トップページへ戻る

御香宮神社
京都市伏見区御香宮門前町
主祭神--神功皇后
相殿神--仲哀天皇・応神天皇ほか6座
                                                            2017.01.04参詣

 京阪電鉄本線・伏見桃山駅(近鉄京都欄・伏見御陵前駅)の東約300m、京阪・伏見桃山駅北改札の前を通る道(大手筋)を東へ進むと、道を跨いで朱塗りの大鳥居が立ち、その先の北側(左手)に表門が建つ。

 延喜式神名帳に『山城国紀伊郡 御諸神社』とある式内社の論社(2社あり)だが、式内社かどうかは不詳。

※由緒
 社務所で頂いた「御香宮略記」を基に、ネットにみる公式HPなどをまとめると以下のようになる(年次は追記、以下由緒という)
 ・創建年は不詳。
 ・日本第一安産守護之大神として広く崇められている神功皇后を主祭神として、仲哀天皇・応神天皇他六柱の神を祭る。
 ・初めは『御諸神社』と称したが、約1150年前の平安時代・貞観4年(862)9月9日に、境内から“香”の良い水が湧き出たので、その奇瑞によって清和天皇(在位・858--76)から『御香宮』の名を賜ったと伝える。

 ・円融天皇(在位・969--84)以後、屡々社殿を造営され、後宇多天皇(在位・1274--87)は弘安3年(1280)に元軍討平祈願のため種々の弊物を奉じられた。
 ・後伏見天皇(在位・1298--1301)の御代にも社殿の造営あり、伏見宮家の御先祖・伏見宮貞成親王は産土神として特に御崇敬遊ばされ、御祭礼には必ず猿楽や相撲を御覧になり、又屡々お百度やお千度をなされたことが「看聞御記」(1416--48のみ残存)に詳しく記されている。
 ・応仁の乱(1467--77)には、当社も兵火に罹ったので、その後は小さいお宮を建ててお祀りしていた。
 ・天正18年(1590)、豊臣秀吉は国内統一がほぼ出来たので、更に海外にまで勢力を展さんと、当社に願文と太刀(備前長光作、重要文化財)とを献じてその成功を祈った。
 ・その後、秀吉は伏見城の建設に着手(1592)、2年後の文禄3年(1594)、鬼門除けの神として当社を城の艮(ウシトラ・北東方)に遷し、社領三百石を献じた。
 ・秀吉の没後、徳川家康は、慶長10年(1605)、また元の所に社殿を造営し、秀吉同様三百石を献じて明治維新に及んだ
 ・慶応4年正月(1868・9月8日明治改元)、伏見鳥羽の戦いには、伏見奉行所に幕軍が拠り、当社は薩摩藩の屯所になったが、幸い兵火は免れた。

 その他、近世になっての資料として次のものがある。
*山州名跡志(1711・江戸中期)
  「御香水  鳥居東傍らに在り。伝に云 上古此所に清泉湧出す。其水香しくして四方に薫す。病者服すれば忽ち癒ゆ。願者は本懐を満つ。然れば即ち当社を称して御香宮と云ふ也。・・・」

*山城志(1734)
  「伏見に在り 御香宮と称す。・・・西方寺古図に見ゆ」
と簡単にあるが、論攻山城志(1936)には
  「御香宮神社の鎮座及び近世に至るまでの沿革については資料乏しく、神社所蔵縁起三巻に記す所によると、清和天皇貞観4年9月、社内に清泉湧き、病者服すれば爽快忽ち癒ゆるので、勅を以て社殿を修理し給ひ、・・・」とある。

 これらによれば、清和天皇・貞観4年という年は、当社にとって一つの転機であったのは確からしいが、正史上(三代実録)にそれを示唆する記録はない。

 ただ、由緒に「初め御諸神社と称し」・大和志に「勅を以て社殿を修理し」ということからみると、貞観4年の霊泉湧出以前から何らかの社があったと推測され、由緒がいう御諸神社がそれであろう。

