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山城(葛野郡)の式内社/平野神社
京都市北区平野宮本町
祭神--今来皇大神・久度大神・古開大神・比売大神
                                                                 2014.05.27参詣参詣

 延喜式神名帳に、『山城国葛野郡 平野祭神四座 並名神大 月次新嘗』とある式内社。今、平野神社と称する。

 嵐電北野線の終点・北野白梅町駅の北約500m、駅前の西大路通を北上した右側(東側)に鎮座する。北野天満宮の北に位置する。

※由緒
 社務所で頂いた「平野神社御由緒」(以下、御由緒という)には、
  「奈良時代末期の延暦元年(782)、続日本紀に『田村後宮の今木大神に従四位を授ける』とあり、平城京の宮中[桓武天皇の父。光仁天皇-781--806-の御所]に祀られていました。
 ここ平野の地には延暦13年(794)平安遷都と同時に御遷座されました」
と簡単に記してある。

 諸資料によれば、当社は高野新笠(タカノニイカサ・桓武天皇の生母・旧姓:和新笠-ヤマトニイカサ・720?--789)が、平城京の田村後宮に祀っていた今木神(イマキノカミ)と、大和国平郡郡久度村(現奈良県葛城郡王子町付近、式内・久度神社あり)に祀られていた久度神(クド)・古開神(フルアキ)を、平安京遷都の延暦13年・当地に勧請・遷座し平野神社と称したという。
 当社社家の旧記によれば、平安京に先立つ都であった長岡京(784--794)に今木・久度・古開神の三座を遷座し(延暦4年・785)、そこから当地に遷したともいう。
 平城京の田村後宮から直接当地に遷ったのか、長岡京を経由したのかは不詳だが、桓武天皇による“平安遷都と時を同じくして当地に祀られたとみるのが妥当であろう”という(日本の神々5・2000)

 ただ、官弊大社平野神社明細図書(明治15-1882)には、
 「往古鎮座の旧跡同村衣笠山の東麓にありて、先年まで同地の字に鳥居趾東門趾等の名遺れる由云伝えり。而して本社を今の地に遷せる年月未詳」
とあるという(式内社調査報告・1979)
 衣笠山東麓といえば当社の西を走る西大路通の西側一帯となるが(おおきくとれば、当社付近も含まれる)、他に傍証なく、その真偽は不明。

 今木神が祀られていた田村後宮について、御由緒には[桓武天皇の父・光仁天皇の御殿]と注記しているが、平城宮左京四条二坊(現奈良市四条大路)辺りにあった“田村旧宮”(藤原仲麻呂の私邸・“田村第”の跡で、仲麻呂没落後は官有となったという)とする説が有力という。
 田村旧宮について、続日本紀の光仁天皇・宝亀6年(775)および同8年条に、「田村の旧宮で酒宴を催し、地位に応じて禄を賜った」とあり、光仁天皇が酒宴等に使用したことは確かで、また、光仁2代前の淳仁天皇が大炊王時代に当邸に住んでいたとある(続日本紀・天平法宇2年-758)ことから、即位以前(白壁王時代)の光仁が私邸として使用していたのであろう。
 その私邸的色彩の強い田村後宮で、光仁の妃であった高野新笠が奉祀していたのが当社の前身という。

 当社の祭祀にかかわった高野新笠の出自は百済系渡来人・和氏(ヤマト、正式には和史氏-ヤマトノフヒト)といわれ、続日本紀・延暦9年(790)正月15日条に記す新笠の崩伝には
 「皇太后(高野新笠)の姓は和氏、諱(イナミ)は新笠。贈正一位・和乙継(ヤマトノオトツグ)の娘で、母は贈正一位大枝朝臣真妹(マイモ、真姝とする史料もある)
  后の祖先は百済の武寧王(ブネイオウ・在位501--23)の子・純陀太子(ジュンダ)から出ている。・・・
  即位前の天宗高紹天皇(光仁)に嫁ぎ、今上(聖武)・早良親王・能登内親王を産まれた。
  宝亀年中(770--80)に氏姓を高野朝臣に改め、今上天皇即位後・皇太夫人と尊称され、延暦9年(790)溯って皇大后の尊号を追称された。
  百済の遠祖・都慕王(ツモ)は、河伯(河の神)の娘が太陽の精に感応して生まれた。皇太后はその末裔である。因って天高知日之姫尊(アメノタカシルヒノコヒメ)との諡を奉った」(大意)
とあり、新撰姓氏禄(815)にも
 「左京諸蕃(百済) 和朝臣 百済国都慕王(ツモ・百済王の伝説的な始祖)十八世孫武寧王より出ず也」
とある(続日本紀・延暦2年-783に「和史国守等に朝臣の姓を賜る」とある)

