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市比売神社
京都市下京区河原町五条下ル一筋目西入ル本塩竈町
祭神--多紀理比売命・市杵島比売命・多岐都比売命
・神大市比売命・下光比売命

                                                       2016.10.14参詣

 京阪電鉄・清水五条駅の南西約400m、五条大橋を西へ渡ってすぐの河原町五条交差点を左折(南へ)、河原町通を南下、最初の辻を右折(西へ)してすぐの左側(南側)に、民家に挟まれて朱塗りの楼門がある。式外社。
 当社名は資料には「市姫神社」とするものが多いが、今の当社では社頭の神額・案内の栞などに「市比売神社」とあり、これが正式社名と思われる。

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
[ご鎮座]
 当社のご創建は、桓武天皇の御代、延暦14年(795、平安遷都の翌年)に、京都の左右両市場の守護神として、当時の左大臣・藤原冬嗣公が堀川の西、七条の北(現在の西本願寺)に坊弐町をかこい、勅を奉じて勧請された社です。
 天正19年(1591)豊臣秀吉の時代に、現在の地に移転鎮座されました
[ご由緒]
 古事記『天の真名井宇気比(マナイノウケヒ)の段』、御祭神出生の霊明なる誓約(ウケヒ)の件より、女人守護・市場の交易・商売繁盛を神勅とし、平安時代から皇室・公家・万人の崇敬篤く、御神徳を奉斎したことは史記に多々散見する。
とあり、楼門脇に掲げる案内にも同意文が掲げてある(「京都市中央卸売市場には開設時より当社の末社が祀られている」との加筆がある)

 当社が最初に鎮座した平安京の市場とは、京の東西に設けられた官営市場の東市で、現西本願寺(七条堀川)の辺りにあったという(西市は西大路七条の東北方という)

 当社は平安遷都後の街中に創建されているが、古代の市(市場)はどちらかといえば共同体のはずれに開かれた場合が多く(最初は山麓にあって、山人と里人との物々交換の場だったともいう)、その地は、世俗的な権力・地縁などから縁の切れた無主の地・無縁の地であり、神が支配する地とされていた。

 古代の市について、網野善彦氏はその著「無縁・公界・楽」(1996)で、
 ・市はきわめて古くから河原・中洲・浜・そして山野・坂などに立った
 ・これらの市は、神々と関わる聖域・死者の世界との境界・交易芸能の広場としての性格を持ち
 ・まさしくそこは、神々の世界あるいは冥界との境であり、共同体をこえた境界領域として存在した
 ・人智の及ばない境界の地であることから、そこでは、各地から集まった商人は高声をあげて客を呼ぶことが出来、巡回する芸人達も、死者の霊を鎮める意味を込めて芸能を演じた
 ・加えて、神が支配する聖地・人々が集まる地であるが故に、勧進聖・念仏聖・三昧聖などの宗教者も出入りした
といわれ、当地に市屋道場を設けた空也上人、踊念仏を行った一遍上人もその一人である
という(一部加筆あり)

 市とは、神の支配する聖地、世俗力の及ばない境界の地であったことから、そこに社寺が設けられるのも必然で、当社もそういう由縁から市場の守護神を祀る社として創建されたのであろう。

※祭神
  女神5座--多紀理比売命(タキリヒメ)・市杵島比売命(イチキシマヒメ)・多岐都比売命(タギツヒメ)--(宗像 三女神)
           ・神大市比売命・下光比売命(シタテルヒメ)

*宗像三女神
 多紀理比売神以下の三女神は、アマテラスとスサノオとの天の安川での誓約(ウケヒ)によって成り出た神で、三女神はスサノオの十拳剣を物実(モノザネ)として成り出たことからスサノオの御子とされる(古事記)
 (ウケヒ--ある事柄が「そうならば こうなる、そうでないならば こうなる」とあらかじめ宣言し、どちらが起こるかによって吉兆・正邪・成否を判断した占い)
 この三女神は、筑紫の宗像大社に坐す海の神・航海の神というのが一般の理解だが、山城名勝志(1711)
  「金光寺縁起に云く、東市屋・市姫大明神三座、延暦14年5月7日、相国冬嗣公(藤原冬嗣・775--826)宗像大神を東西市に祭りて守護神となす。因りて市姫と号す。9月7日之を祭る」
とあり、これによれば、当初は市の神として宗像三女神を祀り、他の2神は後世の勧請かとも思われる。