 御諸神社(ミムロ)とは、延喜式神名帳に「山城国紀伊郡 御諸神社」とある式内社を指すが、当社と伏見稲荷大社合祀社(四大神社)の2社が論社(後継候補社)となっている。
 管見した式内・御諸神社関連資料としては、つぎのものがある。
 *論攻 山城志
  御諸社が御香宮の前身であることは、宝暦2年の一条関白よりの書き付けに記されているが、
  ・御諸神社が御香宮の前身なれば、御諸神社の奉祀神は現在も御香宮に併記されて居らねばならぬ筈だが、現在御香宮に祀られている神は神功皇后以下10座であって、本殿周囲の末社内中にも御諸大神の祀殿あるを見ない。
  ・御香宮が清和天皇の貞観4年に霊泉の奇瑞から勅を蒙り社殿を修理されたのであれば、延喜式制定を溯る約50年であるから、御諸社を併せずとも式内神社たらねばならぬ筈だとして、
  ・御諸神社が当社の前身であることに疑問を呈し、
 続けて、
  ・菟芸泥赴(ツキネフ・1684)に御香宮を説いて、『筑前国糟屋郡におはしける香椎の明神(香椎宮)を勧請申ける。香椎は神功皇后の廟也。御香椎の下を略して御香の宮と申すなるべし』とあり、此説首肯するに近かろう
として、香椎宮勧請説を提示している。
 *神名帳考証(1813)
   或説に云 伏見御香宮歟(カ)
 *神社覈録(1870)
   伏見郷に在す 今御香宮と称す
 *特選神名牒(1876)
   今按に、山城志に「伏見称御香宮云々 見西方寺古図」と記されているが、京都府式内社考証に
   「今西方寺古図をみるに、御香社あれど御諸とはなし。且つ御香宮は古社なれど、神功皇后と云も本社祭神に非ざるに似たり。疑なきこと能はず」
と云るが如し、故に今決め難し
とあり、御諸神社=御香宮の前身ということに疑問を呈している。  
 *式内社調査報告(1979)
   上記神名帳考証・特選神名牒を引用した後に続けて
   「強いて案を立てれば、文永3年(1266)従来三座であった稲荷社に新たに田中・四大神を加えて五座としたとき、四大神の下に三諸と細記されてあることから、御諸はこの年以降稲荷社に合祀されたと見るべく、その古来の社名・御諸も恐らくは稲荷社神の三諸山のの意ではないかと考えられる」
として、式内・御諸神社とは稲荷大社に合祀されている四大神社ではないかと推測している。

 これらをみると、式内・御諸神社の後継社としては、当社より、伏見稲荷大社に合祀されている四大神社とするのが有力かもしれないが、これも御諸と三諸の訓が同じことからのもので確証はない。

 以上からみて、当社の前身については判然としない。
 菟芸泥赴にいう筑前・香椎宮(祭神:仲哀天皇・神功皇后・応神天皇)からの勧請とは、祭神からみると妥当かとも思えるが、御香椎の椎を略して御香と称したというのは語呂合わせ的な感が強く、その点からは、香椎宮からの勧請というのにも疑問がある(勧請時期も不明)
 なお、日本の神々5は、香椎宮からの勧請というのは「香椎宮の武内宿弥の不老水伝説によったものだろう」、即ち両社ともに霊泉伝承があることからだろう、としながらも断言はしていない。
 (不老水伝説--香椎宮の北方山中にある霊泉で、武内宿弥がここからの水を食事や酒に用いたことから、300歳の長寿を保ったという)

 当社が論社となっている御諸神社は、山城国紀伊郡8座の筆頭に位置する著名な神社だが、御香宮神社も又伏見九郷の総鎮守として崇敬を集めるとともに、伏見郷で何か事が起こったとき郷民が集まって対策を協議する談合の場としても使われていたといわれ(看聞御記、日本の神々5)、伏見郷内での一宮的存在だったと思われる。

 その後の当社は、豊臣秀吉の伏見城築城(文禄3年・1594)に際して、城の鬼門(艮-東北方)を護る守護神として大亀谷(現深草大亀谷)に遷されたが、慶長10年(1605)徳川家康の命により旧社地(現在地)へ戻されたという。