 この系譜(和氏譜)は、和気清麻呂が中宮・和新笠の教えを受けて編纂したといわれ(民部卿時代-786-か)、日本後記(841)延暦18年2月21日条に
 「(和気清麻呂が)中宮高野(和)新笠の命を受けて“和氏譜”を撰修して天皇のもとに提出し、称賛された」
とあり、ここで天皇が賞賛したというのは、母の出自が渡来系ということに引け目を感じていた桓武が、百済王家の出身ということを見て喜んだということであろう。
 奈良末から平安初期は諸氏族の系譜整備が活発におこなわれた時代といわれ、和氏も、この和氏譜の作成によって百済王の後裔という系譜を確立したのであろうという。

 この和氏譜の内容は不明だが、ネット資料(姓氏類別大観)によれば“純陀太子8代の孫”が高野新笠という。
 ただ、武寧王の太子・純陀は書紀にのみみえる名で、朝鮮半島での武寧王系譜にそれらしき名がみえないことから、その実在は疑問視されているが、武烈紀7年条に
  「夏四月、百済国が国王の一族である斯我君(シガノキミ)を遣わして調をたてまつった。・・・その後、子が生まれて法師君(ホウシノキミ)という。これが倭君(ヤマトノキミ)の先祖である」(大意)
とあり、上記・姓氏類別大観は、来朝した斯我君を純陀太子とし、その子・法師君の孫・宇奈羅が和氏と改姓したとして倭氏・和氏をつないでいる。
 しかし、倭氏と和氏とは同じヤマト氏と称するものの、倭氏の姓(カバネ)は君(キミ-主として地方豪族に与えられた姓)であり和氏のそれは君より数段下の史(フヒト-渡来系氏族で文筆を以て仕えた氏族に与えられた姓)であって姓の格が異なっていることから、倭君氏と和史氏とを同族とする系譜には疑問が持たれている(上位の姓から下位の姓に移ったのは疑問という)

 このように、和氏の出自が百済の王族かどうか疑問ではあるが、和氏は、今来漢人(イマキノアヤビト)と総称される渡来系氏族(百済系とされる)で、今来漢人とは、古くからの渡来人に対して“新たににやってきた人”(5世紀末から6世紀頃)即ち“新来・今来の人”を指し、これら今来漢人たちは大和国今来郡(高市郡の旧称・現奈良県高鳥町付近)・平群郡(現北葛城郡王寺町付近)などに居住していたといわれ、そのなかでの有力な一族が和氏ではなかったかと思われる。
 その和氏のなかから光仁天皇の后・和新笠が出、新笠が生んだ皇子が即位したことで、下級官僚であった和氏一族が脚光を浴び、高野朝臣という高位の氏姓が与えられ、加えて新笠が奉齋していた今木神も新たな社に祀られるようになったのであろう。

 当社に対する神階綬叙記録は、いずれも桓武天皇即位(781)後のことで、当社各神に対する授叙の初見は
 ・延暦元年(782)11月--田村後宮の今木大神を従四位下に叙す(続日本紀・桓武朝)--今木神の初見
 ・延暦2年(783)12月--大和国平群郡の久度神に従五位下を叙し官社とす(同上)--久度神の初見
   (この2件は、平野神社創建-794-以前の旧鎮座地での授叙)
 ・承和3年(836)11月--古開神:無位→従五位上(続日本後紀・仁明朝)--古開神の初見
 ・嘉祥元年(848)7月--比売神:無位→従五位上(同上)--比売神の初見
で、その後順調に昇階し、最後には
 ・貞観5年(863)5月--久度神古開神:正三位、比売神:従四位上(三代実録・清和朝)
 ・貞観6年(864)7月--今木神:正一位(同上)
にまで昇っている。

◎平野祭
 当社独自の祭祀として平野祭と称する官祭があった(今、4月2日におこなわれる例大祭が平野祭の流れを引くものという)
 延喜式・四時祭上に
  「平野祭 四月十一月上申 参議以上赴集 或皇太子親進奉幣
          桓武天皇後王[改姓為臣も亦同じ] 及び大江・和等の氏人、並見参に預かる」
とあり、御由緒にも
  「延喜式によれば、全国唯一の皇太子御親祭が定められた神社」
とあり、御由緒が記す参列者の座席図では、本殿正面のに向かって左に皇太子の座が、右に女王座が設けられ、皇太子座左後方の諸王や主要官人等の座に大江・和氏の名が見える。