 ただ、海の神・航海の神である宗像三女神を市の神として当社に祀った理由は不明だが、
 市杵島姫が神仏習合によって弁財天(弁才天)と習合していることから(宗像三女神も弁才天も同じ水の神ということでは通底する)、福の神・財の神として祀られたかとも思われる(弁財天信仰は奈良時代には日本に入っていたという)

*神大市比売命
 神大市比売とは山の神・大山咋命(オオヤマクイ)の娘で、スサノオとの間に大年神(オオトシ)・倉稲魂神(ウカノミタマ・稲荷神)を生んだという。
 雍州府志(1980年代中頃)
  「塩竈明神東南御影堂南に在り。俗に伝う素戔鳴尊の婦(神大市比売)也、子二人有り、其の一・大年神(オオトシ)、其の二・倉稲魂神(ウカノミタマ)也。売買のことを守護するの盟い有り。
   桓武天皇延暦13年都を平安城に移し時、この神を七条堀川に勧請す。会日牛日を用ゆ。近世、又今の処に移る。
   一説に云う、市姫明神今其の神体を見るに、即ち鬼子母神(キシモジン)か」
とあり、当社には神大市比売と御子2柱の計3座を祀ったともとれるが、“売買のことを守護する盟あり”というのはわからない。

 山の神とは一義的には山全般の守護神だが、それは水の神でもあり、里の降りては農耕神とも変化する(我が国には、山の神が春、里に下りて農耕を見守り、秋、その豊穣をみて山に帰るとの信仰があった)
 その山の神・大山咋の娘である神大市比売は、当然のこととして農耕神としての神格をもち、その御子・大年神・倉稲魂神もまた農耕神・穀神としての神格をもつ(倉稲魂を稲荷神ともいう)

 市場での主要取引物が農耕生産品(特に米穀)であったことから、その守護神として神大市比売(あるいは御子神を含めた3座)が祀られるのは妥当かと思われる。

 なお、府志は「市姫明神のご神体は鬼子母神か」というが、参詣の栞によれば、当社のご神像は祭神・多紀理比売が御子神・下光比売を抱く姿だという。
 一方、鬼子母神もまた子供を抱く姿として表されることから、ご神体を見誤ったものであろうが、そういうご神体があることは、当社が女性守護の神社であることに繋がるといえる。

*下光比売命
 下光比売(下照比売)とは、出雲の主神・大国主命(スサノオの御子)と三女神の一・多紀理比売との間に生まれた女神で、記紀には国譲りの使者・天稚彦(アメノワカヒコ)の妻とはあるものの、市・市場との関係は見えない。
 ただ、下照比売は安産の神・子育ての神として信仰されていることから(その理由は不詳)、当社では女性の守護神として祀ったのであろう。
 下照比売はいろんな神社でいろんな神格で祀られているが、その奉祀理由がはっきりしないものが多い。

 いずれにしろ、当社祭神はいずれもスサノオに関連する女神であるが、これらの女神が市神として祀られる理由ははっきりしない。

 ただ、今の当社では、参詣の栞・信仰の欄冒頭に
  「女人守護  御祭神は女神様をお祀りしているところから、女性の守り神とされ、良縁・子育て安産にご利益があり、特に“女人厄除け”の神社として厄年を迎えた女性が厄除けを願い、全国から参拝に訪れます」
とあるように、女性守護・女性厄除けというご利益を表に出しており、本来の市の神という神格は裏に隠れてしまっている(境内に市神を示唆する表示は見えないが、参詣の栞には市場守護神として祀られたとする簡単な説明がある)

 参詣した平日の午前10時過ぎ、既に十数人の女性達が参拝していた。
 女性守護といううたい文句に惹かれてのパワースポット巡りだろうが、当社が、元々は市の神を祀る神社であることを知る人は少ないであろう。

※社殿等
 河原町通を西へ入って2軒目、民家に挟まれて朱塗りの楼門があり、楼門の神額には「市比売神社」と、左右のの柱には「女人厄除 市比売神社」・「女人守護 市比売神社」とある。