※祭神
   神功皇后・仲哀天皇・応神天皇他6座

 御香宮略記には
  「日本第一安産之大神と称せられる神功皇后を主祭神とし、仲哀天皇・応神天皇ほか6座の神をおまつりする」
とあり、以下、仲哀天皇・神功皇后に関する神話を略記している。
 この三座は所謂八幡神であって、この祭神からみると、当社が筑紫の香椎宮からの勧請とみてもおかしくはないが、どういう由縁で香椎宮から勧請したのかは不明。

 ただ、香椎宮からの勧請を否定すれば、当社が神功皇后以下の神々を祀る由縁は見付けがたく、また、御諸神社の祭神名も不明で、これとも結びつけ難い。
 御香宮が霊泉湧出に起因するのであれば、その祭神は水神とみるのが順当かとも思われるが、それを証する資料はなく、当社本来の祭神は不明とみるべきかもしれない。

 なお、仲哀・応神天皇の他6座について、山城志には
  宇倍大明神(武内宿弥の別名)・龍田大神(風の神)・豊玉命姫(綿津見神の女)・綿津見神(海神)
   ・仁徳天皇・菟道稚郎子(応神の第三皇子)・白菊明神
の7座を記しているが
  宇倍大明神・瀧祭神・河上大明神・高良大明神・仁徳天皇・菟道稚郎子・白菊明神
とする資料もあり一定していない。

 白菊明神とは見慣れぬ神だが、ネット資料によれば、御香宮御示現書(刊行時期不明)
  「山城国伏見郷石井の庄に、白菊の老翁という人あり。庭前に菊を植えて愛し、後園に椎樹を求めて崇めること久し。
 今、当社において白菊大明神として祀り奉る也。
 然るに、其の椎樹の下に香ばしき水、一夜に湧き出、郡内庄内に匂いわたれり。諸人怪しみ、此の水をなむるに甘露の如し
 椎樹の上に鳩の如き金色の鳥来たりて詔をさえずり、また三木左近将監親吉が娘に御託宣有り。
 託宣に云ふ、『明神の昔を申し奉れば、十五代の神功皇后にておはします。神亀元年に筑前国香椎宮に移り、その後百三十余年を経て、当所に迹を垂れ給うふ』と。
 此の由を諒闇に達し奉れば、天子此処まで御幸ありて神託をきこしめし給う」(一部省略あり)
との伝承があるといわれ、これからみると筑前・香椎宮から勧請された神功皇后を指すともとれるが、当社内に湧出した霊泉に関係した神ともとれる。
 なお、伏見区鷹匠町に金札宮との神社があり、そこでは、主祭神・白菊明神は天太玉命(忌部氏の祖)のことといわれ、当社にも金札宮との末社があり(北末社殿合祀・下記)、その祭神のこととも思われる。

※社殿等([ ]内は略記・栞からの転記)
 大手筋通りを跨ぐ形に朱塗りの鳥居が立ち、その先左手(北側)に雄大な表門が建ち、門を入ったすぐに石の鳥居が立つ。

 [鳥居  徳川頼宣が熊野石で造った鳥居が地震で倒壊したので、木鳥居に替えられ、その後、大手筋に移したのが現在の丹塗りの鳥居か゜それである。
 木鳥居を大手筋に移転した跡へ、紀州侯7代宗将が建立したのが、表門内参道の石鳥居である]

 [表門  伝伏見城大手門(国指定重要文化財)
  元和8年(1622)、水戸中納言頼房(水戸黄門の父)が拝領して当社に寄進した。 三間一戸 薬医門 本瓦葺 
  雄大な木割り、雄渾な蟇股、どっしりと落着いた構へは、伏見城城門たる面影を存している。
  注目すべきは、正面を飾る中国の二十四孝を彫った蟇股で、・・・]
とあるが、二十四孝といわれても知る人は少ないであろう。

