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山城(乙訓郡)の式内社/羽束師坐高御産日神社
京都市伏見区羽束師志水町
祭神−−高皇産霊神・神皇産霊神
                                                        2011.09.19参詣

 延喜式神名帳に、『山城国乙訓郡 羽束師坐高御産日神社 大 月次新嘗』とある式内社で、乙訓国の筆頭に記されている。
社名は“ハツカシニマス タカミムスヒ”と訓み、古くは、波都賀志社・羽束社・羽束師社・羽束石社・羽束志宮などとも記されていた。

 JR東海道線(京都線)・長岡京駅の東北東約1km、住宅地のなかに鎮座する。駅北側の府道79号線(三条通)を東進、同123号線との交差点を越えたすぐ北側の路地奥に一の鳥居が立つ。

※由緒
 当社略記によれば、
 「当社は雄略天皇21年丁巳(477・推定)の御鎮座」
とあり、羽束師社旧記(1827・当社神主・古川為猛)には、
 ・雄略天皇21年創建
 ・欽明天皇28年(567)、桂川洪水に際し、当社の人民水中にありながら恙なし、よって天皇より封戸を賜る
 ・天智天皇4年(665)、中臣鎌足が勅を受けて再建
とあるという(式内社調査報告・1979)。これによれば5世紀末から6世紀にかけての創建となるが、確証はない。

 正史上での初見は、続日本紀(797)・文武天皇大宝元年(701)4月3日条の、
 「山背国葛野郡(カドノ)の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀志神などの神稲については、今後は、中臣氏に給付せよ」
との記事で、旧記にいう天智4年再建との伝承と併せみると、7世紀(701年以前)にはハツカシ神を祀る社として実在していたのは確かといえる。

 その後の経緯としては
 ・平城天皇・大同元年(806)−−羽束神・・・(封戸)四戸 山城(新抄格勅符)
 ・清和天皇・貞観元年(859)9月−−八日庚申山城国月読神・・・羽束志神・・・等(44社)に使を遣わして奉弊 風雨を祈る(三代実録)
などがあり、また
 ・延喜式・臨時祭条にいう“祈雨神祭”85座のなかに列しており、雨乞いに験のある神として崇敬されていたらしい。

 ただ、乙訓郡の筆頭に記される大社であるにもかかわらず、当社にかかわる記録は少なく、中近世の記録として当社の祭礼・羽束石祭にかかわって、
 ・久世・久我・古川羽束石祭 四月中の己日にて神輿2基あり、・・・上久世堤の東に御旅所あり(都鄙祭事記・大意)
 ・西岡羽束石祭には神事能が演ぜられ、銭百貫ほどの御賽銭が上がるなど、近郷近在からの参拝で賑わった(大乗院寺社雑事記・文明14年条・大意)
などがあるのみで、当社略記は、これを以て氏子圏の広さとその豊かさを物語る資料というが、今は、密集民家に囲まれた鎮守の森の中にひっそりと鎮座している。

 なお、当社社名にいう“羽束師”(ハツカシ、羽束・泊橿とも記す)とは、一義的には和名類聚抄(937)
 「山城国乙訓郡 羽束郷 訓(ヨミ)波豆賀之(ハツカシ)
とある古くからの地名で、旧都・長岡京の東部・桂川に幾つかの中小河川が合流する一帯に位置し、古く、豊かな農耕地・水上交通の要衝として栄えたという。

 当社にかかわる氏族について、当社略記には、
 「書紀・垂仁天皇39年冬10月条に、(垂仁天皇の皇子・五十瓊敷命-イニシキ-が茅渟の菟砥の河上宮で太刀一千口を造らせられた時)、“泊橿部(ハツカシベ)等併せて十種の品部(トモノミヤツコ)もてイニシキ命に賜う”と記されている。
 何れにしても、“ハツカシ”という名をもった人々の集団がこの地域に生活していたことがわかります。
 更に御所に食物を供給する、羽束師園(ソノ)も存在していた処であって、このことが神社の発展に繋がったと考えられます」
と記し、当社の祭祀に泊橿部(羽束部とも記す)が関係していたと推測している。
 (十種の品部とは、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴礒部・玉造部・神刑部・日置部・太刀佩部および泊橿部をいう)

