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六道珍皇寺
京都市東山区大和大路四条下る4丁目小町町595
本尊--薬師如来
                                                                    2017.09.18参詣

 京阪本線・清水五条駅の北東約600m、駅から鴨川左岸沿いの川端通を北へ、次の信号を右折、松原通りを東へ約500m余り行った北側(左側)に鎮座する。
 正式寺名 “大椿山(ダイチンザン) 六道珍皇寺(ロクドウチンコウジ)”と称し、今は臨済宗建仁寺派に属する。 

※縁起
 頂いた参詣の栞には
 「六道とは、一切の衆生が、生前における善悪の業因によって必ずおもむかなければならない地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の6種の冥界をいう。
 その“六道さん”と呼ばれる六道珍皇寺(ロクドウ チンコウジ)は、山号を大椿山と称し、臨済宗建仁寺派に属する。
 当寺は、今から1200年前、平安朝・桓武天皇・延暦年間(782--806)、慶俊僧都の開基で、宝皇寺・鳥辺寺または愛宕寺(オタギ)とも称せられた。
 宝皇寺は、古く東山阿弥陀ヶ峯(鳥辺山)山麓一帯に居住していた鳥部氏が、氏寺として建立したものであるが、今はその遺址は明らかでない。
 その後、平安遷都に際し、愛宕(オタギ)の地が諸人の墓所と定められたことに伴い、慶俊が珍皇寺を建てたといわれ(古事談)、ついで空海が興隆して東寺の末寺となり、小野篁が檀越となって堂塔伽藍が整備された。
 寺域は墓所として有名な鳥辺野の入口にあり、六道寺ともよばれた。
 しかし、永久年間(1113--18)一旦消失、その後、承安3年(1173)多宝塔の落慶等の伽藍整備も行われたが、中世の兵乱により荒廃、正平年間(1346--70)建仁寺の僧・聞渓良聡が再興し、臨済宗建仁寺派に属する寺となり、建仁寺塔頭大昌院が住持を兼ねたが、のち一旦廃絶した。
 往時の寺域は、現八坂塔付近から建仁寺南辺一帯とされるが、現在の珍皇寺は旧地域の一角にあり、大昌院をつぐ寺としても存している」
とある。

 当寺を開基したという慶俊僧都I(?~延暦年間782--806)については資料少なく詳細不詳だが、ネット資料によれば
 ・河内国丹比郡(大阪府藤井寺市付近)居住の渡来系氏族・葛井氏(フジイ)の出自
 ・出家後大安寺に属し、入唐僧・道慈を師として三輪・法相・華厳を学ぶ
 ・天平3(731)、大安寺の請経牒(経典の借用書)に自署名があり、天平勝宝3年(751)、大安寺仁王会講師18人の中に名を連ねる
とあるが、当寺との関係は不詳(当寺の創建年次延暦年間は、慶俊死亡の頃となる)

 また、当寺公式HPなどの諸資料には、弘法大師・空海(774--835)は慶俊僧都を師としたとあるが、空海年表によれば、空海が大安寺に関わったのは天長6年(829)に大安寺別当に補任された時で、その時点で慶俊僧都は既に亡くなっており、それ以前に師弟関係を結んだという話は見えない。当寺が一時期(鎌倉期という)東寺の末寺にあったことから作られた伝承であろう。

 当寺の東、清水寺から南の阿弥陀ヶ峰(豊国廟あり)にかけての東山西麓一帯は、古くは“鳥辺野”(トリベノ)と呼ばれた葬送の地で、平安時代、一般庶民はその死者をこの地に放棄(風葬)したという(貴族らは火葬)
 吉田兼好の徒然草に、「あだし野の露消ゆることなく 鳥辺山の烟立ち去らでのみ住み果つる習ひならば・・・」とあり(第7段)、そこに“鳥辺山の烟”とあるが、兼好がが生きた鎌倉時代には火葬が一般化したことからの記述で、古くは自然消滅をまつ風葬がほとんどだったという。

 その鳥辺野への入口にあたる当社の辺りは“六道の辻”(ロクドウノツジ)と呼ばれ、当寺前及び少し西にある西福寺の角にも「六道の辻」との石碑が立っている。

 六道の辻あるいは当寺について、謡曲・熊野(ユヤ)には、平宗盛と愛妾・熊野二人による鴨川べりから六道珍皇寺への道中を
 「河原おもて過ぎ行けば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の地蔵堂よと伏し拝む。・・・げにや護りの末すぐに、頼む命は白玉の、“愛宕の寺”(オタギの寺=六道珍皇寺)も打ち過ぎぬ。“六道の辻”とかや、げに恐ろしやこの道は冥土に通ふなるものを、心ぼそ鳥辺山」
と謡っており、六道の辻が冥土への道として知られていたことを示している。