 これによれば、平野祭は皇太子を祭主とし、桓武天皇系の親王・臣籍降下した王等や参議以上の公卿らに加えて 、大江氏・和氏の氏人も末席に列席するという特殊な形態の祭だったという(天皇の臨席はない)
 なお大江氏とは、野見宿祢を遠祖とする土師氏の一族(毛受腹)が、高野新笠の出身氏族(母方)ということから大枝朝臣の氏姓を与えられ(続日本紀・延暦9年-790-12月1日条)、その後、子孫が大江への改姓を願い出て許されている(三代実録・貞観8年-866-6月15日条)

 当社の祭祀に和氏・大江氏が列席するのはその創建由緒からみて当然とはいえるが、平野祭祝詞等にみるかぎり、そこで祈願されているのは天皇の御代の弥栄であり、その為に列席者をして誠意を尽くして仕えさせてほしいという願いであって、列席者そのもの(和・大江氏)の保護は祈願されておらず、その点、当社が最初から和・大江両氏の祖神を祀る神社という性格を持っていたかどうかははっきりしない。

 当社の性格について、資料・平野神社の成立と変質(日本古代の氏の構造1986所収)
 ・今木神は和氏が渡来以来奉じてきた神で、久度・古開神は朝鮮系のカマド神であり、いずれも桓武天皇の母である高野新笠との縁によって延喜年中に当社に祀られた
 ・本来の当社は皇太子親弊を定めとし、朝廷の繁栄を祈願する皇室守護の神社として成立したもので、その背後には、当社を伊勢神宮に準ずるものにしたいという意図が窺われる
 ・それが、(創建後半世紀近く経った)承和以降、梅宮社の成立と軌を一にして外戚神化の様相を帯びるに至り、延喜式で大江・和両氏の列席規程が付け加えられたと思われる
として、本来の当社は皇室守護のための神社であったが、時代が降るにつれ外戚神化したのだろうという。
 これの当否を判断するのは難しいが、当社について管見した中での一見解であるとはいえよう。

※祭神
 当社祭神は、上記のように今木皇大神(イマキ)・久度大神(クド)・古開大神(フルアキ)・比売大神(ヒメ)の4座となっているが、延喜式・四時祭上には、
 「平野神四座祭(4月・11月の上申の日に催行) 今来神・久度神・古關神(關は関の古字)・相殿比売神」
とあり、古開神を古(フルセキ・古神とする史料もある)としている。

 延喜祝詞式によれば、平野祭において奏上される祝詞には
  『今木より仕へ奉り来る皇大御神』(今木の里に鎮まり坐しました当時からお仕え申し上げて来ております皇大御神)
として、今木神に対してアマテラス大神並みの尊称を捧げ(皇大御神と尊称されるのは伊勢のアマテラスと当社の今木神のみという)、その後に続く久度・古開両神に対する祝詞には
  『久度古開二所の宮として仕へ奉り来る皇御神』(久度古開の2社でお仕え申し上げております皇御神)
として一格下の神としていることから、平野社の主祭神は今木神であって、これに久度・古開神を併せ祀ったことを示すもので、これらを総称して平野神と称したという(平野神は今木神のみを指すとの説もある)

◎今木皇大神(イマキノスメオオカミ・今木神)
  上記のように、高野新笠が田村後宮で祀っていた神とされるが、由緒に述べるように、元々は百済系渡来人・和氏が故国から持ち込んだ新来の神とおもわれ、その神格は不明。

 今木との神名について、蕃神考には
  「今木神と称する由は、今木は大和の地名にして、欽明紀に倭国今来郷と見え・・・其の戎人(カラヒト)の帰化(マイキタ)れるを安置(オカ)れたるにて、今来の義なるべし。
 さて今木神は、和氏の祖の百済より帰化れるはじめ、其今木に住みて、祠を建てその遠つ祖神を祀り、やがて今木の神と称ひて世々崇め来りけむを・・・」
とあり、これをうけて、神名は地名によるという説が一般に流布している。
 しかし、今木との地名が、新たにやってきた渡来人が住んだことからの呼称とすれば、神名も新来の人によって祀られたから今来・今木の神と呼ばれたのであって、地名からの呼称ではないとみるのが妥当であろう。

