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新熊野神社
京都市東山区今熊野椥ノ森町
祭神--熊野権現13座
                                                              2016.10.07参詣

 京阪電鉄・七条駅の南東約750m、駅から七条通を東進、東山七条交差点を右折(南へ)して東大路通を南下し、JR線路(道路の下をくぐる)を越えてすぐの右側(西側)に鎮座する。歩道まで被さるように茂る樟の大木が目印。
 社名・新熊野は“イマクマノ”と読む。

※由緒
 頂いた参詣の栞によれば、
  「当社は、熊野信仰の盛んな平安時代末期、永禄元年(1160)、後白河法皇によって創建された神社です。
 後白河法皇は久寿2年(1155)に即位され保元3年(1158)に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときお住まいになったのが現在の三十三間堂の東側にある“法住寺”で、当時は『法住寺殿』と呼ばれました。
 その鎮守社として創建されたのが新熊野神社、鎮守寺として創建されたのが三十三間堂です。

 法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されましたが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行ってはおられません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、長らく京における熊野信仰の中心地として栄えました。
 当社が『新熊野』と書いて『いまくまの』と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。

 当社はその後、350年間に渡って繁栄を極めましたが、応仁の乱(1467--77)以降、度々の戦火に見舞われ(1470焼失)、その後120年間は廃絶同様の状態になってしまいました。
 それを再建されたのが、江戸時代初期(寛文6年-1666)、後水尾天皇(1611--29)の中宮・東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1673)聖護院宮道寛親王(後水尾天皇の皇子)により造営されました」
とある。

 当社創建年次について、鎌倉中期の古書・百練抄(1259頃)
  「永暦元年10月12日、熊野御躰を新造社壇に移し奉る、今熊野是也、上皇(法皇)の御願也」
とあり、後白河法皇の勅願によるという(同じ年に新日吉神社も創建されている)

 伝承によれば、その時、那智の土砂をわざわざ運んできたといわれ、境内の案内には
  「当社勧請の砌、上皇の命を受けた平清盛は、熊野の土砂や材木を用いて社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷いて霊地熊野を再現したとされる」
とあり、古書・雍州府志(1680年代)には
  「新熊野村に在り、後白河法皇甚だ紀州熊野権現を尊崇し給ひ33度の御幸有り。其の後行程の迂遠なるを厭ひ、永暦年中此の地に勧請給ふ。即ち那智の土沙を以て此の地を築き、故に新熊野と号す。今、地を掘れば、紀州海浜に在る所の青石出ず」
とあるといわれ、
 その時、後西天皇(ゴサイ・1654--63、後水御天皇の3代後)・後水尾・明正両上皇から金弊を賜り、再建奉行を本山派修験道を統帥する聖護院の先達・勝仙院晃玄が勤めたことから、勝仙院(聖護院に次ぐ寺格をもつ寺、後に住心院と改称)が当社の別当寺(神宮寺)として当社一切を管掌したという。(以上、日本の神々5・1986) 

※祭神
 由緒にあるように、当社祭神は熊野三山の神々13柱(通常は、瀧宮を外して熊野十二社権現という)を勧請したものだが、末社・樟社のみは異なっている([ ]内は本地仏)

 当社祭神13柱は以下の通り。
 本 殿  熊野牟須美大神(クマノムスヒ・別名:伊弉冉尊-イザナミ)--熊野那智大社の主祭神 [千手観音]
 上 社  速玉之男大神(ハヤタマノオ・別名:伊弉諾尊-イザナギ)--熊野速玉大社(新宮)の主祭神 [薬師如来]
       熊野家津御子大神(クマノケツミコ・別名:素戔鳴尊-スサノオ)--熊野本宮大社の主祭神 [阿弥陀如来]
 若宮社  天照大神(アマテラス)--熊野の摂社:五所王子・若宮の祭神 [十一面観音]
 中四社  天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)--五所王子・禅師宮の祭神 [地蔵菩薩]
       瓊々杵尊(ニニギ)--五所王子・聖宮の祭神 [龍樹菩薩]
       彦火火出見尊(ヒコホホデミ)--五所王子・児宮の祭神 [如意輪観音]
       鵜茅草葺不合命(ウガヤフキアヘズ)--五所王子・子守社の祭神 [聖観音]
 下四社  稚産霊神(ワクムスヒ・穀物の神)--熊野の末社:四所明神・米持宮の祭神 [釈迦如来]
       軻遇突智神(カグツチ・火の神)--四所明神・一万宮十万宮の祭神 [文殊菩薩・普賢菩薩]
       埴山姫神(ハニヤマヒメ・土の神)--四所明神・勧請宮の祭神 [毘沙門天]
       彌都波能売神(ミズハノメ・水の神)--四所明神・飛行宮の祭神 [不動明王]
 樟 宮  樟大権現 [弁財天]--熊野では、別宮として瀧宮:飛龍権現(那智の滝を神格化したもの)を祀る

