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山城(葛野郡)の式内社/櫟谷神社
現社名−−櫟谷宗像神社
京都市西京区嵐山中尾下町
祭神−−奥津嶋姫命・市杵島姫命
                                                                   2012.02.11参詣 

 延喜式神名帳に、『山城国葛野郡 櫟谷神社』とある式内社に、式外・宗像神社を合祀して『櫟谷宗像神社』と称する神社で、松尾大社の境外摂社となっている(明治11年・1878)。社名は“イチイ(ヒ)タニ ムナカタ”と訓む。

 阪急嵐山線の終点・嵐山駅の西約500m、渡月橋の少し西方・桂川右岸に迫る嵐山山麓の高所に鎮座し、眼下に古代の豪族・秦氏が建造した葛野大堰(カドノオオイ)跡との伝承をもつ水利施設・一ノ井堰(イチノイセキ)が見える。

※由緒
 当社の創建由緒等は不詳だが、社前を流れる大堰川(公式名称:桂川、俗に渡月橋付近を大堰川と呼び、上流を保津川・下流を桂川と呼ぶ)が、上流・丹波堺の激しい荒瀬から嵐山付近の緩やかな流れ(トロ場)に変わる処に鎮座することから、大堰川の渡しの神としての土地の神(水の神・舟の神)を祀ったものと推察され、松尾大社(松尾大社編・2007)には、
 「古くから大堰川を望む辺りに櫟谷社が祀られたもので、両社はおそらくその昔、大堰川周辺に生活基盤をもつ氏族が、往来する舟筏の航行の安全を守護する神として祀られてきたものであろう」
とある。

 しかし、今、参道入口脇に立つ由緒案内には、
 「当社は、世人古くより俗に嵐山弁天社と称し、奈良時代大宝年間(701--04)より鎮座されている名社である。
 平安時代、葛野に鋳銭所(今の造幣局)があり、新しい鋳銭は必ず当社に奉納せられたという。
 爾来、福徳財宝の神として人々の尊崇が厚い。また、河海の女神であるところから水難の守護神ともされている」
と、当社のご神徳のみを強調していて、創建由緒・年代などについては記していない。

 当社に関する古史料としては、
 ・続日本後紀(869)−−嘉元年(848・平安前期)11月2日条、山城国無位櫟谷神に従五位下を授す
 ・三代実録(901)−−貞観10年(868)潤12月10日条、山城国従五位下櫟谷神に正五位下を授く
 ・三代実録−−貞観12年(870)11月17日、是日、賀茂御祖社・別雷社・松尾社・・・に葛野の鋳銭所(ジュセンジョ)の新鋳銭を奉る。
           又葛野の鋳銭所に近き宗像・櫟谷・清水・堰(ヰ)・小社(コモリ)の五神に鋳銭所の新鋳銭を奉る
 ・百錬抄(1259頃・鎌倉中期)−−仁治2年(1241)8月7日条、今夜丑刻 櫟谷宗像の両社焼失 御躰同じく焼失 是松尾末社也
 ・百錬抄−−寛元2年(1244)3月26日条、山崩れにより大堰川が塞がれ、宗像社の鏡石が崩れ落ちたとの報告あり
など、櫟谷・宗像2社として記されており、また
 ・松尾神社及び近郷絵図(室町初期)に、櫟谷・宗像の2社が相接しながらも、それぞれ独立した社殿として描かれている
ように、古くは、それぞれが独立した神社で、共に松尾神社の末社であり、松尾七社(松尾・月読・櫟谷・宗像・三宮・衣手・四大神)に列したという(特に松尾・月読・櫟谷社は、松尾三社として山城国一の宮に準じた扱いを受けていたという)
 ただ、宗像社に対する神階授叙記録がみえないことから、当時の朝廷からは、櫟谷社の方がより重視されていたと思われる。

 その2社が現在のような相殿形式となった理由は、その祭神が、共にアマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた女神であることから1社にまとめられたというが、詳細は不明。
 また、その時期も不明だが、江戸中期の資料・山城志(1734)
 「櫟谷神社 上山田村北櫟谷
とあるのをみれば、江戸時代までは別々の神社だったかと思われ、あるいは、当社が松尾大社の摂社となった明治初年の頃かもしれない。

