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白山神社
京都府京田辺市宮津白山41
祭神--事代主命・大国主命
                                                    2019.11.29参詣

 JR学研都市線・下狛駅の北西約800m、駅西の道路を北上し二つ目の信号を左(西)へ約500mほど入った北側に鎮座する。

※由緒
 社頭の案内(京田辺市教育委員会)には、
 「社伝によると、継体天皇が筒城宮(ツツキノミヤ)にいた頃、現在の西宮神社(西宮のえべっさん)から勧請されたという。そのため、かつては夷社・蛭子社(エビスシャ)といった。
 現在、本殿(祭神・事代主命)は末社(祭神・大国主命)とともに覆い屋の中にある。
 本殿(国指定重要文化財)は一間社流造・厚板葺で、向拝・蛙股や木鼻などに室町時代の建築様式がみられる。
 市内最古の神社建築である。石段耳石に永禄2年(1559)の銘があり、建築年代の参考になる。
 鳥居横にある花崗岩製の石灯籠は、永享5年(1433)の銘があり、重要美術品に認定されている。かつての神宮寺である法雲寺(今は廃寺)にあったものとされる」
とある。


 案内は、当社創建を“継体天皇が筒城宮にいた頃、西宮神社からの勧請”というが、
 ・継体天皇が筒城宮にいた頃とは、継体5年の葛葉宮から筒城宮への遷都から同12 年の乙訓宮へ遷都までの7年間で(書紀)、西暦では511--518年となる(もう少し後とする説もある)
 ・西宮神社の創建時期は不詳だが、神社名の初見が伊呂波字類抄(平安末期)にみえる広田神社(兵庫県・西宮市)の摂社・夷社であることから、その創建は平安時代かと思われ、それより数百年も前の継体朝に西宮神社は存在していないとみるのが順当であろう。
 ・また、西宮神社からの勧請であれば、その祭神は蛭児神であるはずなのに、今の祭神は事代主命となっており、由緒と祭神名とが混乱している(別稿・西宮神社参照)

 ・これらからみて、案内がいう継体朝創建説は疑問で、当社の北方に継体の筒城宮があったという伝承から(書紀には「5年冬10月都を山城の筒城に移した」とある)、当社創建を継体天皇に付託して作られたものであり、本来の当社は、社頭の鳥居に「大蛭児大神宮」とあることからみて、エビス信仰の流行に伴って何時の頃かに創建されたとみるべきであろう。

 因みに、同志社大学(西田辺キャンパス)(京田辺市多々羅都谷1-3、当社の北約2km)に筒城宮伝承地との一画がある(守衛にお願いすると入れてくれる)
 大学正門を入ってすぐ右手の低い丘の上に、向かって右から、自然石に「筒城宮趾」と刻した石碑・「継体天皇皇居古趾」との石柱・「大地主大神」・「不動大神」と刻した石碑2基・「■■古き都の跡とひて 筒城乃岡に鳴く杜鵑(ホトトギス)(■は読めない)と刻した歌碑が並び立ち、
 傍らの案内(京田辺市教育委員会)には
 「筒城宮伝承地
 越前から迎えられ楠葉宮で即位した継体天皇が、即位後5年から12年(511--18)弟国宮に移るまでの7年間宮が置かれた所である。 
 京田辺市郷土史会が、昭和36年(1961)筒城宮跡顕彰揚会を結成し、当時の明治神宮宮司・甘露寺受長氏の筆になる「筒城宮址」石碑を建てた。併せて当時の村田太平会長(1888--1976)の筒城宮を讃える歌碑も副碑として建っている。
 現在、ここの地名が「都谷」であることから、筒城宮の伝承地とされている。筒城宮跡の解明が待たれる」
とあり、その横に同志社大学が立てた「筒城宮址を顕揚する石碑とその変遷」との案内板がある。

 
筒城宮跡・位置図(●部)
 
筒城宮趾・石碑
 
同・全景(右に石碑がみえる)

継体皇居古趾・石柱 
 
大地主・不動大神の石碑

歌 碑 


※祭神
 上記案内によれば、
  主祭神--事代主命
  末社祭神--大国主命

 エビス信仰には
 ・蛭児神(ヒルコ)--兵庫の西宮神社を総本社とする系統
 ・事代主命(コトシロヌシ)--大阪の今宮戎神社を総本社とする系統(出雲の美保神社も総本社と主張)
の二つの系統がある。

 当社が、案内にいうように西宮神社からの勧請であれば、その祭神は蛭児神とするのが順当と思われるが、何故か事代主命を祭神としており、この点からも、当社由緒の信憑性は疑われる。
 ただ案内には、当社は嘗て夷社・蛭児社と称したとあり、また社頭に立つ鳥居の神額には「大蛭児大神宮」とあり、本来は蛭児神を祀る神社であったことを示唆している。

 当社は今「白山神社」と称しているが、白山神社といえば、加賀・越前を中心とする白山信仰(嘗ての白山修験道)における白山比咩大神(菊理媛神ともいう、修験道では十一面観音菩薩)を祭神とする神社で、全国各地に約3000社ほどあるといわれ(総本社は石川県白山市の白山比咩神社--別稿・白山比咩神社参照)、当社もその一社であろうが、エビス神を祀る当社が如何なる由縁で白山と名乗るのかは不明。
 (当地の地名は「宮津白山」というが、付近に宮津○○との地名が幾つもあることから、元は大字・宮津、字・白山だったと思われ、当社名はこの小字・白山からきたとも思われるが、逆に白山神社があるから白山との小字名が付けられたともとれ、白山神社の社名由来を地名に求めるには無理がある)

 末社祭神の大国主命は事代主命の父神であることから祀られたのであろう(古事記に、国譲りの諾否を迫られたとき「吾は得白(エモウ)さじ。我が子八重事代主神、これ白(モウ)すべし」と答えたとある)

 当社は、その社名にしろ由緒・祭神にしろ、もひとつ判然としないところの多い神社ではある。

※社殿等
 道路脇に白壁の建物(拝殿・社務所兼用か、無人)があり、背後の山裾に樹木に囲まれて社殿が鎮座する。

 
白山神社・社頭
 
同・境内(東より)
 
同・境内(西より)

 山裾に朱塗りの鳥居が立ち、すぐ奥の石段を上った上、白壁に囲まれた中に、横に長い四方吹き放ちの覆屋が建っているが、朱塗りの色も褪せ大部古くなっている。


白山神社・鳥居(神額には「大蛭児大神宮」とある) 
 
同・石段上の覆屋 

 覆屋の中に、朱塗りの一間社春日造・厚板葺の社殿が2社並んで鎮座している(重要文化財)
 向かって右が主祭神・事代主命、左が末社・大国主命とおもわれるが案内なく不明。


同・社殿2社 

同・社殿(右側) 

同・社殿(左側) 

◎境内
 石段下の左に古びた流造の祠が2基(社名等不明)並び、その左に、自然石に猿田彦命・金比羅大権現と線刻した石碑2基がある。

     
 社頭を右に少し回り込んだ山麓に石祠2基が並んで鎮座している。
 2基とも、中に白い御幣が立ててあるが、如何なる神を祀るのか詳細不明

 また、右側の石祠の中には家形埴輪を思わせるようなものが置かれているが、これが何なのかは不明。



 
 

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