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藤 森 神 社
京都市伏見区深草鳥居崎町

    祭神−−本殿(中座)−素盞鳴尊・別雷神・日本武尊・応神天皇・仁徳天皇・神功皇后・武内宿禰
            東殿(東座)−天武天皇・舎人親王(崇道盡敬天皇)
            西殿(西座)−早良親王(崇道天皇)・伊豫親王・井上内親王
                                                                   1011.12.04参詣

 京阪本線・墨染駅の北東約600m。駅から東側道路へ出て墨染交差点(信号)を北上、次の信号を右折・東へ進んだ左手(北側)に鎮座する。社名はフジノモリと訓む。

※由緒
 当社縁起略記及び公式ホームページによれば、
 「京都洛南深草の里に、平安遷都(794)以前から祀られている古社で、古来、朝廷から武家・庶民にいたるまで崇敬厚く、歴史ある社である。歴史をさかのぼれば、近郊にあった三つの社が合祀され、現在の藤森神社となった」
とあり、創祀千八百年藤森神社(平成19年・2007、以下「記念誌」という)には、本殿内に合祀されている三座の由緒について、次のように記している。

 @本殿(以下「中座」という)
   「神功皇后が摂政3年(203)、新羅から凱旋された後、山城国深草の里藤森の地を神在の清地として撰ばれ、纛旗(トウキ・軍中に立てた大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、弓道の秘伝である弓兵蟇目(ユミヤヒキメ)の法を修して神々を祀りし給うたのが当社の起こりである。
    現在、本殿の東方に石垣で囲まれた高檀にイチイガシの巨木の切株が残り、注連縄の巻かれた塚が、兵具を納めた旗塚と伝えられている。
 延歴13年(794)、桓武天皇は勅して当社に“弓兵政所”(ユヅエマンドコロ)の称が授けられ、遷都奉幣の儀式がおこなわれた」

 A東殿(以下「東座」という)
   「御祭神・舎人親王(トネリ・676--735、天武帝の第6皇子・淳仁帝の父)は天平7年(735)藤尾の地(現伏見稲荷大社の社地)に葬られた。藤尾社は奈良時代の神護景雲年間(767--69)に創祀されたと考えられる(山崎闇斎の著・藤森弓兵政所記-1671・江戸初期には、「天平7年冬11月乙丑舎人親王薨せり、寿60歳、山背国深草の麓藤尾に葬る。即ち、今の藤森なり」とある)
   天平宝宇3年(759)、舎人親王は淳仁天皇により崇道盡敬天皇と諡号され、深草の里・藤尾の地に鎮座された。
   永享10年(1438)、後花園天皇の勅により、時の将軍・足利義教が、山頂にあった稲荷の祠3座をことごとく山麓の藤尾の地に遷して稲荷社とした際に、その地に祀られていた藤尾社を南方約2kmにある藤森の地に遷座して、奉幣の儀式が執り行われた。その時遷座されたのが本殿東座である」

 B西殿(以下「西座」という)
   「延歴19年(800)、桓武天皇の勅により、主祭神・早良親王(サワラ、750--85)の神霊に崇道天皇と追号して塚本の宮(東山区本町16丁目・京阪・東福寺駅の南約250m辺り)に祀ったのが始まりで、天長3年(826)、淳和天皇の勅により、伊豫親王(イヨ、782--807)・井上内親王(イガミorイノエ、717--75)の神霊を合祀した。
    塚本宮は天喜3年(1055)9月の隣接する法性寺からの出火で焼失、承歴元年(1077)に再建された。その後、隣接地に東福寺が建立されるに際して、延応元年(1239)、深草極楽寺町の南の地(京阪深草駅の南東約300m辺り、現深草西出町)に古天王社(古天皇社ともいう)と称して遷座したが応仁の乱により焼失(1468)、文明2年(1470)に藤森神社に合祀された」(大意)

 この縁起によれば、神功皇后が纛旗・兵具を納め祀ったのが始まり(中座)で、それに藤尾社(東座)・塚本社(西座)を合祀したのが現在の藤森神社となる。

◎中座
 当社の中心と目される中座は神功皇后の創建とされるが、神功皇后に仮託した創建由緒を伝える神社は各地に散見され、当社もその一つで、当社では、神功皇后摂政3年(203・書紀に記す架空年次)の創建としている
 当社では、平成17年(2005)に創祀1800年祭を催行しているが、今から1800年前といえば3世紀初頭・弥生後期に当たり、その頃の記録もしくは伝承などが残っているとは考えられず、また神功皇后の実在が否定されることからみて、この縁起は当社(中座)創建時期を古く見せるために作られたものであろう。