 この前段にいう泊橿部の実態ははっきりしないが、新撰姓氏禄(815)
 ・摂津国皇別 羽束首(ハツカシノオビト) (孝昭天皇の皇子)天足彦国押人命(アマノタラシヒコクニオシヒト)男彦姥津命(ヒコハハツ)之後也
とある氏族かもしれない。
 また、羽束首氏と同じ天足彦国押人命の後継氏族として“丈部氏”(ハセツカベ、ハツカシベとする資料もある)との氏族があることから(左京皇別 丈部 国押人命の孫・意祁豆命(オケツ)の後)、泊橿氏・丈部両氏を同じ氏族とする説があり(丈部は泊橿部の当て字というが確証はない)、丈部氏が大王の護衛官・親衛隊的性格をもつことから、泊橿氏も武人的な氏族だったのではという。
 
 この武人・泊橿氏に対して、泊橿部(羽束師部)とはまとまった氏族ではなく、大王や豪族などに所属して特定の仕事に従事していた部民(ベミン・ベノタミ、律令制以前にあった部民制で、良民の下層に位置づけられていた人々)集団のひとつとの見方がある。
 ただ、この泊橿部がどのような仕事に従事していたかははっきりしない。一説によれば、律令制における品部・“泥部”(ヌリベ)と同じというが、これは、令集解(868年頃、養老令の私撰注釈書)職員令に、宮内省土工司(ドコウシ)に所属する泥部(20人いたらしい)について、
 「泥部者(ヌリベハ) 古言波都加此乃友造(フルク ハツカシノトモノミヤツコトイウ)
と注記することかららしい。
 土工司とは建築工事・特に建築資材(瓦・焼石灰等)の生産を所掌していたことから、そういう土に関連する仕事に従事した人々が泥部と呼ばれる集団であり、泥部が曾ての泊橿部と同じ集団とすれば、泊橿部も同じような仕事に従事していたと解される。

 このことからみて、垂仁記に“イニシキ命に泊橿部等の品部を賜った”というのは、その文脈からみて、泊橿部を部民としてイニシキ命に属せしめたことを意味し、当社略記の記述からみて、当地にいたハツカシ集団は部民としてのそれであった可能性が高いと思われる。

 その後、律令制成立に伴う部民制から品部制への移行、あるいは8世紀後半頃の品部制の衰頽などを経るなか、中臣氏の当地一帯への進出(鎌足による再興伝承、当社神稲の中臣氏授与などが、これを意味するか)によって当社も中臣氏にかかわる神社へと変貌し、祭神も自然神・ハツカシ神から宮廷祭祀の神・タカミムスヒ・カミムスヒへと移っていったと推察される。

 中・近世の状況は不詳だが、都鄙祭事記(中世ころというが発刊年代不明)との古書に
 「久世・久我・古川・羽束石祭4月中に巳日にて、神輿2基あり。往古は久世より下の村々は羽束石の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下がれば往還の東に羽束石社の御旅所と申す所あり」
とあり(式内社調査報告)、古くは桂川西岸一帯を氏子圏とする神社だったらしい。

※祭神
 今の祭神は、高御産日神(タカミムスヒ)・神御産日神(カミムスヒ)とあるが、続日本紀・大宝元年4月条に波津賀志神とある(上記)ように、本来の祭神はハツカシ神だったと思われる。

 ハツカシ神の出自・神格ははっきりしないが、当地が桂川・鴨川など何本かの河川の合流地点に立地することから、河道を安定させて氾濫を防ぎ且つ順調な水の供給を司る水神であるとともに、その水による穀物生産を司る農耕神・豊饒神であったと思われる。
 なお、当社祭祀氏族が武人・泊橿氏であったとすれば、ハツカシ神とは、姓氏禄にいう羽束首の祖神・天足彦国押人命あるいは男彦姥津命とも解されるが、その痕跡はみえず、部民・ハツカシ集団が奉斎した自然神とみるのが妥当であろう。