 六道とは仏教でいう輪廻転生説から生まれたもので、「衆生が自ら作った業によって生死を繰り返すとされる、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六界」(岩波版仏教辞典1989)を指し、死者は現世で行った善悪の度合いに応じて、このいずれかに転生するという。

 当社が六道の辻にあることから、六道、特に地獄・畜生・餓鬼道(三悪道という)に落ちて苦しむ亡者を救済するために創建された寺院ということができ、そこから、小野篁の冥土往来の説話(下記)が生まれたのであろう。

※堂舎等
 松原通りの北側・朱塗りの山門前に「小野篁卿旧跡」との石碑が立ち、山門前の左手植込みの中に、自然石に「六道の辻」と刻した石碑が立つ。
 山門は、入母屋造の尾根をもつ四脚門で鮮やかな朱塗りだがやや小ぶり、左右に短く白壁が延びる。

 
小野篁旧跡の碑
 
六道の辻 石碑
 
六道珍皇寺・山門

 境内正面に入母屋造の本堂が建ち、その前の植え込みには「三界萬霊十方至聖」と刻した石柱が立ち、この地において、鳥辺野へ向かう死者に住職が最後の引導を渡したともいう。

 
境内正面
 
本 堂

 本堂内には、木造薬師如来座像(重文)・珍皇寺参詣曼荼羅・熊野観心十界曼荼羅(六道十界曼荼羅ともいう)なとの寺宝が並んでいるが、資料なく写真撮影も禁止。

◎閻魔・篁堂
 境内右手(東)に「閻魔・篁堂」が建ち、中に小野篁立像・閻魔大王座像が収められている。
 傍らの案内には、
 「堂中には、右手に笏を持つ等身大の衣冠束帯姿の小野篁立像(江戸時代)と善童子や獄卒鬼王、その傍らには閻魔大王座像(小野篁作)を安置するとともに、弘法大師(空海)座像を合祀する(以下、篁についての説明が続く)
とある。

 
閻魔・篁堂
 
小野篁像
 
閻魔大王像

 小野篁(802--53)は、平安前期の公卿・参議小野岑守の子で、遣隋使の嚆矢・小野妹子の孫にあたる。
 西暦834年遣唐副使に任じられ、826年に出発したが暴風雨により引き返し、838年再度遣唐副使に任じられたが大使・藤原常嗣との軋轢から辞任、「西道謡」を書いて遣唐の役を風刺したことが、嵯峨上皇の怒りにあい隠岐島へ流罪。3年後許されて帰京、その後昇進を重ねて要職を歴任、最終は参議・従三位。
 篁は漢詩文に優れ、勅により令義解の選集に参加。篁の漢詩は和漢朗詠集などにも収められ、古今和歌集にも6首(「わだのはら 八十島かけてこぎいでぬと 人には告げよ あまのつりぶね」他)が収められるなど、その才能から野相公・野宰相とも呼ばれたという。
 ただ、生来不羈の性格で野狂とも呼ばれたように奇行も多かったといわれ、そこから閻魔大王に仕えたという風説が生まれたともいう。

◎冥土通いの井戸
 本堂裏庭の左隅に「小野篁 冥土通いの井戸」があり、その脇から通路を進んだ先に「黄泉(ヨミ)がえりの井」がある。
 井戸の傍らの案内には、
 「小野篁卿(802--52)は、昼は朝廷に、夜は冥府の閻魔王庁に仕えるという冥官伝説をもつ平安前期の公卿で、著名な歌人でもある。
 その篁卿が夜毎に冥府に出仕する往路の入口としたのが、当寺に古くから伝わる『冥土帰りの井戸』とされるが、その帰路の出口と伝わるのが、平成23年の霖雨の季節に隣接の民有地(旧境内地)より見つかった『黄泉がえりの井』である。
 篁卿の蘇りの出口と伝わるこの井戸は、地底百米と途轍もなく深く、今も渾々と浄水を湧出している。
 お盆に当寺の『お迎え鐘』の鳴り響く頃には、多くの精霊たちが、この井戸より現世に戻るとも伝わる。まさにこの井戸も冥土に通じる道なのである」
とある。

 
本堂裏庭
左に冥土通いの井戸あり
 
小野篁・冥土通いの井戸
 
小野篁・黄泉がえりの井

 篁が冥土の閻魔王に仕えたという話は平安時代末期には広く知られていたようで、今昔物語(1120以降、白河鳥羽法皇の院政の頃に成立と推測)には、
 「小野篁依情助西三条大臣語
 今昔、小野の篁といふ人有り、学生にて有りける時に、事有て、公の過(トガ)を行はれけるに、その時、西三条大臣良相と申しける人、宰相として事に触て篁が為に吉き事を宣ひけるを、篁、心の中に嬉しと思て年来経る間に、篁、宰相に成ぬ。良相宰相も大臣に成ぬ。