 境内は、奥行きの深い縦長の境内で、短い参道の先に鳥居が、その奥に本殿(切妻造・平入り、一般家屋と同じ)が鎮座する。


市比売神社・楼門(右は社務所) 
 
同・境内
 
同・鳥居(奥右手が本殿)

同・本殿正面 
 
同・内陣 

◎境内社
  本殿の左奥に「植松稲荷社」、その右(本殿裏手)に「衆霊殿」(祭神:大国主命・花山天皇・恵比須大黒・蛭子神・護国英霊・社家祖霊・崇敬者祖霊)の小祠が鎮座するが、その鎮座由緒は不明。

 
植松稲荷社
 
衆霊殿

◎天之真名井(アメノマナイ)
  本殿の裏、衆霊殿との間に「御神水 天之真名井」と称する井戸があり、参詣の栞には、
  「境内には『天之真名井』と称される井戸があり、古来皇室において皇子・皇女御誕生の折に、この水を産湯に用いられました。
  洛陽の七名水に数えられ、願い事が一つ叶う井戸として多くの人々が日々汲み戴きに訪れています」
とある。

 天之真名井とは、アマテラス・スサノオのウケヒに際して、
  「(それぞれの物実を)ぬなとももゆらに天の真名井に振り濯いで・・・・・」(古事記)
とある井戸のことで、
 神話で、高天原にあるという井戸が地上の当地にあるというのもおかしなことだが、祭神・宗像三女神がウケヒの際に成り出た神であることから、境内にあった井戸に(新たに掘ったか)その名を付けたものであろう。

 今、四方に紙幣を垂らした四角の井戸には蓋がされ、その上に“姫みくじ”と称する真っ赤な姫達摩が山積みされ、そこから突き出た竹筒から苔むした手水槽に水が流れ出ている。
 井戸に汲みあげ装置らしきものが見えないのに、絶え間なく水が流れていることから、水道水を引いたのかもしれない。

 
天之真名井
 
同・手水槽
 
姫みくじ

※金光寺
  当社の西に隣接して「金光寺」と称する小さい寺がある。正式寺名:市中山 最勝王院 金光寺
  入口の山門には柵があり中には入れないため由緒等詳細は不明。

 ネット資料(Wikipedia)によれば
 「時宗十二派のうちの市屋派の本寺。山州名跡志(1711)によれば、承平年間(931--38)、踊念仏の祖とされる空也が、七条堀川小路北西角に建立したのに始まるとされる(市屋道場)
 弘安7年(1284)、一遍上人が各地で踊念仏を行った際、空也の遺蹟である当寺に立ち寄ったことが“一遍聖絵”に見える。
 その時、住職・唐橋法印は一遍に帰依して名を作阿(作阿弥陀仏)と改め、天台宗から時宗に改宗したという。
 又、中世には市姫大明神を祀ったことから(鎮守社だったことを意味する)、市姫金光寺とも称された」(省略あり)
という。

 当寺が古く市場道場と呼ばれたのは、念仏聖と呼ばれた空也上人が、人々が集まる東市で念仏を広めたことによるもので(承平年中・931-38という)、空也の後継者ともいわれる一遍上人の業績を描いた一遍聖絵(弘安9年・1286条)にも
  「其後雲居寺・六波羅蜜寺、次第に巡礼をし給て、空也上人の遺蹟・市屋に道場をしめて、数日をおくり給しに・・・」
とあり、一遍もまた空也の遺蹟・市屋道場で念仏弘布につとめたという(多分、踊念仏をおこなったのであろう)

 当寺は、嘗ては市姫神社とともに七条堀川の東市にあったが、天正年間、豊臣秀吉の命により両社寺共に現在地に移転したといわれ、寺院とその鎮守社の関係にあったらしいが、明治の神仏分離によってそれぞれが独立したと思われる。

 なお、山門に掲げる扁額には
  「日本最初念仏道場 口稱蹄躍場(読みづらく確信なし) 開山空也上人 金光明寺」
とあり、寺名を金光明寺としている。金光寺・金光明寺いずれが正式寺名かは不明。


金光寺・山門
 
同・境内
(樹木が邪魔して本堂等は見えない)

山門に掲げる扁額 

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