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山城(相楽郡)の式内社/祝園神社

京都府相楽郡精華町柞ノ森
祭神−−建御雷命・経津主命・天児屋根命
                                                        2012.01.18参詣

 延喜式神名帳に、『山城国相楽郡 祝園神社 大 月次新嘗』とある式内社。社名は“ホウソノ”(旧称:ハフソノ)と訓む。

 JR学研都市線・祝園駅(近鉄京都線・新祝園駅)の北東約1.1km、木津川左岸・開橋西詰の堤防下にのこる叢林の中に鎮座する。
 府道71号線・開橋橋詰西側のグランディビルの西側階段から下の細道路に降りて南進、突きあたりを左(東)に曲がった先(北側)に参道入口がある。

※由緒
 社頭に掲げる由緒沿革によれば、
 「崇神天皇(10代)の御代、孝元天皇(8代)の皇子・武埴安彦(タケ ハニヤスヒコ)が朝廷に反乱を企て、逆に此の地に於いて討伐されたが、亡魂柞(ハハソ)ノ森に止まり人民を悩ませしを、聖武天皇・神亀年中(724--29)にこれを撲滅せんとするも、鬼神の所業なれば人力にては如何ともなりがたく、後年、称徳天皇の御代(764--70)、神力を以てこれを撲滅せよとの勅命により、直臣池田六良廣綱・宮城七良朝藤が祝部(ハフリベ・神官)となり、神護景雲4年(770)1月21日春日の大神を勧請し創祀された」
という。
 この由緒の基になる伝承として、書紀・崇神10年9月条には、
 「武埴安彦と討伐軍の将・彦国葺(ヒコ クニフク・和邇氏の祖)とが輪韓河(ワカラカワ、木津川の古名)をはさんで対陣し、開戦の合図の矢を射あった。先ずタケハニヤスヒコがヒコクニフクを射たが当たらなかった。ついでヒコクニフクが射た矢がタケハニヤスヒコの胸に当たって殺された。
 為に部下達はおびえて逃げたが、これを河の北に追って破り半分以上の首を斬った。屍が溢れ、そこを羽振苑(ハフリノソノ・今の祝園)と名づけた」 (大意−−この後、敗れた兵達が現枚方市樟葉まで逃げ降伏した。その時の敗兵の様子から樟葉の地名が起こったとの地名説話に続く)
とある。

 この戦いで死んだハニヤスヒコの亡霊が、当地・ハハソの森に止まって人々を悩ましたので、称徳天皇の御代に春日大神を勧請し、神力によってこれを押さえ込んだ、というのが当社の創建で、所謂怨霊鎮魂の社となる。
 しかし、続日本紀(797)の聖武天皇・称徳天皇の条に、当社にかかわるような記述は見えず、一つの伝承であろう。
 ここで春日の大神が出てくるのは、武神であるタケミカツチの神力を以てハニヤスヒコの怨霊を鎮圧したということだろうが、この記述からみると、当社と春日神社との関係が密接になった中世以降(下記)に作られた由緒かもしれない。

 この伝承にいう羽振苑の“ハフリ”即ち“ハフル”は“放棄”の意で“、死骸を投げる捨てる”あるいは“その場所”を意味し、それが転じて“祝園・ハフソノ”となり、今の“ホウソノ”となったという。

 史料上での当社の初見は、新抄格勅符抄が引く大同元年牒(806、神社に対する神領・封戸奉授の記録)にいう
 「祝園神 四戸山城国
との記録だが、続く三代実録(901)・貞観元年(859)正月27日条には、
 「京畿七道の諸神の階を進め、・・・従五位下祝園神・・・従五位上を授け奉る」
との記録がある。
 これらからみて、当社が9世紀初頭以前からあった古社であることは確かといえる。

 中世になると、この地に春日社領祝園庄が置かれるなど奈良・興福寺の支配が及び、興福寺官務牒疏(1441)には
 「天平神護景雲元年(767) 武甕雷神(タケミカツチ) 狛郷六本木に臨来して此処に鎮座 春日社と同じ」
とあり(日本の神々5・2000)、また山城綴喜郡誌(1908)に引く社伝には、
 「称徳帝に至り(ハニヤスヒコの亡霊が人々を困らせていることを)事聞(キコシメ)す、即ち大中臣廣綱・朝藤の二人に勅して祈祷し、神殿を造営し春日の神を勧請せしめ、云々」
とあるという(式内社調査報告・1979)
 この二つの伝承は、いずれも当社の創建を春日神勧請に求めるもので、その裏には、当社と興福寺・春日神社との関係が窺われる。ただ春日神は、神護慶雲元年には未だ常陸の鹿島にあって、奈良・春日には遷っていない。

※祭神
 今の祭神は、建御雷命(タケミカツチ)・経津主命(フツヌシ)・天児屋根命(アメノコヤネ)の所謂・春日三神を祀るが、これは、春日神社・興福寺との関係から祀られた神々と思われ、為に、近世になると、山城名跡巡行記(1754・江戸中期)
 「当村(祝園村)民居の北に在り、今春日と称す」
とあるように、社名も祝園から春日へと変わり、祝園村の産土神として崇敬されたという。

 これらからみて、今の春日三神が当社本来の祭神とは思えないが、かといって、創建時の祭神名は不明。
 ただ、近世までの当地には木津川を渡る“渡し場”があったといわれ、式内社調査報告は“渡しの守護神ではなかろうか”と推測している。

※社殿等
 参道入口の右手に、「式内郷社 祝園神社」との標識が立ち、参道途中に朱塗りの鳥居が立つ。
 その奥、中門(四脚門・瓦葺き)の中が境内で、周りは白壁に囲まれている。
 正面に神紋(下がり藤−藤原氏系の紋)を染め抜いた白い幔幕を張った横長の拝殿(瓦葺)、その奥、弊殿に接して本殿覆屋が建つ。
 本殿は覆屋の中に収まっているようだが、近寄れず詳細不詳。資料によれば、流造で間口二間・奥行一間二尺八寸という。

祝園神社/参道入口
祝園神社・参道入口
祝園神社/鳥居
同・鳥居
祝園神社/中門
同・中門
祝園神社/拝殿
同・拝殿
祝園神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋

◎末社
 当社の末社は9社を数え、社殿の左右及び背後に朱塗りの小祠が並ぶ。
*社殿右手
  ・大神宮(オオヒルメムチ) ・熊野社(イザナギ)
*社殿背後
  ・熱田社(ヤマトタケル) ・祈雨社(?) ・有功社(フルノミタマ・ミチオミ、神格不明)
  ・出雲社(オオナムチ) ・稲荷社(ウカノミタマ)
*社殿左手
  ・天満宮社(菅原道真) ・西宮社(コトシロヌシ)
 いずれも、勧請由緒・時期など不明。

社殿背後の末社群

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