 
御香宮神社・朱塗りの鳥居

同・表門 
 
同・参道に立つ石鳥居

 参道を進んで低い石段を上がった上が境内で、正面に横に長い割拝殿(中央に通路がある拝殿)が建つ。
 [拝殿  伏見城車寄の拝領と伝える(京都府指定有形文化財)
  寛永2年(1625)、紀伊大納言頼宣(初代紀州侯)が拝領して当社に寄進した。
  桁行七間 梁間三間 入母屋造 本瓦葺の割拝殿。
  正面軒唐破風は手の込んだ彫刻により埋められている。特に五三桐の蟇股などには、鯉の滝登り・鯉に跨がって瀧を登る仙人像などの像が彫られている]

 
同・社頭
 
同・拝殿
 
同・拝殿(側面)

 割拝殿中央の通路を通り直進した先が本殿域で、菱形に組まれた透塀に囲まれた中に本殿が鎮座し、本殿域正面中央に大屋根を有する弊殿の拝所がある。
 [本殿  慶長10年(1605)、徳川家康の命により京都所司代・板倉勝重を普請奉行として着手建立された。
  大型の五間社流造で屋根は桧皮葺、・・・全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし、桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和61年重要文化財として指定された。
  平成2年より着手された修理により、約390年ぶりに極彩色が復元された]
 本殿東西妻は美麗な絵画・彫刻で埋められているが、透塀が邪魔でよくみえない。

 
同・正面拝所
 
同・本殿大屋根

拝所・本殿の大屋根 
 
同・本殿西側妻

西側妻・拡大(栞より転写)
 
東側妻・拡大(同左)

◎末社
 本殿域の東西・北側に末社16社が鎮座する。
*本殿域東側  南より
  ・末社4社合祀殿(若宮八幡社 ・恵比須社 ・八坂社 ・住吉社) ・豊国社 ・大神宮
*本殿北側  
  ・末社6社合祀殿(春日社 ・天満社 ・新宮社 ・熊野社 ・那智社 ・金札社)
*本殿域西側  南より
  ・稲荷社 ・弁天社 ・松尾社 ・東照宮
 いずれも、祭神名・鎮座由緒など不明。

 
4社合祀殿(東側)
 
豊国社

大神宮 
 
6社合祀殿(北側)

稲荷社 
 
弁天社
(小池を隔てて鎮座する)
 
松尾社
 
東照宮

上記以外に、絵馬堂と末社4社合祀殿(東側)との間に「御香水」との水場があり、参詣の栞には
  [当社の名の由来となった清泉で、『石井の御香水』として、伏見の七名水の一つで、徳川頼宣・頼房・義直の各公は、この水を産湯として使われた。
  明治以降、涸れていたのを昭和57年復元、昭和60年1月、環境庁より京の名水の代表として『名水百選』に認定されました]
とある。
 京都・伏見は水が良いことから酒造りの地として知られているが、その代表的な泉といえよう。

 

御香水
(栞より転写)

 また、境内には能楽堂(西側)・絵馬堂(東側)があり、社務所の裏には“小堀遠州ゆかりの石庭”があるが拝見不能。
 当石庭について、参詣の栞には
  「今から350年ほど前、小堀遠州(1579--1647)が伏見奉行に命ぜられた時、奉行所内に作った庭園の石を戦後移して作ったものである。
 小堀遠江守政一が元和9年(1623)、伏見奉行に着任すると、庁舎の新築を命じられ、その時、風雅を凝らした雄大な庭園を築いた。
 寛永11年(1634)7月、上洛した三代将軍・家光公をここに迎えたとき、立派な庭園に感心して褒美として五千石が加増され、一躍大名に列した。伏見奉行所の庭園は、遠州にとって出世の糸口でもあった。(以下略)
とある。

*桃山天満宮
 表門を入ったすぐの右に「桃山天満宮」がある。
 案内表示なく、また御香宮参詣の栞等にも記載なく、鎮座由緒・時期・御香宮神社との関係は不明。
 御香宮参道に面した鳥居の奥に、拝殿・弊殿・本殿が西面して鎮座する。

 
桃山天満宮・鳥居

同・拝殿 

同・本殿(屋根のみ) 

 本殿の左(北側)に末社3宇が南面して並ぶ。左(西側)より
  ・厳島社
  ・老松社・白大夫社合祀殿
  ・社名不明社

 
厳島社

老松社・白大夫社合祀殿 
 
社名不明

トップページへ戻る