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新日吉神社
京都市東山区妙法院前側町
祭神--後白河天皇・大山咋命・妃神賀茂玉依姫命・大己貴命 
     ・田心比売命・菊理比売命・大山咋荒御魂・賀茂玉依姫荒御魂

相殿神--素戔鳴尊・大年命
                                                            2016.10.07参詣

 京阪電鉄・七条駅の東約800m、駅から七条通を東進、東山七条交差点(三叉路、正面は智積院)を左折(北へ)、智積院境内西端の角(案内板あり)を右折(東へ)、直進した先に大鳥居が立つ。
 社名・新日吉は“イマヒエ”と読む。

※由緒
 東大路通から当社への角に掲げる案内には、
  「永暦元年(1160)、後白河法皇が、その御所・法住寺内に比叡山東坂本の日吉山王七社を勧請したのが当社の始まりである。
 祭神として、後白河法皇のほか、皇居守護神・山王七柱を祀り、酒造・医薬・縁結びの神として信仰を集めている。

 当初は智積院南側に創建されたが、元和元年(1615)、豊国廟社の破毀とともに旧廟前に移り、更に明治30年(1897)にこの地に移った。

 社殿は応仁の兵火で焼け、その後しばしば増改築が行われたが、現在の本社は天保6年(1835)の改造で、大きな流造である」
とあり、社務所で配布されている参詣の栞には、
  「後白河天皇は、保元3年(1158)に上皇となられましたが、院の御所を法住寺にお定めになりますと、まず法住寺内に、皇居の守護神山王七社の神々を、比叡山東坂本の日吉大社から迎えてお祀りになりました。永暦元年10月16日のことです」
とある。

 後白河法皇が日吉山王を己の御所・法成寺殿内に勧請したことについて、日本の神々5(1986)
 鎌倉中期の古書・百練抄(1259頃)
 ・永暦元年3月25日 上皇始めて日吉社に参籠、御退位の後、始めての神社への御幸也、平治逆乱の時、御願有之故也
 ・同年6月21日 洪水、日吉社二宮・十禅師・宝殿、山上大水出来て之を埋め奉る
 ・同年10月12日 延暦寺大衆、日吉神輿を奉じて参洛、
 ・同年10月16日、(新熊野神社の創建と同時に)日吉御躰を東山新宮に移し奉る。上皇御願也--当社の創建
とあることから、
 「この時期の法皇は、よきにつけあしきにつけ日吉社の神威が問題となる状況が発生していたのであり、法住寺殿への日吉神の勧請は、このような事情を直接の契機として実施されたものであろう」
という。

 平安京北東方の鬼門守護の寺である延暦寺の鎮守社・日吉大社の祭神を、新たに設けた上皇御所の守護神として勧請したのだろうが、ことある毎に日吉社の神輿を担いで洛中に乱入する比叡山の山法師等を押さえる意味のあったかと思われる。

 当社創建時の鎮座地について、案内は「智積院南側」、参詣の栞は「法住寺内で、東山瓦坂の辺り」という。

 ネット資料“法住寺殿の成立と展開”に載る推定図(発掘調査によるもの。右図・加筆あり)をみると、七条通りの南側に、
 ・蓮華王院(三十三間堂)の東側(赤十字京都支社・ハイアットリーシ゜ェンシーH付近)に法住寺殿が
 ・その南の一画に新日吉神社(疑問符?付き)(▲印)
 ・その南の一画に新熊野神社が(▲印)(現新熊野神社●の位置と略重なるが、規模は小さくなっている)
あったと推定されており、これからみると
 創建時の新日吉神社は、現新熊野神社・JR線の北、本瓦町の辺りにあったかと思われる(智積院の西南方)

法住寺殿推定図

 創建時の当社について、参詣の栞には
 ・神殿は西面し、内陣に七つの神座が一間ずつ御扉を備え、神殿の前方に拝殿、後門に東門が建てられ、廻廊がめぐらされて壮麗を極めていました。
 ・室町時代中頃の応仁・文明の役(15世紀後半)などの度重なる戦火に見舞われ、更に戦国の世の乱れに伴って、諸国数十ヶ所に及んでいた社領地も次第におかされ、社殿その他の建造物も中絶しました。
とあるが、室町末期から戦国時代にかけての状況は、資料見当たらずはっきりしないが、規模を縮小して存続していたらしい。

 その後の当社は豊臣・徳川の抗争に翻弄されたようで、
 ・文禄4年(1595)--豊臣秀吉建立の方広寺大仏殿境内に取り込まれた
 ・慶長3年(1598)--豊臣秀吉逝去、方広寺東の油峰中腹(阿弥陀ヶ峰、当社大鳥居左の道を東へ進んだ先)
               秀吉を葬る豊国廟社造営。
 ・元和元年(1615)--大阪の役後、徳川政権による豊国廟社破毀に伴い、旧豊国廟社前に遷座させられる
               (廟社への参道を塞ぐ形に社殿が造営されたという)
 ・明治30年(1897)--秀吉300年忌を契機に、阿弥陀ヶ峰山頂に五輪塔を造営、中腹に豊国廟社再建
               これに伴い、参道を塞いでいた当社を現在地へ移転・遷座
という。