 ただ、縁起および記念誌に
 ・延歴13年(794)、桓武天皇より弓兵政所の称号を授けられ、遷都奉幣の御儀あり
 ・貞観5年(863)、清和天皇の長寿と国家の安泰を祈って幣帛が捧げられ、勅諚の神事が行われた
とあることからみると、8世紀には実在していたと思われるが、正史・日本後記の延歴13年条(逸文)および三代実録の貞観5年条に、当社に関連する記述は見えず、当地に残る伝承によるものであろう。

 中座の由緒に係わるものとして、本殿の東(右手)に“旗塚”がある。
 縁起略記には
  「神功皇后が纛旗を樹てられた所で、当社発祥の地である」
とあり、石積基壇上の覆屋の中に注連縄を張った巨樹(イチイの木という)の切株が納められ、傍らに“神功皇后 御旗塚”との石標が立っている。
 なお都名所図会(1780・江戸中期)・“藤社(フジモリ)のやしろ”の絵図には、本殿右の塚の上に樹木が見える。この樹木が枯れ、その一部を残したのが旗塚の切株であろう。

 この旗塚は、神功皇后が纛旗を立てた処あるいは埋めた跡ともいわれるが、古くからの樹木信仰・神木信仰の痕跡ともとれ、中座本来の姿、即ち藤森神社の最古態を示唆する遺構かもしれない。

 因みに纛旗の“纛”とは、“旄牛(ボウギュウ・からうし)の長い毛あるいは雉の尾で飾った大旗のことで、訓はハタホコ。もと葬儀の際に柩を指揮するのに用いられたが、後には軍中に、秦漢以降は天子の車駕の飾りも用いられた”という(日本の神々5・城南宮、2000)

藤森神社/旗塚
旗塚
藤森神社/都名所図会
都名所図会(部分)

 古く、当地には真幡寸神社(マハタキ)との式内社があったが、藤尾社(現東座)が現伏見稲荷の地(藤尾の里)から当地へ遷座してきた時(上記由緒A)、式内・真幡寸神社は西方(現城南宮の地)に遷ったという(別稿・真幡寸神社参照)
 当社が由緒@にいうように古い社とすれば、当社と真幡寸神社(平安遷都以前の創建という)とが併存していたことになるが、今の当地にその痕跡はみえない(古い神の分霊を末社として祀ることが多い)
 また古代の豪族・秦氏創建ともいわれる真幡寸神社が式内社に列しているのに、神功皇后創建との由緒をもつ当社が式外社である理由は不詳で、延喜式制定当時(927)、当社が実在していたかどうか疑問ともいえる。

 以上、管見したかぎりでは、中座の創建由緒・時期・祭神(下記)・沿革などには整合性を欠くものが多く、藤森神社の中心社とみるには疑義がある。

◎東座
 東座の前身である藤尾社は、天武天皇の第6皇子・舎人親王を祭神として稲荷山の山麓・藤尾の地にあったが(伝・神護景雲年間創建)、その地に稲荷山中の三峰にあった稲荷三座をまとめて藤尾の地に勧請したため、押し出される形で深草の現在地に遷ったという(この遷座にともなって、それ以前から当地にあった真幡寸神社が西方・城南宮の地に遷ったという)

 稲荷山中にあった稲荷三座の山麓遷座年次については、
 ・弘仁7年(816、弘仁14年ともいう)、弘法大師が山麓に遷したとの説(稲荷伝承)
 ・鎌倉時代(13世紀)、僧・長厳が朝廷の許しを得て山麓に遷したとの説(稲荷大明神縁起)
 ・永享10年(1438)、後花薗天皇の勅により将軍・足利義教が山麓に遷したとの説(稲荷谷響記)
などの伝承があり、当社関連の古文書・藤森社縁起(1556書写)には、
 「弘仁7年(816)(弘法)大師が稲荷大明神勧請の為に藤森天王敷地を所望との由が叡慮に達し、当社の神慮を伺った処、借し奉るべしとの神託があったので、三山の麓に之(稲荷大明神)を勧請した」(漢文意訳)
とある。
 これらの伝承のいずれが真に近いかは判断できないが、関連資料などからみて鎌倉時代以降の遷座と思われ、伏見稲荷大社・藤森神社共に永享10年説を採っている。