 今木神は百済系渡来人、特に百済王家に連なる和氏によって奉祀された神であることから、これを百済王家に求めると、和氏の始祖とされる純陀王子あるいはその父・武寧王などが推察されるが、特定できる史料はなく、御由緒にも今木神の神格についての説明はない(御由緒に「源気新生・活力生成の神」とあるが、これがどこからくるのか不詳)。百済系渡来人達が漠然と民族(氏族)の祖神として奉祀してきた神であろう。

 なお、今木神は百済・聖明王(14代・在位523--54、明王ともいう)とする資料が散見されるが、これは、蕃神考に
  「継体紀18年春正月、百済太子明即位とあるは、武寧王が子にして、いはゆる純陀太子にあたれり。・・・明王を聖明王とも、紀中にしるせり」
として、同じ武寧王の子ということから、純陀王子を百済・聖明王とみていることによるらしい。

 しかし、純陀王子を聖明王とする確たる史料がないこと、継体紀7年(513)8月26日条に「百済の太子淳陀薨去」とあり、この淳陀が純陀太子を指すのであれば、純陀王子は聖明王即位前に死んていたことになり蕃神考の説と整合せず、今木神=聖明王とするには無理があり、御由緒も、
  「江戸期に、国学者の伴信友が著作・蕃神考で、『今木神は百済王なり』との説を、根拠となる史料を改竄して称えました。今でもこの説を敷衍した説が時々出されますが、学問上では否定されています」
という。

◎久度大神(クドノオオカミ・久度神)
  由緒には「竈の神、衣食住の生活安泰の神」とあるが、久度神=竈の神とすることに異論はみえない。

 カマドとクドとの関係について、和名抄(937)
  「竈和名加万炊爨処也・・・窖和名久度竈後穿也」(竈 和名・加万-カマ 炊飯の処なり・・・窖 和名・久度-クド 竈の後の穴なり)
とあるように、カマドとクドとは別のもので、クドはカマドの後に付いている煙出し口を指すとあり(ただ、俗にカマドを俗に“おクドさん”というように、クドとカマドは一体化している)、そこから、
  「久度神とは、この煙出し部分を神格化したもので、わが国在来の竈神とはやや別種の新来の朝鮮系のカマド神として信仰されたもの」
という(平野社の成立と変質・1986)

 当社の久度神(竈神)は奈良・王寺町の久度神社からの勧請とされるが、竈神は宮中にも祀られていたようで、当社由緒は
  「延喜式の内膳司式によれば、天皇の食を饗する御竈には“平野・庭火・忌火(イミビ)”の三竈があり、庭火御竈は平時の食膳、忌火御竈は祭事の食膳を饗し、平野御竈は健康・吉祥を司る御竈であるとされています」
という。

 しかし、延喜式に平野御竈神とあるのは、
 ・大蔵省・宮内省の条に
  「凡御井并中宮御贖 及祭忌火、庭火、御竈神、平野御竈神料雑物・・・」
 ・陰陽寮条に「庭火并平野御竈神祭(坐内膳司)
のみであり、他には「忌火・庭火神(祭)」とはあるものの平野の名はみえず、肝心の内膳司条には竈神についての記述はない。

 ただ、陰陽寮条に「庭火并平野御竈神祭[坐内膳司]」とあること、資料・延喜式上(2000・虎尾都俊哉編)の注記に
 ・忌火・庭火--神饌を炊くための浄い火(忌火)と、天皇斎王などの尋常の御飯を炊くための火(庭火)を燃やす竈を守護する神で、宮中では内膳司に祀られている
 ・忌火・庭火祭--神今食(ジンコジキ)及び新嘗祭の大殿祭終了後、宮主が内膳司に参向しておこなう祭祀
とあることからみて、これらの竈神が内膳司に祀れていたのは確からしい
 (内膳司とは天皇の日常の食事を司る役所で、竈殿(釜殿)と称する建物があったといわれ、そこに祀られていたのかもしれない)


 ただ、この忌火・庭火・平野の竈神のうち、宮中に古くから祀られていたのは忌火・庭火の竈神で、平野のそれは、平野神社への久度神勧請に伴って追加されたもので、従前の竈神とは神格が異なっていた(渡来系竈神)とも思われる。

