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山城(宇治郡)の式内社/日向神社
現社名−−日向大神宮
京都市山科区日ノ岡一切経谷町
祭神−−内宮−天照大御神・宗像三女神
                   外宮−天津彦火瓊瓊杵尊・天之御中主神
                                                         2011.12.20参詣 

 延喜式神名帳にある『山城国宇治郡 日向神社』に比定されている神社で、社名は“ヒムカヒ”と訓む。現在の社名は日向大神宮(ヒムカイ ダイジングウ)、“京の伊勢”とも称している。
 明治維新までは日向宮・日向神社・粟田口神明宮・日岡神明宮・恵比須谷神明宮とも呼ばれたという。

 京都市営地下鉄東西線・蹴上駅の北東約500m、日御山(神明山・H=218m)の山腹にある。
 当地は、古く、京・山科から逢坂山を越えて近江・東海・北陸を結ぶ街道筋(粟田口)に当たり、蹴上駅1番出口から府道143号線(三条通)を左(南)へ、少し進んだ左側に一の鳥居が立つ。

※由緒
 当社の創建由緒・時期について、式内社調査報告(1979)は、
 「創祀並びにその後の沿革を徴すべき史料を全く欠き、中世以前のことは一切不詳」
という。

 しかし、当社略記には、
 「当神宮は、顕宗天皇の御代(485--87)に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられている。
 天智天皇(661--71)は圭田(神田)を寄進され、鎮座の山を日御山(ヒノミヤマ)と名づけ給い、清和天皇(858--76)は日向宮の勅額を賜い、醍醐天皇は延喜の制で官弊社に列せしめられた。・・・
 応仁の乱(1467--77)の兵火で社殿並びに古記録は焼失したが、松阪村の農・松井籐左衛門によって仮宮が造営され、(それが叡慮に達し)禁中より修理料を賜り社殿が再興された。・・・」(大意)
とあり、
 また、社頭に掲げる京都市掲示の案内には、
 「清和天皇が勅願によって天照大神を粟田口に勧請したことに始まり、その後応仁の乱で燒亡したが、寛永年間(1624--44)に伊勢の人・野呂左衛門尉宗光が再興したと伝える」
とある。

 略記にいう顕宗天皇の御代(5世紀後半)といえば古墳時代・中期にあたるが、その当時、古事記・日本書紀は未だ編纂されておらず、所謂・日向神話が成立していたとは思われず、日向・高千穂の神蹟を勧請したというのは疑問。勧請時期は後世のことであろう。
 また、日向からの勧請であれば、当社主祭神は日向神話の主神であるホノニニギと思われるのに、伊勢のアマテラスが主祭神として内宮に祀られているのもおかしいことで、日向・高千穂の神蹟を勧請したというのは、社名・日向をうけて作られた伝承かもしれない。
 その意味では、京都市がいう清和天皇勅願による創建というのが受け入れやすい。ただ、清和朝創建とすれば、略記がいう天智天皇云々とは年代的に食い違う。

 当社再建後の経緯について、略記によれば
 ・後奈良天皇(1526--57)−−日向宮の勅額下賜
 ・後陽成天皇(1586--1611・室町末期)−−内宮・外宮の御宸筆を下賜
 ・徳川家康−−神領加増・社殿改築(慶長年間・1596--1615)
 ・後水尾天皇・中宮東福門院(1620--78・江戸前期)−−修理料・御神宝下賜
 ・後桃園天皇(1770--79・江戸中期)−−毎年紋付き・提灯を下賜
 ・寛政4年(1792・江戸後期)−−女院御所より御初穂・翆簾下賜、内侍所より翆簾寄付
 ・文化6年(1809)・同7年−−内宮・外宮の遷座に際し、光格天皇より神宝下賜
とあり、これらからみると、室町末期以降江戸時代にかけての当社は、それ相応の結構をもつ神社で、朝野からの崇敬も篤かったと思われる。

 しかし、式内社調査報告によれば、山城名跡志(1711)との古資料に、
 ・今亡、其の地村の北に在り田と為る。浅井有り、水は増減なく清潔。是即ち所在地也
とあり、江戸初期には社殿等は失われ、わずかに古井戸が残っているだけだったという。
 また
 ・山城志(1734・江戸中期)−−西山村に在り、岩屋明神と称す。
 ・山城名跡巡行志(1754・江戸中期)−−西山の麓に在り。今一の宮、また岩屋大明神と称す。
との古資料もあり、江戸中期の頃には西山村(比定地不明、現在地の近傍らしい)にあって、岩屋明神と称していたともいう。

 その後、江戸後期の資料・京都府式内考証(1876)には、
 ・日岡村神明社に別祠あり、之を日向神社と称す。社蔵する清和天皇宸筆の額に日向宮と書してあるのをみれば、旧址廃亡の後今の地に移せるならん。旧址は当村日岡崎の艮(北東)、道路の東平林の内にありと云うに従う。
とあり、又、江戸後期初の拾遺都名所図会(1787)に、“大日山 神明宮”として山腹に社殿等が描かれていることから、江戸後期に現在地にあったのは確からしい。