 このハツカシ神とタカミムスヒ・カミムスヒとのかかわりは不明だが、その手かがりとして、延喜式所載・内膳司(皇室の食事などを担当した役所)の項に、
  「園神祭 十四座 京北園二座・・・羽束志園三座」
との記述がある。
 これか何を意味するかは不詳だが、前後の文脈からみて、園神祭に際して羽束志園など14座から所定の供物(貢物)が献上されたことを指すとも推測され、それが当社略記が“御所に食物を供給する羽束志園が存在した”ことに連なると思われる。
 またタカミムスヒ・カミムスヒは、宮中で祀られている“御巫祭神八座”に坐す神(宮中八神)であり、両神とも宮廷祭祀にかかわる神であることから、宮中祭祀を媒体としてタカミムスヒ・カミムスヒが当地へ入ったのではないかという(上田正昭著作集4・1999)
 換言すれば、7世紀から8世紀の頃、当地に進出してきた中臣氏(宮中祭祀を司った氏族)が、同じ宮中に祀られる神という縁でタカミムスヒ・カミムスヒを持ちこんだとも考えられる。

 タカミムスヒ・カミムスヒとは造化三神中の2柱で、古事記には
 「天地初めて発(ヒラ)けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシ)、次にタカミムスヒ神、次にカミムスヒ神。この三柱の神(造化三神)は、みな独神(ヒトリカミ)と成りまして、身を隠したまひき」
とある。何もない混沌の中から最初に成り出た神で、ある意味では観念的な神ともいえる。別名としてタカミムスヒ=高木神(タカキノカミ)、カミムスヒ=神産日御祖神(カミムスヒノミオヤノカミ)・神魂神などがある。

 皇祖神(天皇家の祖神)といえばアマテラスというのが一般の理解だが、記紀神話を見るかぎりタカミムスヒにも皇祖神的神格がみえる。
 たとえば、国譲りから天孫降臨に至る一連の神話に、天孫降臨を命令した神(指令神)が記されているが、
 ・これをアマテラスとするのは、日本書紀・一書1のみで、
 ・古事記および書紀・一書2は、アマテラスとタカミムスヒ共同司令とし、
 ・書紀本文・一書4・一書6は、タカミムスヒ単独としている、
 また、天孫降臨に先立つ国譲り交渉のための使者派遣に際しても、アマテラスよりもタカミムスヒの活躍が顕著であり、皇統譜に於いても、アマテラスと並んで、タカミムスヒは皇孫・ホノニニギの母方の祖父神と位置づけられている。
 これは、タカミムスヒを最高神とする伝承が古く、そこにアマテラスが加わり、最終的にアマテラスを最高神・皇祖神とする伝承へと変化したことを示唆するという。

 一方のカミムスヒは、タカミムスヒと同時に成り出でた天つ神だが、古事記では、
 ・スサノヲに殺されたオオゲツヒメの身体に生じた五穀を取り集めて、民草が食する五穀の種とした
 ・オオクニヌシが兄神によって殺されたとき、キサカヒヒメ・ウムギヒメを遣わして治療させ蘇生させた、
 ・オオクニヌシとともに国造りをおこなったスクナヒコナの親神とされる(書紀ではタカミムスヒの御子)
など、どちらかといえば出雲系の神々との関係が深く、御祖神・御母神(ミオヤカミ)とも呼ばれるように女神とされる。

 これら記紀にいう天つ神としてのタカミムスヒ・カミムスヒに対して、両神に共通する“産日”(ムスヒ)に注目した見方があり、
 ムスヒ(産霊・産日・産巣日・産魂)の“ムス”が“物がおのずから生成する”ことを意味し、“ヒ”が“神霊”・“神秘的な力”を意味することから、本居宣長は「産霊とは凡て物を成長(ナ)すことの霊(クスビ)なる神霊を申すなり」という(古事記伝)
 換言すれば、天地・万物を産みだし育て成長させる(ムス)霊的な力(ヒ)を持つ根源的な神が“ムスヒの神”で、この神格から穀霊・農耕神的神格を持つともいう。