 なお、古書・藤森社縁起(16世紀初頭頃、卜部兼倶著)には
 「当社三所天王は、神護景雲年中(767--69)、山城国紀伊郡藤尾之霊地に垂跡也」
また藤森弓兵政所記(1671・江戸前期、山崎闇斎著)には
 「藤森弓兵政所は、舎人親王の廟なり」
とあり、古くは、藤森神社は藤尾社の後継社との認識があったことを示唆する。

 なお、現伏見稲荷大社・南正面の一の鳥居から二の鳥居へ至る参道中ほどの西側に末社3社が並び、その中央に“藤尾社”が鎮座しており(右写真)、傍らの立札には、“末社 藤尾社 御祭神 舎人親王”とある。

 社名・祭神名以外に何らの説明もないが、曾て、この地にあった藤尾社が深草に移った後、その分霊を末社として祀ったものと解され、現藤森神社・東座(旧藤尾社)の本来の鎮座地が当地であることを証している。
伏見稲荷大社/末社・藤尾社

◎西座
 西座は、上記縁起Bにいうように、早良親王を主祭神とする塚本社(800年創祀)を当社に合祀したものだが(文明2年・1470-室町中期)、早良親王と当社との関係について、当社略縁起には
 「早良親王は天応元年(781)、兄桓武天皇の皇太子となられた。当時(記念誌には、前年の宝亀11-780-年とある)、朝廷に謀反し勢力を増していた陸奥の大領・伊治公砦麻呂の征夷大将軍を拝されたので、直ちに軍勢を催して当社に詣で、戦勝を祈願して出陣しようとされた。これを聞いた反乱軍は畏怖し、乱は戦わずして平定されたという」
とあり、また藤森社縁起には、
 「光仁天皇第二皇子・早良親王、年来(藤森社を)崇敬すること他と異なり、蒙古襲来の風聞があったとき、大将軍となり、当社に大勝利を祈願され、5月5日に出陣されたところ、大風が吹いて海が荒れ、蒙古軍は一戦に及ばず悉く滅却した」(大意)
とあり、当社との関係が深い武人であったことを強調している。

 続日本紀によれば、親王が桓武天皇の皇太子であったこと(天応元年4月4日条)、宝亀11年に陸奥国の大領・伊治公砦麻呂(コレハルノキミアザマロ)が反乱を起こしたこと(同・3月22日条)は史実だが、鎮圧のために任命された征夷大将軍(続紀には征東大使とある)・副将は従三位の藤原継縄(ツグタダ)以下の諸将であって、そこに早良親王の名はない。
 また、この頃、蒙古なる国は存在しておらず(蒙古−元の建国は1201年)、何らかの外寇があったとの記事も見当たらない。
 
 早良親王は、下記するように、藤原継縄暗殺事件に関与したとして皇太子を廃され配流の途中に憤死したことから、祟りをなす怨霊・御霊として畏怖され、後に合祀された伊豫親王・井上内親王も又非業の死を遂げた御霊であることからみて、塚本社とは、御霊・早良親王(崇道天皇)鎮魂のために創建された神社と見るのが順当であろう。

 ただ、その御霊神三座が藤森神社に合祀された理由はわからない。略縁起には親王が当社を崇敬され云々というが、憶測すれば、東座の祭神・舎人親王も、その子・淳仁天皇が擁立者・藤原仲麻呂の失脚にともなって廃帝となり、配流先の淡路で亡くなっていることから、これを怨み御霊へ変貌したともいわれ、同じ御霊を祀る神社として合祀されたのかもしれない。

※祭神
 今の祭神は冒頭に記すように、中座・スサノヲ以下七座、東座・舎人親王以下二座、西座・早良親王以下三座というが、記念誌によれば、
 「祭神はその時代時代により変遷がみられ、江戸時代の古伝によれば、ある時は、
   中座−−鉾神・剣神、神功皇后、崇道盡敬天皇(舎人親王)・崇道天皇(早良親王)
   東座−−井上内親王・天武天皇
   西座−−伊豫親王・武内宿禰ほか
 またある時は
   中座−−神功皇后・別雷神
   東座−−天武天皇・舎人親王
   西座−−早良親王・伊豫親王・井上内親王
が祀られていたと伝えられている」
とあるが、都名所図会には
   「藤社(フジモリ)のやしろは墨染の北にあり。本殿の中央は舎人親王、東は早良親王、西は伊豫親王を祀る。
   また本朝武功の神を配祀し奉る。神武天皇・神功皇后・日本武尊・武内宿禰等なり。かるがゆえに弓兵政所と号す」
とあり、主祭神は舎人親王で、神功皇后以下は配祀神としている。

