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山城(綴喜郡)の式内社/地祇神社
京都府京田辺市普賢寺谷下太門(観音寺境内)
祭神−−活気長足比売命・大国主命・大山祇命
                                                        2012.01.13参詣

 延喜式神名帳に、『山城国綴喜郡 地祇神社』とある式内社。社名は“クニツカミノヤシロ”と訓むが、“チギ神社”と呼ばれることが多い。

 JR学研都市線(片町線)・三山木駅の西約2.1km。駅北を東西に走る府道65号線を西へ、普賢寺に沿った道路の左手・自動車学校を過ぎた辺りの対岸(北側)にある観音寺境内・本堂左側の小山の上に鎮座する。道路右側に観音寺への入口を示す大きな看板がある。

※由緒
 当社の創建由緒など不詳。
 鳥井脇に掲げる案内(京田辺市教育委員会)には、
 「正徳元年(1711)の“山州名跡志”には、大御堂(現在の観音寺)の鎮守として、権現大明神と地主権現の二柱がみえる。
  明治初めころは、地主神社と呼ばれていた」
とあるのみで、当社の創建にかかわる記述はない。

 当社が立地している観音寺は、本堂前に掲げる縁起に、
 「観音寺  真言宗智山派に属し、大御堂(オオミドウ)とも普賢寺(フケンジ)とも呼ばれる。 
 寺伝によると、天武天皇の勅願で義淵僧正が親山寺(筒城寺・ツツキ)を建立し、聖武天皇の勅願により天平16年(744)良弁僧正が再び造営し、伽藍を増築、親山寺を取りこみ、息長山普賢教法寺(ソクチョウザン フケンキョウホウジ)と号し、良弁の高弟・実忠和尚を第一世とした」
とある古寺で、その後荒廃し(時期不明)、わずかに残った観音堂を以て本堂とし観音寺と改名したという。
観音寺/本堂
観音寺・本堂
 当寺の本尊が天平期(8世紀前半)と考えられる十一面観音立像であること、背後の丘陵上から7〜8世紀の瓦が多数出土し、塔心礎と思われる遺構が確認されていることなどから、奈良時代以前に普賢教法寺の前身となる古寺が建立されたのは確かだろうという(同志社大歴史資料館館報・2006)

 当社と現観音寺(旧普賢教法寺)との関係は不詳だが、当社がその鎮守であるとすれば(朱智神社が鎮守だったともいう)、その前身である旧親山寺あるいは普賢教法寺と時を同じくして創建されたと思われる。
 ただ、天武朝には神仏習合思想が未だ生まれていないことから、聖武天皇(724--49)による普賢教法寺造営時(あるいは、それ以降)の創建とみるのが順当であろう。

※祭神
 当社祭神には諸説がありはっきりしない。
 江戸時代の古書には
 ・山州名跡志(1711・江戸中期)
   鎮守社 堂の西山の麓に在り 社艮(北東)に向く 祭る所 権現大明神  
    同   右社の北に在り 社同上 祭る所 地主権現
 ・山城名跡巡行志(1754・江戸中期)
   地祇神社 同村に在り大御堂西山麓 今権現大明神と云
   地主権現の社 同村に在り 式内の社也
とあり、江戸時代以降、権現大明神と地主権現の2神を祀るとされ、今も替わっていない。ただ、権現大明神・地主権現ともに神仏習合期の神を示す一般的な呼称であり、その具体の神名は不明。

 当社が国つ神社(クニツカミノヤシロ)と呼ばれることからみると、巡行志がいうように、明治初年まの呼称・地主権現、すなわち在地の神が式内・地祇神社とも推測されるが、式内社調査報告(1979)は、“どちらが式内・地祇神社であるか明確ではなく、むしろ両社あわせて式内社と考えられてきたようである”という。

 しかし、江戸後期以降の資料には、
 ・神名帳考証(1813江戸後期)・山城国式社考(?)・大日本史神祇志(1873・明治初)−−祭神については記載なし
 ・神社覈録(1870・明治初)−−祭神詳ならず 大己貴命というは信がたし
 ・特選神名牒(1876・明治前期)−−祭神不詳
 ・山城綴喜郡誌(1908・明治末)−−一は御霊天皇と称して継体天皇を祀り、一は山王権現と称して神功皇后を祠れり
などがあり、はっきりしない。

 既に江戸時代には、当社本来の祭神が忘れられており、それが未だに続いているようで、式内社調査報告は、
 「現在の祭神、活気長足比売(オキナガタラシヒメ=神功皇后)・大国主命・大山祇命とは、上記諸説を集積したものであろう」
という。
 延喜式には祭神一座とあることからみると、オキナガタラシヒメ(神功皇后)を主祭神とするらしい。これは、当社の南西方約3kmの山中(京田辺市山王)に鎮座する朱智神社(スチ、主祭神:迦爾米雷王・カニメイカヅチ)が当地一帯の総鎮守社で、当地一帯が息長氏あるいは神功皇后と関係深いことからとも思われるが(迦爾米雷王は皇后の祖父)、神功皇后は天つ神的性格が強いことからみて、国つ神社と称する当社には似つかわしくない。 

※社殿等
 観音寺本堂の左手に小ぶりな鳥居が立ち、石段を登った上・山頂を切り開いた狭い境内正面、簡単な覆屋の中に本殿(三間社流造・板葺、正面三間・奥行一間)が東面(観音寺の方向)して鎮座する。
 社殿・境内ともに古びていて、祭祀がおこなわれている形跡はみえない。

地祇神社/鳥居
地祇神社・鳥居
地祇神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋
地祇神社/本殿
同・本殿

◎境内社
 本殿の右手に覆屋・2棟があり、それぞれに境内社(小祠:一間社流造・板葺)が鎮座する。

 祠の前に、何らの標示がないため、社名・祭神名は不明。

 ・右の小さい方は“祈雨神社”(祭神:天之水分神-アメノミクマリ・水神)とあり、諸資料ともに一致する。
 ・左の大きい方には稲荷神社(トヨウケヒメ・穀神)と天神社(菅原道真)との2説がある。小祠前に狐像がみえないから天神社か。

 いずれも、その鎮座由緒など不明。
地祇神社/境内社
同・境内社

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