 当社略記とこれら古資料との間の整合性に欠け、創建由緒を含めて、江戸中期以前の当社の実態ははっきりしない。

※祭神
 今の祭神は、内宮にアマテラス以下4座、外宮にホノニニギ以下2座となっているが、延喜式にいう祭神は1座であり、由緒にあるように、日向・高千穂の神蹟を勧請したのであれば、当初の祭神はホノニニギであったとも考えられる。
 なお、延喜式神名帳頭注(1503)には「饒速日命を祭る」とあるが、これは何かの誤解であろう。
 
 応仁の乱で焼失した当社を再興したのが伊勢の人(但し名前は違う)というから、再興時点で内宮・外宮の二社構成とし、アマテラスを主祭神として勧請したのかもしれない。

 なお、併祭神である内宮の宗像三女神(タギリヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメ)および外宮のアメノミナカヌシの勧請由緒・時期は不明。

※社殿等
 三条通から一の鳥居をくぐり疎水を渡り石畳みの参道を進むと三叉路に二の鳥居が立ち、参道は地道へと替わる(右側の地道に進むこと、左の石段は墓地への道)
 緩やかな坂路となった参道突きあたりの左に、境内入り口の三の鳥居が立ち、南北にやや細長い境内に入る。周囲には山腹が迫っている。

 境内右寄りに拝殿(入母屋造・瓦葺、舞殿兼用)、その先、右手の四脚門から続く板塀に囲まれた中に外宮が、その奥、池に架かった小橋を渡り一段高くなった処に拝所(切妻造・檜皮葺)が、その奥・四脚門と板塀で区切られたなかに、内宮が建つ。

 社殿形式は、伊勢神宮を模した神明造で屋根は萱葺
 ・内宮本殿−−桁行-正面一間・背面二間・梁行二間、
           屋根に内削ぎの千木と堅魚木(カツオギ)8本をもつ
 ・外宮本殿−−内宮と略同じ規模・形式だが、屋根の千木が外削ぎ、堅魚木7本と異なる。
          外宮には拝所はなく、四脚門から直接本殿を拝することになる。

 両本殿の造営年代は不詳だが、拾遺都名所図会(1878)に内宮・外宮等の社殿が描かれていることから、18世紀末には現在とほぼ同じような社殿構成だったといえる。 

日向大神宮/境内略図
日向大神宮・境内略図
(略記から転写)
日向大神宮/拾遺都名所図会
拾遺都名所図会
(大日山 神明宮−部分)
日向大神宮/一の鳥居
日向大神宮・一の鳥居
日向大神宮/三の鳥居
同・三の鳥居(境内正面)
日向大神宮/拝殿
同・拝殿
日向大神宮/外宮四脚門
日向大神宮・外宮四脚門
日向大神宮/外宮本殿
同・外宮本殿
日向大神宮/内宮拝所
同・内宮拝所
日向大神宮/内宮本殿
同・内宮本殿

◎境内社
 境内を巡る山腹の高低を利用して境内社・数社が、三の鳥居の右手にも数社が点在し、山道を進んだ先の山中に伊勢神宮遙拝所がある(不参詣)
*本殿裏西側
 ・上ノ別宮−荒祭宮(祭神不明・アマテラスの荒御魂か)
*境内東側山麓(北側から)−−ほとんどが2・3社の合祀殿となっている
 ・朝日泉−御井神社(祭神:ミズハノメ)
   貞観年間に疫病が流行したとき、「この宮地に湧き出る清水を汲んで万民に与えよ」との神託があり、そのようにしたところ疫病が治まったという。
 ・恵美須神社(コトシロヌシ)・天鈿女神社(アメノウズメ)
 ・猿田彦神社(サルタヒコ)・花祭神社(コノハナサクヤヒメ)
 ・別宮−福土神社(オオクニヌシ)
 ・下ノ別宮−多賀神社(イザナギ・イザナミ)・春日神社(アメノコヤネ)・五行神社(陰陽道・木火土金水の神)
   この先に菅原道真の胞衣を納めたと称する塚、および天龍・地龍の塚がある
 ・朝日天満宮(菅原道真)
*境内西側−−内宮鳥居左手の山道を進んだ先(入口に影向石あり)
 ・天岩戸−−岩戸内に戸隠神社(アメノタジカラオ)
*三の鳥居の外東側
 ・神田稲荷神社(ウカノミタマ・ウケモチ)
 ・厳島神社(イチキシマヒメ)

日向大神宮/恵美須社
恵美須社
日向大神宮/猿田彦神社
猿田彦社
日向大神宮/福土神社・本殿
福土神社・本殿
日向大神宮/多賀神社
多賀社
日向大神宮/天岩戸・全景
天岩戸・全景
日向大神宮/戸隠社
天岩戸内・戸隠社
日向大神宮/神田稲荷社・本殿
神田稲荷神社・本殿
日向大神宮/厳島神社
厳島神社

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