 而る間、大臣、身に重き病を受て日来を経て死給ひけり。即ち閻魔王の使の為に搦められて閻魔王宮に至て、罪を定めらるるに、閻魔王宮の臣共に居並たる中に、小野篁居たる。
 大臣これを見て、『これは何なる事にかあらむ』と怪く思えていたる程に、篁、笏を取りて王に申さく、『この日本の大臣は、心直ぐにして人の為に吉者也、今度の罪、己に免じ給らむ』と。
 王、これを聞きて宣はく、『これ極て難き事也といへども、申請ふによりて免じ給ふ』と

 然れば、篁、この搦めたる者に仰せ給て、『速に将返へるべし』と行へば、活(イキカヘレ)れり。
 その後、病暫く止て月来を経るに、かの冥土の事、極て怪く思ふといへども人に語る事なし。亦篁に問ふ事なし。

 而る間、大臣参内して陣の座に居給ふに、篁も居たり。又人なし。“只今吉き隙也、かの冥土の事、問ひてむ”と、“日来、怪く思えつる事也”と思いて、大臣居寄て、忍て篁に云く、『月来も便なくて申さず。かの冥土の事、極て忘れ難し。抑もそれは何なる事ぞ』と。
 篁、これを聞て少し頬咲ひて云く、『千年の御□□の喜び候ひしかば、その喜びに申したりし事也。但し、この事、やよ人に仰せらるべからず。これ未だ人の知らぬ事也』と。

 大臣これを聞きて、いよいよ恐れて、“篁は只人にも非ざりけり。閻魔王宮の臣也けり”という事を始て知て、『人の為には直しかるべき也』とぞ、諸の人には教へ給ひける。
 而る間、この事 自然ら世に聞へて、『篁は閻魔王宮の臣として通う人也けり』と、人 皆知て恐ぢ怖れけりとなむ、語り伝へたるとや」
とある(巻20、第45話)

*追記
 当寺では、小野篁の“冥土帰りの井戸”も境内にあるとしているが、当寺の西北西遠く離れた嵯峨六道町(現西京区大覚寺前六道町付近)にあった福生寺境内の井戸がそれだという伝承があるという(福生寺・井戸ともに今はない)

◎鐘楼

  境内右手、閻魔・篁堂の左に隣接して『お迎え鐘』と称する鐘楼があり、傍らの案内には
 「この鐘楼にかかる鐘は、毎年盂蘭盆会にあたり精霊をお迎えするために撞かれるが、古来よりこの鐘の音は遠く十万億土の冥土まで響き、亡者はその響きに応じてこの世に呼びよせられると伝わることより、『お迎え鐘』と呼ばれている。

 古事談(鎌倉初期の説話集、1212--15の間に成立)によれば、この鐘は、当寺開基の慶俊僧都が作らせたもので、ある時、僧都が唐国に赴く時に、その鐘を3年の間鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立った。

 ところが、留守をあずかる寺僧は待ちきれず、一年半ばかりたって掘り出して鐘を撞いたところ、はるか唐国にいる僧都のところまで聞こえた。

お迎えの鐘・鐘楼

 それを聞いた僧都は、『あの鐘は3年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして六時(ムツドキ)になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた』といって、大変残念がったという。

 しかし、そんな遙か彼方の唐国にまで響く鐘なら、おそらくは冥土までも届くだろうと信じられ、『お迎え鐘』となったと伝えられている(以下略)
とある。

 通常は鐘楼の中に収めらた鐘を撞くことはできないが、お盆になると撞木からの引き綱が鐘楼の外に伸び、その綱を引くことで鐘を鳴らすことができ、このお迎え鐘を撞く順番を待つ参詣人が列をなすという。

 なお、今昔物語(巻31・第19話)にも略同意の説話が載っている。
 ・小野篁が愛宕寺(オタギジ・当寺を指す)を創って鋳物師に鐘を鋳させた  
 ・鐘を鋳あげた鋳物師は
   「この鐘を土中に埋め、3年経ってから掘り出したら、人が居なくとも十二時に鳴るように仕掛けがしてある
    それ以前に掘り出したら鳴らないであろう」
  といって去っていった
 ・その後、ある法師が3年を待ちかねて2年過ぎた時に掘り出したところ、十二時になっても鐘は鳴らなかった
 ・人々は、「大変口惜しいことをした別当だ」と謗(ソシ)りあった(大略)

 閻魔・篁堂の右には薬師堂があり、中に薬師如来座像が収められている。

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