 当社の祭神タカミムスヒ・カミムスヒは、記紀にいう最高神としてのタカミムスヒ・カミムスヒではなく、穀神・農耕神すなわちムスヒの神としてのそれと思われ、それは、本来のハツカシ神がもっていた神格を引き継いているといえる。

※社殿等
 路地入口に立つ一の鳥居をくぐり、民家に挟まれた参道の奥に二の鳥居があり境内に入る。
 境内に入ってすぐに割拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥に本殿(神明造・銅板葺)が建つ。いずれも嘉永6年(1853)再建という。

羽束師坐高産日神社/一の鳥居
羽束師社・一の鳥居
羽束師坐高産日神社/拝殿
同・拝殿
羽束師坐高産日神社/本殿
同・本殿

◎末社
 社殿の左右に末社殿2棟がある。
 ・東末社殿−−天照皇大神・八幡大神・春日明神・大神明神(オオミワ)・籠守勝手明神
 ・西末社殿−−若王子社・愛宕社・厳島社・稲荷社・西宮社・貴布祢社
 神社略記によれば、
 「これら11社は、大同3年(808)12月、朝廷の祭儀を掌する斎部広成(インベヒロナリ)が平城天皇の御奏聞を得て勧請造営された」
とあり、相当古くから祀られているようだが、その詳細は不詳。

 本殿背後の壁に接して小さな祠がある。社名・祭神名・鎮座由緒など不明だが、本殿背後からの邪霊侵入を遮る“後戸(ウシロト)の神”或いは“塞(サエ)の神”と呼ばれる神とも思われるが、こういう形での祭祀は珍しい(仏教寺院で、本殿のうしろに見ることがある)
 また、手水槽近くに小祠2社があるが、社名・祭神名など不明。

羽束師坐高産日神社/東末社殿
東末社殿
羽束師坐高産日神社/西末社殿
西末社殿
羽束師神社/本殿背後の小祠
本殿背後の小祠

※北向見返天満宮
 一の鳥居前を東へ少し入った処に鎮座する境内社。
 鳥居前の道路角に「北向見返天満宮」と刻した石柱が立ち、側面に「菅公筑紫御左遷之時 御詠進之旧蹟」とある。

 神社略記によれば、
 「右大臣菅原道真公が延喜元年(901)2月九州太宰府に左遷され給うた時、羽束師神社に御参詣になり、『君臣、縁の切れしを再び結び給へ』と祈願された後、『捨てられて 思ふおもいのしげるをや 身をはつ゜かしの森といふらん』の歌に托して下向になりました。道真公ゆかりの旧地に、天歴9年(955)2月郷人(サトビト)等神殿を造営し、公の徳を偲び奉ったのが創建です」
とある。

 太宰府左遷途上にあった道真の当社参詣の真偽は不明だが、その創建が略記のいう天歴9年とすれば、それは冤罪によって流され太宰府の地で憤死した道真の霊(御霊・ゴリョウ)を慰撫するために創建された北野天満宮創祀(天歴元年・547)の9年後にあたり、その頃の道真の本姿は禍をもたらす畏るべき御霊神であり、創建年次からみて、当社の道真も御霊神だった蓋然性が高い(北野天満宮創建とほぼ同時に“天神祭祀令”なるものが出されたという)
 これらからみて、上記由緒は、道真が学問の神へと変身した後(室町・江戸期以降)の創作とも解される。

 境内入り口に小ぶりの鳥居が立ち、微高地上の簡単な覆屋の中に、一間社流造の小祠が鎮座する。

北向見返天満宮/鳥居
北向見返天満宮・鳥居
北向見返天満宮/社殿
同・社殿
北向見返天満宮/小祠
同・小祠

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