 王寺の久度神が当社に勧請された理由について、日本の神々5(1986)
  「中国北部から朝鮮半島にかけて信仰されていた竈王神の流れをくむとされる久度神も、今木神と同様に百済系集団によって信仰されていた蕃神(渡来神)の一つであろう。
 現在の奈良県王寺町一帯は百済系集団が居住していたところで、・・・百済系とされる和氏も久度神を信仰していたものと思われる」
という。
 
 ここでいう竈王神とは道教の神で、中国では、家の中にあって家人の行為の善悪を常に監視し、暮れになると天上に帰って天帝に報告し、それをうけて天帝は賞罰を降すと信じられ、その時、より良い報告をしてもらうために、暮れの23日(竈王節)には供物を捧げて竈神を祀ったという。
 百済系渡来人が信仰する竈神が是かどうかは不詳だが、中国のそれを引いたもので、人の運命を左右する神として信仰されたと思われる。

 これに対して、わが国では、竈神は素戔鳴の子・大年神の子である奥津比古(オキツヒコ)・奥津比売とされ、時には火の神・迦具土(カグツチ)を加えた3神ともされる。
 また民俗学では、竈が家の中の公的空間である座敷に対して私的空間である裏側の薄暗い所にあり、そこは此の世と異界との境界であって様々な精霊的な神々が往来するとされ、それらの中心的な神である竈神は、此の世と異界とを仲介することによって家人の生死・運命あるいは家の盛衰を司るとされる。

◎古開大神(フルアキノオオカミ・フルサキともいう、古開神、古関神とする資料もある)
  由緒には「邪気を振り開(晴)く平安の神」とあるが、この神の出自・神格は不詳で、この神格がどこから生じたのか不明。
 ただ、常に久度・古開と並んで呼ばれていることから(延喜式祝詞にも「久度古開」とある)、王寺の久度神社に久度神とともに祀られていたと考えられるが、祝詞に「久度古開二所」とあることから、2社が近接してあったのかもしれない。
 いずれにしろ、久度神同様、渡来系集団の民間信仰にもとづく神で、和氏とのゆかりから平野神社に合祀されたのであろう、という(日本の神々5)

◎比売大神(ヒメノオオカミ・比売神)
  由緒には、「生産力の神」とあるが、この神格の出所も不明。
 この神は、嘉祥元年(848・平安前期)7月、今木・久度・古開神の昇叙に合わせて「無位合殿比咩神従五位下」とあるのが初見で(続日本後紀)、それ以前(承和3年-836)の記録には見えない。
 ただ、続日本後紀・承和10年(843)10月17日条に、
  「梅宮に坐す従四位酒解子神一前、平野社一前、名神に預かる」
とあり、この平野社一前が比咩神で、この頃(836--843の間)に平野神社に合祀されたのではないかという。

 通常、比売神といえば主神の妃神を指すことが多く、当社の比売神も主神・今木神の妃を指すかと思われるが、当社の桓武天皇外戚神としての位置づけの進行、同時に名神大社に列した梅宮社・酒解子神との関係などから、新たに当社に祀られた神で、特定の神名を有する神ではないともいう(平野社の成立と変質)

◎八姓氏神説
 御由緒には、当社祭神について
 「奈良時代末期から臣籍降下の制度が定まり、臣籍降下した源氏・平氏をはじめ高階・大江・中原・清原・秋篠各氏ほか天皇外戚の氏神とされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇されました」
とある。

 当社祭神を臣籍降下氏族あるいは外戚氏族の氏神とするのは、二十二社註式(1469・室町末期、国家の大事・天変地異などに際して朝廷から特別の奉幣をうけた神社22社についての論考)
 ・第一 今木神 日本武尊 源氏氏神(清和天皇の皇子・貞純親王の後裔)
 ・第二 久度神 仲哀天皇 平氏氏神(桓武天皇の皇子・葛原親王の後裔)
 ・第三 古開神 仁徳天皇 高階氏神(天武天皇の皇子・高市親王の後裔)
 ・第四 比売神 天照大神 大江氏神(桓武天皇外戚-高野新笠母親の出身氏族)
とあるのが初見といわれ、中世以降、一般に流布していたという(括弧内は引用者注)

 これは、当社が皇室の外戚氏族(和氏・大江氏)に関わることから、皇室に連なる氏族の氏神を振り分けたものとも考えられるが、桓武天皇と関係するのは平氏(臣籍降下氏族)と大江氏(外戚)のみで他の2氏は直接的な関係になく、当社の創建由緒を無視した(忘れられた)後世になっての比定であって、これらの神々を祭神とする根拠はない。
 また日本武尊以下の4神を祀る由縁はみえない(仁徳天皇の民の竈伝承から、これを久度神に充てる説があるが、こじつけにしかすぎない)

