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山城(葛野郡)の式内社/深川神社
現・福王子神社
京都市右京区宇多野福王子町
祭神−−班子皇后
                                                         2012.02.22参詣

 当社では、延喜式神名帳に『山城国葛野郡 深川神社』とある式内社の後継社と称しているが、式内社調査報告(1979)では、式内・深川神社は所在地等不明の“未詳社”としている。

 嵐電北野線・宇多野駅の北約200m強、駅西側の府道162号線を北上した福王子交差点の北東角に鎮座する。当社前の府道183号線を東へ行った処に名刹・仁和寺がある(約500m)

※由緒

【深川神社】
 福王子神社の拝殿内に掲示する由来によれば、
 「この神殿は、寛永21年(1644)、三代将軍徳川家光公と仁和寺法王覚深親王とが仁和寺大伽藍と共に新に造営された社殿で、それ以前は、深川神社と申しあげ、平安時代からあった神社で延喜式に社号がありました。が、応仁の戦乱ですっかり焼失してしまいました。
 現在の福王子神社は、この深川神社の後身であり、御再建以来、仁和寺歴代法親王の崇敬あつく、今日も尚お祭には奉幣の儀が行われています」
とある。

 この由来によれば、当社の前身である式内・深川神社は、応仁の乱(1467--77)まで当地にあったととれるが、それを証する史料はない。

 式内社調査報告(1979)によれば、
 ・按ずるに、(式内・深川神社は)鳴滝村福王子社か、地主神・福王は深川の訛りか−−神名帳考証(1733)
 ・按ずるに、今、福王子社の境内に小社あり、夫荒社(フコウ)といふ。夫荒は深川の訛りなるべし−−山城国式社考(1711)
    (フカカハ(平安時代)→ フカカウ(室町時代)→ フカウ→ フコウ(夫荒)と変化したともいうが、認知されていない、夫荒社については下記)
として、疑問符付きで福王子神社またはその末社・夫荒社ではないかというが、フクオウあるいはフコウが深川の訛りというのはやや牽強付会の感が強く、他にも
 ・在所未詳−−山城志(1734)
 ・祭神在所等詳ならず−−神社覈録(1870)
などがあり、調査報告は「未詳社としておくのが安全であろう」という。

 また、
 ・式内・深川神社の創建由緒・年代・祭神・沿革などが一切不明であること、
 ・福王子神社を後継社とする確たる資料がないこと
 ・福王子神社が、下記するように、光孝天皇の皇后・班子女王を祀る神社であり、深川神社との接点がみえないこと
などから、福王子神社を式内・深川神社の後継社とみるのは問題あり、といえる。

【福王子神社】
 上記の由来によれば、
 「右京区宇多野に鎮まります福王子神社は、第58代光孝天皇の皇后・班子女王をお祀りしております。
 班子女王は、仁和寺の開山祖・宇多天皇の母君であらせられることから、古くより仁和寺の鎮守神であります」
とあり、ネット資料が引用する当社由緒書(未見)には
 「班子女王は、昌泰3年(900・平安前期末)4月1日に崩御され、葛野郡頭陀寺に葬られたが、頭陀寺の陵墓がこの辺りにあったことから、この地に皇太后・班子女王を奉祀し福王子神社を造営したと云い伝えられている」
とあるという(現社地が陵墓ともいう)

 この由緒によれば、当社は10世紀前半頃に班子女王を祀る社として創建された社で、福王神・福王子宮と呼ばれたという。
 ただ、その当時、当地に式内・深川神社があったとすれば、両社の関係として
 ・深川神社とは無関係に別神社として福王子神社が創建された
 ・深川神社に班子女王を合祀し、社名を変更した、
 ・深川神社を取りこんで末社化した(その末社が夫荒社か)
などが考えられるが、そのいずれに該当するかは不明。

 当社創建後の経緯は不詳だが、班子女王の夫・光孝天皇が発願し、皇子・宇多天皇が継続・竣工した仁和寺との関係が深く、仁和寺の歴代法親王の崇敬あつい鎮守神だったという。
 応仁の乱のとき、西軍の陣屋とされた仁和寺が東軍の攻撃により大伽藍等一切の堂舎が焼失したのと同時に、当社も焼失したと思われるが、その後、現地に再建されたかどうかは不明。仁和寺の再建がままならなかったともいうから、当社も同じだったと思われる。
 その当社が再建されたのは、江戸時代に入ってからで、寛永21年、時の法親王・覚深親王(1598--1648・後陽成天皇の皇子・仁和寺21代門跡)が、三代将軍・家光からの援助をうけて仁和寺大伽藍の再建と同時に当社社殿を造営したという。