※祭神
 当社祭神は、後白河法皇と日吉山王七社の神々を祀るが、その神々を日吉大社と対応すれば次のようになる([ ]は本地仏)。
 *後白河法皇--昭和33年、法住寺御陵から勧請
 *山王七社
   大己貴命(オオナムチ・大国主の別名)--西本宮祭神 [釈迦如来]
   大山咋命(オオヤマクイ・山の神)--東本宮祭神 [薬師如来]
   田心姫神(タコリヒメ・宗像三女神の一)--摂社・宇佐宮祭神、聖真子ともいう [阿弥陀如来]
   大山咋神荒魂--摂社・牛尾社祭神、八王子ともいう [千手観音]
   白山姫神--摂社・白山社祭神、客人ともいう [十一面観音]
   賀茂玉依姫神--摂社・樹下社祭神、十禅師ともいう [地蔵菩薩]
   賀茂玉依姫荒魂--摂社・三宮社祭神、三宮ともいう [普賢菩薩]
 *相殿神
   素戔鳴尊--大山咋命の祖父神
   大年命(オオトシ)--大山咋命の父神 (いずれも古事記による)

※社殿等
 東大路通から当社参道(京都女子大への一般道)を入った先に大鳥居が立ち、その右、少し入って二の鳥居が立つ。
 二ノ鳥居のすぐ後ろに朱塗りの楼門(入母屋造・瓦葺・重層)が建ち、境内に入る。


新日吉神社・大鳥居 

同・二の鳥居 

同・楼門 

 境内正面に拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥が本殿域で、 大きな唐破風を有する拝所(銅板葺)から左右に延びる透塀に囲まれた中に本殿(一間向拝付きの流造・銅板葺)が鎮座する。


同・拝殿 
 
同・拝殿(側面)
 
同・本殿(拝所正面)
 
同・本殿(拝所)

同・本殿 

◎境内社
 本殿域の右後ろに社殿2宇が建つ。左:豊国社・右:愛宕社・秋葉社合祀殿

*豊国社
  参詣の栞には、
   「旧豊国廟社が取りこぼたれる時、豊公の神体を日吉の樹下社に因ませて、新日吉の社に遷しおさめられましたが、
    天明5年(1785)に改めて境内樹下神社を造営して、豊公のための社殿とされました。これが現在の豊国社です」
とある。

 当社は樹下社(コノモトノヤシロ)とも称しているようで、社前に掲げる案内・「樹下社(現豊国神社)の由来」によれば、
 ・桃山時代に、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営したが、その境内は三十三間堂を含む広大な範囲であった
 ・慶長3年(1597)秀吉逝去、方広寺東の油ガ峰(阿弥陀ヶ峰)に墓所(豊国廟社)が設けられた。
 ・元和元年(1615)、徳川幕府によって豊国廟所の廃止が決定され、妙法院門跡・智積院・新日吉社は豊国廟前に移された。
 ・この時、豊国社のご神体は密かに新日吉社神殿に遷された。
 ・天明5年(1785)、境内社として樹下社(コノモトノヤシロ)を造営し豊公の社殿とした。
 ・これは、社名・樹下(コノモト)を“キノシタ”と読んで秀吉の旧姓・木下に通わせて、豊公の御魂を隠し祀ったものという(大略)
 ・明治30年(1897)、秀吉ゆかりの旧大名家が豊国廟の復興を図り、旧廟前にあった新日吉社を南西方向の現在地に遷座した。
 ・これに合わせて、新日吉社境内社であった豊国社(樹下社)も現在地に遷座した
とあり、この経緯は新日吉神社の変遷にも関係するものである。


豊国社・鳥居 
 
同・社殿正面
 
同・社殿

 日吉大社の摂社・樹下社は、祭神を賀茂玉依姫御神とするように、秀吉とは無関係だが、徳川幕府治世下の当社は、豊国社を樹下社と称することで幕府の眼を逃れていたと思われる。

*愛宕社・秋葉社合祀殿
 豊国社の右に鎮座する小社で、参詣の栞には、
  「後白河法皇が、法住寺御所と御所内の社寺の火除けのために祀られた。今も火伏せの信仰が篤いお社です」
とある。

 
愛宕秋葉合祀殿・鳥居
 
同・社殿 

※飛梅八幡宮

 境内左手に鎮座する小祠(右写真)
 社頭に掲げる案内には、
  「飛梅八幡宮 (後白河天皇御創祀)
    祭神--菅原道真公
          菅公遺愛の飛梅の霊
 永暦元年、後白河天皇により、菅公の御魂・天満大自在天神と、飛梅の霊を祀る」
とあり、参詣の栞には
 「後白河法皇が、菅公遺愛の飛梅の霊を、菅公の神霊と共にお祀りになったところで、洛陽25社天満宮の随一に挙げられています」
とある。   

 また、二ノ鳥居の左に、樹木に囲まれて稲荷社(山口稲荷大明神)があるが、参詣の栞に見えないことから当社との関係はないらしい。

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