◎葛野大堰(カドノオオイ)
 渡月橋のやや上流に見える堰で、今、「一ノ井堰」と称している。
 堰の傍ら(桂川右岸側)に設けられた案内板には、
 「一ノ井堰(イチノイセキ)は、桂川の水を田畑に送るため、古くは5世紀末に設けられたという農業水利施設です」
とあり、今の施設は昭和26年(1951)に京都府によって整備されたものという。

 今、嵐山・渡月橋付近の桂川は穏やかな流れとなっているが、古代の当川は相当な暴れ川で、それを制したのが秦氏といわれ、秦氏本系帳には
 「葛野の大堰を造りしは、天下に於いて誰ぞ比検すること有らん。これ秦氏の種類(氏族)を率いて催し、之を造り構えしところなり。・・・」
とあり、その時期は5世紀末頃といわれるが、8世紀という資料もある。

葛野大堰(右岸より)

※祭神
 今社頭の案内には、祭神:奥津島姫命(オキツシマヒメ)・市杵島姫命(イチキシマヒメ)とが並記されていて、櫟谷神社・宗像神社のいずれに、どの女神を当てているのか不明。

 松尾大社略記(1975)および松尾大社(大社編・2007)には
   櫟谷神社−−オキツシマヒメ(亦名:田心姫・タコリヒメ
   宗像神社−−イチキシマヒメ
とあるが、松尾社譜(年代不明)および神社明細帳(1876・1883)には
   櫟谷神社−−イチキシマヒメ
   宗像神社−−オキツシマヒメ
と逆になっている。
 この両女神の出自・神格が同じであるため、どちらが正しいとも判断できないが、松尾大社の祭神にイチキシマヒメがあることからみて、
 「櫟谷神社の祭神はイチキシマヒメとするのが正しいと思われる」(式内社調査報告・1979)
というのが妥当かと思われる。

 この両女神は、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた所謂・宗像三女神のなかの2柱で、古事記・書紀本文・同一書によって、その成りでた順番・神名などに多少の異同もあるがが、古事記によれば、
 「(アマテラスとスサノヲのウケヒに際して)まずアマテラスが、スサノヲが帯びる十拳剣を3つに折り、天の真名井の水を振り濯いで噛み砕き、吐き出す息の霧から成り出た神の御名は、
 ・まず多紀理比売命(タキリヒメ)、亦の名は奥津島比売命(オキツシマヒメ)−−宗像神社の沖つ島に坐す
 ・次ぎに市杵島比売命(イチキシマヒメ)、亦の名は狹依比売命(サヨリヒメ)−−宗像神社の中つ島に坐す
 ・次ぎに多岐津比売命(タキツヒメ)−−宗像神社の辺つ宮に坐す
 この三柱の神は、宗像君等が奉祀する三座の大神である」(大意)
とあり、いずれも海上交通(特に朝鮮半島への航路)を守護する海の神とされる。

 これらのことから、大堰川の畔にある当社が、大堰川(桂川)を往来する舟行の安全を守護する神として、松尾神社に祀られているイチキシマヒメを勧請したとも解されるが、勧請以前から奉祀されていた本来の祭神は自然神としての水神であって、“松尾の神同様、嵐山に坐す櫟谷に対する土着神信仰は、はるかにそれ以前からあったと考えてよかろう”という(式内社調査報告)

 今、社頭の案内には、
 ・世人古くより俗に嵐山弁天社と称し、・・・福徳財宝の神として・・・
 ・また、河海の女神であるところから水難の守護神ともされている
とある。後段の河海の女神というのは、祭神本来の神格からくるものだが、前段の弁天社云々というのは、イチキシマヒメが七福神の一・弁財天と習合したことからの俗説。

※社殿等
 大堰川(桂川)沿いの道路脇に「縁結び 金運 水難除 櫟谷宗像神社 松尾大社摂社 嵐山の弁天さん」との看板が立つ。
 石段を登り朱塗りの灯籠が並ぶ参道を登った上、朱塗りの瑞垣に囲まれた神域内に本殿(二間社流造・銅板葺)が大堰川に向かって鎮座する。
 社殿左・社務所(無人)の脇にモンキーセンターへの入口(券売所)がある。

櫟谷宗像神社/参道入口
櫟谷宗像神社・参道入口
櫟谷宗像神社/参道
同・参道
櫟谷宗像神社/社殿正面
同・社殿正面
櫟谷宗像神社/本殿
同・本殿
櫟谷宗像神社/本殿正面
同・本殿正面(左:宗像社、右:櫟谷社)

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