※祭神
 式内・深川神社の祭神は不明。

 福王子社の祭神である班子女王(ハンコ・833--900)とは、桓武天皇の皇子・仲野親王の御子で、即位前の光孝天皇(時康親王・光仁天皇の皇子、在位:884--87)の后となり4男4女を生んだ女性で、光孝崩御後、その皇子・定省親王が宇多天皇(在位:887--97)として即位している。
 皇后を単独の祭神とする神社は珍しいが、隣接する仁和寺が夫・光孝天皇、息子・宇多天皇の建立になることから、その鎮守社である当社に祀られたのであろう。

※社殿等
 福王子交差点の北東角、石積された高所にある。
 正面石段を登った上に鳥居(徳川初期という)が立ち、境内中央の入母屋造の拝殿(檜皮葺、徳川初期の建物とある)が、その奥、朱塗りの瑞垣に囲まれた中に、一間社春日造・朱塗りの本殿(檜皮葺)が、いずれも南面して鎮座する。

福王子神社/社頭
福王子神社・社頭
福王子神社/鳥居
同・鳥居
福王子神社/拝殿
同・拝殿
福王子神社/中門
同・中門
福王子神社/本殿
同・本殿

◎夫荒社(末社)
 神域内、本殿の左に末社・夫荒社(フコウ)がある。
 当社由緒には、
 「末社・夫荒神は、平安時代毎夏洛北氷室より御所宮中へ氷を献上する習わしあり、氷を運ぶ役夫が、この辺りで疲労のため力尽き息絶ゆ、その霊を祀り、人々の安全を祈願しました」
とあるが、
 古書・雍州府志(1684・江戸前期)には、
 「小祠福王子宮籬内に在り。伝云、古く六月朔日(6月1日・但し旧暦)、丹波国氷室より氷を禁裏に運ぶ。若し遅るれば氷解く、為に其の行(運搬)は疾走也。一役夫茲(ココ)に於いて気息絶えて死す。爾後霊有りて妖怪となる。故に之を祭る、由って夫荒と号す。一説に云ふ、夫荒神は謬伝にして実は摩利支天王(マリシテン)之社也」(漢文意訳)
とある(ネット資料には、当社の創建は延喜12年-912-とあるが、出典資料不明)
福王子神社/末社・夫荒社

 日本書紀・仁徳62年条に、都祁(ツゲ)へ狩りに出かけた額田大中彦皇子が、山中で見つけた氷室に貯蔵されていた氷を天皇に献上したとの記事がある。
 仁徳朝まで遡れるかどうかは疑問だが、古くから、氷室に貯蔵された氷が夏・6月1日(旧暦)に天皇に献上され、天皇は、それを賞味するとともに臣下に下賜する習慣があったという(氷の節句・賜氷の節句という)

 上記の由緒は、この氷運搬の途上で亡くなった人が死亡し怨霊となったので、その霊を祀ったというものだが、怨霊となって祟ったとはいえ、一役夫のそれを神として祀ったというのは疑問で、この由緒は後世の創作との感が強い。

 古くからの祭神が、新しい神の勧請などにより末社に追いやられた事例が多く、根拠のない憶測だが、延暦12年ともいう当社創建時期が福王子社のそれと略同時期であることからみて、福王子神社創建に際して、古くからの式内・深川神社が末社として扱われたもので、その由緒・祭神等が不明であったため、この由緒が作られたのかもしれず、上記・山城国式神考が“フコウはフカカハの訛り”というのも無碍に否定はできない。

 なお、由緒にいう丹波国の氷室とは、現京都府南丹市八木町付近に比定されているが、仁和寺北方の住吉山山中にもあったという。
 また、雍州府志がいうマリシテンとは、インド出自の神で陽炎を神格化したものといわれ、常に太陽の前にいて疾走し、自在の通力を有するとされ、仏教では護法神である天部に属する。
 当社を摩利支天社というのは、この神が常に疾走していることから、それを氷を運ぶ役夫の疾走に重ねたものであろ

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