 当社、特に中座を中心とする由緒に諸説があり混乱しているのと同じように、祭神についても混乱・輻輳がみられ、すっきりしない。当社では、武神的性格の強い神社というが、東西二社の祭神からみると御霊神的神格が強いとの印象が強い。

◎中座
 今、中座の祭神は、主祭神・スサノヲとなっているが、上記の由緒@からみると、主祭神は神功皇后であってもおかしくないのに、スサノヲとする由緒は不詳。
 神社の話では、「当社の祭神は武神的神格が強く、その中心として、八岐大蛇を退治した武神としてスサノヲを祀る」というが、江戸時代の祭神中にスサノヲの名は見えず、後から付けたこじつけとの感が強い。
 因みに、神社辞典(1997)には、「旧府社 古くは藤森天王社と云った」とある。一般に天王とは牛頭天王(ゴズテンノウ)を指すことから、時期不明ながら、疫病除けの神としてゴズテンノウを祀っていたのが、明治の神仏分離によって同じ神格をもつスサノヲに替わったのかもしれない(今、スサノヲを祀る神社で、古くゴズテンノウだったものは多いが、資料などからはほとんどが消されている)

 古伝にいう鉾神(ホコカミ)・剣神(ツルギカミ)について、古代にあったとみられる銅鐸・銅剣・銅矛などを祀る聚的信仰が当地でも行われ、それが物神化したものであろうというが(日本の神々5・2000)、この鉾神・剣神を神功皇后が軍中に立てた大旗(纛旗)に依り憑いた神と解すれば、中座の祭神とするに相応しいともいえる。ただ、今の祭神にその痕跡はない。
 また、古伝にいう崇道盡敬天皇・崇道天皇は藤尾社(東座)・塚本社(西座)の主祭神であって、中座由緒からみて、これを中座の祭神とするには疑問があるが、古く、御霊鎮魂の社と理解されていたことを示唆するともいえる。

◎東座
 東座の主祭神・舎人親王(トネリ・神社ではイエヒトと読む)とは、天武天皇の第6皇子で日本書紀を編纂した(720)ことで知られる。
 天武の皇子中で最長寿であったことから皇族間の長老として、当時の実力者・藤原不比等の死去に伴い知太政官事(太政大臣に準ずる高位)として元正・聖武天皇に仕え、奈良時代前半の国政に深く関与した皇族で、長屋王の変では糾問使として王を自殺に追いやり、不比等の娘・光明子の立后(光明皇后)を宣言するなど藤原政権の成立に協力したという。
 天平7年(735)11月、蔓延していた天然痘により死去し(60歳)、即日太政大臣が追贈されたが、その後、天平宝字2年(758)、子の大炊王が淳仁天皇(在位758--64)として即位したことに伴い、崇道盡敬皇帝と追贈されている(ネット資料・Wikipediaより抄記)
 今当社では、舎人親王を日本最初の学者・学問の祖神として顕彰し、拝殿左前に「日本最古の学者・学問の祖神 舎人親王御神前 追贈 崇道盡敬天皇」との石碑が立っており、これを見ると、当社の主祭神は舎人親王ともとれる。

 なお淳仁帝は、先帝・孝謙上皇(女帝、淳仁廃帝後、称徳として重祚)との間で弓削道鏡を重用するかどうかで対立、天平宝宇8年(764)、即位の後立てであった藤原仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こして(道鏡排斥を求めたという)誅されたことから廃位され、淡路に流され(淡路廃帝)、その地で崩御・御霊化したといわれ、舎人親王もまた、これを怨みとして御霊化したとの見方もある。

◎西座
 西座の祭神三座ともに、祟りをなす御霊として畏れられた人物で、
 ・早良親王(750--85)
   光仁天皇の皇子で、桓武天皇の同母弟。天応元年、兄・桓武天皇の即位に際して皇太子となったが、延歴4年(785)、造長岡京使・藤原継縄暗殺事件に関与したとされて廃され、淡路への配流途中、無実を訴えるため絶食し、河内国高瀬(現大阪府守口市)付近で憤死したという。
   その後、桓武天皇の身辺で起こった皇子の発病・母や妃の病死、あるいは疫病の流行・洪水などが相次いだことから、これらは早良天皇の祟りであるとして幾度となく鎮魂の儀礼が行われ、延歴19年(800)、崇道天皇と追贈され各地で神として祀られたという。西座の前身・塚本社もその一つ。
   藤森弓兵政所記には、「当社の相殿に早良親王坐す。親王の特に当社を崇敬したまふを以てなり」という。上記・藤森社縁起にいう伝承を指すもので、後世の付会。