 これについて蕃神考は
  「此の平野神を八姓の祖神など云べくもあらぬ事なるを、いかなる混ひによりて然る説の出来たりけむと考ふるに、中むかし平野の社司などの説に、皇太后の御ゆかりの和・大江・秋篠・菅原の四氏合せて、八氏の祖神を坐せりといへるを、後に其氏々の称をばわすれゆきて、ただ八姓の祖神といへる事のみ伝はりたりけむを、又後にさかしら人のよくもたづね考へずして、とりどりに妄説せるにぞあるべからむ」
として、本来は皇太后(高野新笠)ゆかりの八氏族の氏神を祀ったものとの伝承があったが(和氏以下の4氏はわからぬでもないが残りの4氏は不明)、次第に忘れられ、ただ八氏の祖神というのみを以て、賢しら人が十分に検討もせずに為した牽強付会の妄説と一蹴している。

※社殿等

 西大路路東側の一街区を占める広い社域の西北寄りが社殿域で、 社域の南側半分ほどは桜苑になっている。

 東側の大鳥居(神額には“平野皇大神”とある)をくぐり、参道を進み、神門(檜皮葺、1651建立)をくぐって境内に入る。
 境内中央に拝殿(入母屋造・檜皮葺、1650建立)が、その奥、唐破風向拝を有する釣殿(祖皮葺)から左右に伸びる透塀に囲まれた本殿域内に、一間社春日造(桧皮葺)の社殿2棟を横に連結した特異な様式(比翼春日造又は平野造という)の本殿2棟(国指定重要文化財)が東面して鎮座する。

境内社殿配置図(上が北)

 本殿には、祭神4座が北より今木皇大神・久度大神(北殿、1632建立)・古開大神・比売大神(南殿、1625建立)の順に鎮座し、由緒によれば、「社殿が東面するのは、宮中神であったことによる」というが、その意味は不明。

 資料によれば、当社は、応仁の乱(1467--77)以降の戦乱iによって荒廃していたのを、平氏嫡流・西同院時慶が寛永年間(1624--43・江戸前期)に再建したのが現社殿の原姿という。

 
平野神社・大鳥居(東側)
 
同・東門
 
同・拝殿
 
同・本殿域正面
 
同左
 
同・本殿(北殿)
 
同・本殿(南殿)

◎摂社
 県社(アガタ)--祭神:天穂日命、本殿域内、本殿(南殿)の左(南側)に東面して鎮座
   鎮座由緒・祭神名等不明だが、、二十二社註式には
   「県神 天照大神子穂日命 中原・清原・菅原・秋篠己上四姓氏神」
とある。

 清原以下の3氏は、いずれも高野新笠の出身氏族・大江氏と同じく土師氏より出た氏族であり、新撰姓氏録に
   「山城国神別(天神) 土師宿祢 天穂日命十四世孫野見宿祢之後也」
とあるように、土師氏が天穂日命より出ていることから、それらに共通する遠祖・天穂日命を祀ったのであろう。
 ただ、ネットでみた天穂日命・土師氏系譜に中原氏の名はみえず、大江氏の誤記かもしれない。

◎末社
 ・末社合祀殿--右より、鈿女社(ウズメ、芸能守護)・蛭子社(ヒルコ、水子守護)・住吉社(和歌守護)・春日社(言霊守護)
             社殿右側(北側)に南面して鎮座
 ・八幡神社--合祀殿の右に南面して鎮座
 ・猿田彦神社--大鳥居~神門間の参道右手(北側)に南面して鎮座、
     案内には、猿田彦神は古くから「知恵の神・子守の神」として知られている。また「猿の縫いくるみ」を奉納して祈願すると、霊験あらたかであるとされている、とある
 ・出世導引稲荷神社--参道右手、猿田彦神社の左に並んで鎮座
     案内には、稲荷神は、後陽成天皇の勅許をもって平野本社の復興大工事を完成された西洞院時慶郷の神徳拝受以来、特に「出世導引」の霊験ありとされ参拝の多いところである、とある
 いずれも鎮座由緒・年代等不明。

 
摂社・県社
 
末社合祀殿
 
末社・八幡社

末社・猿田彦社

末社・稲荷社

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