境内に、式内・阿刀神社との石標以外に何らの案内表示なく、創建由緒・年代・祭神等不明。また、当社関連の資料も少なく、以下、式内社調査報告(1979)による。

 当社に関する国史史料としては、唯一、三代実録(901)の清和天皇・貞観8年(866)条に
 「潤3月7日 ・・・山城国正六位上降居神(オリイ)に従五位下を授け奉る」
とあり、三代実録・寛文13年(1672)版本(松下見林校注)のなかで、神名・“降居”の脇に“阿刀”と傍書されていることから、この神階授叙記録は当社を指すという(但し、所持する「読み下し三代実録」-2009-には該当する傍書は見えない)

 当社、特に鎮座地に関する古史料として、
 @山城志(1734・江戸中期)−−池浦村に在り、今、本宮と称す
 A山城国式社考(1848写・江戸末期)−−本宮森新宮森あり、小社わずかに残れり。また此の南の方に安堵橋あり。安堵(アンド)は阿刀(アト)の訛りたるべし
があり、池浦村あるいは本宮森新宮森のいずれかにあったとするが、
 B式内神社考証(1875頃・明治初)−−土民(村人)に問うに、本宮新宮に非ず、別に所謂・安堵橋の辺りにある小祠是なりと云ひぬ。安堵橋の南に安堵村ありしと云へば、蓋し土人の説の如きか、前説本宮新宮なるもの此の橋の北凡そ7・8町にあり、尚考ふべし
ともあり、確実なことはわからない。

 これらの資料にいう幾つかの地名(池浦村・本宮新宮・安堵橋)に関わって、
 ・明治8年、地元の惣代・戸長等から京都府へ提出された言上書に、“葛野郡第三区元池裏村南野”とあること
 ・今、南野町の西約500mほどに“新宮町”があること、
 ・現鎮座地の南を流れる有栖川に架かる“甲塚橋”の旧橋名が、曾ての“安堵橋”であること
などからみて、江戸時代の当社が現在地付近にあったことは確かと推測される。
 なお、村人の言では“安堵橋付近の小祠が旧社地”というが、今、当地一帯は民家密集地となっていて、路沿いに見るかぎりでは、安堵橋の後継という甲塚橋付近に、そのような痕跡は見当たらない。今の当社が旧安堵橋の北約7・80mにあることからみると、安堵橋付近というのは現鎮座地を指すか、とも思われる。

 また、上記言上書(明治8年)には
 「当村字南野に座す“大神宮社”は、往古より阿刀神社と唱え奉る。・・・」
とあり、江戸時代から明治初年までの当社は“大神宮社”とも呼ばれていたというが、これは江戸初期頃からといわれる伊勢信仰の一般化・庶民化(特に中期以降のお蔭参りの流行)などによるものと思われる。

※祭神
 今、ほとんどの資料では祭神を“天照皇大神”即ち“アマテラス”とするが、これは曾ての当社が大神宮社と呼ばれていたことからとで、創建当初からの祭神とするには疑問がある。

 当社本来の祭神については、次のような説がある。
 @阿刀宿禰祖・味饒田命(ウマシニギタ)説−−神祇史料(1871)
  当社を古代氏族・阿刀氏が、その祖神を祀った社とみることからの説で、神名帳頭注(1503・室町初期)にも、
  「阿刀神社 池裏村に在り、祭神阿刀宿禰祖神かと云ふ」
とある。

 阿刀氏とは、新撰姓氏禄(815)
  「左京神別(天神) 阿刀宿禰 石上同祖 神饒速日命之後也」
  「摂津国神別(天神) 阿刀連 神饒速日命之後也」
  「和泉国神別(天神) 阿刀連 神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」
とある物部氏系氏族で、物部系図によれば、当社祭神・ウマシニギタ命はニギハヤヒの御子・ウマシマジ命の御子という。

 当地に関係する阿刀氏がどの系列かは不明だが、阿刀氏が連なる本家・物部氏の本居が河内国阿都・渋河辺り(大阪府八尾市)であったことから、阿刀氏も河内国が本貫ではなかったかといわれ(阿刀氏の祖神を祀る式内・跡部神社が八尾市にある)、山城に関係する枝族として左京神別に阿刀氏があるものの、その阿刀氏が当地に進出していたかどうかは不明。

 A谷川の神(水神)
  社名・“アト”が“アツ”とも読まれ、更に、アツの“ア”が“ヤ”と相互に転音することから、社名・アトを“谷”を意味する“ヤツ”ではなかったかと推測し、すぐ傍らに有栖川が流れていることから、祭神を“谷川の神(水神)”とするものだが、風土記などに、読みの転換を証する傍証はあるものの、無理に結びつけたとのニュアンスもある。

 B田の神説
  阿刀の“阿”を“畦”(アゼ)・“刀”を“助詞”と考えて、阿刀を“田の神”と解した説で、田の神は水神でもあることから“谷川の神”と同じともいえる。

 これらから推測すれば、当社は、当地を流れる有栖川に坐す水神を田の神・農耕神として祀り、豊饒を祈った社で、阿刀氏によって奉斎されていた可能性が高い、ともいえる。
 ただ、アマテラスには日神であるとともに農耕神的神格もある(高天原で神田を作っていたなど)ことから、当社が豊饒祈願の社とすれば、アマテラスは日神というより農耕神としての奉斎とも考えられる。

※社殿等
 府道187号線南側、駐車場にはさまれた狭い砂利敷きの参道を入った先、周りを民家に囲まれた狭い境内に、素木の鳥居が立ち、簡単な覆屋の中に木造の小祠が鎮座する。
 新しい榊が供えられ、境内も綺麗に清掃されていることから、氏神・鎮守の神として守られてはいるらしい。

阿刀神社/参道入口
阿刀神社・参道入口
阿刀神社/境内全景
同・境内全景
鵜戸神社/社殿
同・社殿

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