 ・伊豫親王(783--807)
   桓武天皇の皇子で平城天皇の異母弟。平城朝において皇族の重鎮として中務卿兼太宰帥をつとめるなど有力な地位にあったが、大同2年(802)10月、謀反の首謀者と疑われ、母・藤原吉子とともに川原寺に幽閉され、11月12日、そろって服毒自殺したという。

 ・井上内親王(717--75)
   聖武天皇の第一皇女。幼少の頃に伊勢神宮の斎王として伊勢に降るが、天平16年、弟・安積親王の逝去により解任され帰京。帰京後、白壁王の妃となり、宝亀元年(772)王が平成天皇として即位すると皇后となり、同2年、皇子の他戸親王(オサベ)が皇太子となったが、宝亀3年(772)、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、皇太子を廃された他戸親王とともに大和国宇智郡(現奈良県五條市)に幽閉され、同6年、親子共に逝去している(暗殺説もある)

 これら三座は、いずれも朝廷・貴族内部の政争・内紛に巻き込まれ、無実の罪によって非業の死を遂げた人物で、皇族・要人の死・疫病の流行・天災の多発などを、これらの人々の怨みによるとして畏怖し、これを鎮めるために御霊神として祀ったのが塚本社であろう。

※社殿等
 道路左側の入口には“勝運 馬の社(朱記) 藤森神社”との標識がある。長い参道の途中に鳥居(正徳元年-1211-銘あり)があり境内に入る。
: 境内中央に切妻造・瓦葺きの割拝殿、その奥に、正面に唐風破風を有する拝所、その左右に続く東西廊に囲まれた中に本殿が鎮座する。
 ・本殿−−入母屋造・檜皮葺、正徳2年(1712)、後水尾天皇の違勅により、 中御門天皇から宮中内司所(賢所)の建物を賜ったもので、
        現存する賢所としては最古といわれ、その原形をよく留めているという。京都市指定文化財(昭和59年指定)
 ・拝殿−−切妻造・瓦葺、中央に通路を持つ割拝殿。本殿と共に御所より賜ったものという。京都市指定文化財
 ・拝殿・弊殿・東西廊−−江戸時代の建物

藤森神社/鳥居
藤森神社・鳥居
藤森神社/拝殿
同・拝殿
藤森神社/拝所正面
同・拝所正面
藤森神社/本殿
同・本殿

◎摂末社
 本殿裏に、右から八幡神社・祖霊社・七宮社・大将軍社・天満宮社が東西に並ぶ。
 ・摂社:八幡神社(応神天皇)−−一間社流造・こけら葺。永享10年(1438)、将軍・足利義教の造営と伝える。国指定重要文化財(明治39年指定)
        記念誌には「当地にあった、延喜式内社・真幡寸神社がこれであると考えられている」とある。
        真幡寸神社が西方に移った後、その分霊を祀ったということだろうが、それを八幡宮と称する理由は不明。
 ・摂社:大将軍社(磐長姫命・イワナガヒメ)−−一間社流造・こけら葺、八幡社と同時に造営されたという。国指定重要文化財(同上)
        桓武天皇の平安遷都のとき、王城鎮護のために都の四方に祀られた大将軍社のうち、南方に祀られた社で、
        古来から方除神として崇敬されたという。
        祭神はイワナガヒメ(コノハナサクヤヒメの姉神で、長寿の女神として崇拝される)というが、これは珍しいことで、
        大将軍社本来の祭神は、陰陽道で方位の吉凶を司るとされる八神の一(太白星=金星)をさし、
        スサノヲと同一視されることが多い。
        ただ、スサノヲというのは明治以降のことで、それまではゴズテンノウ又はその八王子の一・魔王天王だったと思われる。
 ・末社:七宮社(7社合祀殿)−−豊臣秀吉が伏見城を築城するとき、その地に祀られていた七社を遷して祀ったものという。
        天満宮社・熊野神社・厳島神社・住吉神社・諏訪神社・広田神社吉野神社の七社を祀る。

藤森神社/摂社・八幡宮社
摂社・八幡宮社
藤森神社/摂社・大将軍社
摂社・大将軍社
藤森神社/末社合祀殿
末社・七社合祀殿

 なお、上記以外の末社として、藤森稲荷社(ウカノミタマ、大正3年建立)・霊験天満宮(菅原道真)・祖霊社(神社関係社の霊)・大日如来社(大日如来・神仏混合期の残存社)が点在する。

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