 熊野三山は、本宮・新宮・那智各社が、それぞれの主神(本宮:家津御子大神・新宮:速玉大神・那智:牟須美大神)を中心として12柱(那智は瀧宮を加えて13柱)の神々を祀っているが、当社が、本殿に牟須美大神を祀り、総数13柱であることからみて、那智大社を勧請したものと思われる。

 ただ、当社祭神名のうち、本殿・上社の3座は熊野牟須美大神など熊野での神名を用いてはいるが、若宮社以下は記紀神話に出てくる神名で呼んでいる(本殿・上社は別名として記す)
 熊野の神々として記紀神話の神々が定着したのは鎌倉時代以降といわれ、平安末期といわれる当社創建時に記紀神話の神々として認識されていたかどうかは不明。

 加えて、後白河法皇以下多くの人々が熊野に詣でたのは、祀られる神々が家津御子大神以下の難しい名前の神々というより、神が習合した本地仏の名で親しまれ、特に
  本宮本地仏・阿弥陀如来--来世を救済してくれる仏
  新宮本地仏・薬師如来、那智本地仏・観音菩薩--現世における救済(現世利益)をもたらしてくれる仏
として信仰されていたといわれ、これを現当二世(ゲントウニセ)の救済という(現:現世、当:来世)

 これらからみて、後白河法皇は現当二世の救済者としての熊野三山の神々(本地仏)を勧請したとみることもできる。

 また、摂社・若宮社の祭神を天照大神とする。
 若宮とは、荒々しく猛々しい働きをもつ神霊・荒魂のことで特定の名を持つ神ではなく、後に修験道と習合して山伏や行者の守護神として崇敬されるようになったという。
 ただ、若宮の“若”は“御子”を意味するとして主祭神の御子とされる場合も多く(例えば、石清水八幡宮の若宮社は主祭神・応神天皇の御子・仁徳天皇を祀る)、熊野では、新宮・那智の祭神をイザナギ・イザナミとすることから、若宮社の祭神は両神の御子・アマテラスとされ、当社もそれを踏襲したもので、若宮=アマテラスとする必然性はない。

 当社祭神について、参詣の栞は
 ・我が国には八百万の神々といって多数の神が居られますが、大きく分けると自然神(自然そのものが神)と祖先神(祖先の御霊が神)の二つに分類されます。
 ・若宮社に祀られている皇祖天照大神と、中四社に祀られている忍穂耳命以下の神々は祖先神で、
 ・下四社には火の神・土の神・水の神・食物の神といった自然神が祀られています
という。

◎熊野八葉曼荼羅

 拝殿の右前に「熊野八葉曼荼羅」との曼荼羅図が掲げてある(右写真)
 当曼荼羅は、熊野に坐す神々をその本地仏の姿で描いたもので、
 ・八葉(蓮の花を意味する)の中央に、主祭神・熊野牟須美大神の本地仏・千手観音を、
 ・その周り・八葉の中に、上社祭神以下の本地仏8座を描き、
 ・下部に下四社および樟社の神々の本地仏5座が描かれ、
 ・上部には、当社内にある京の熊野古道に対応する王子らが描かれている。

 傍らの案内には、
 ・神は姿形がありません。従って、神は仏でしか描けないのです
 ・この曼荼羅は、熊野本宮八葉曼荼羅をもとにしたもので、この曼荼羅に描かれた世界が、境内全体を使って立体的に構成されており、このような表現方法を立体曼荼羅といいます
とある(大意)

 この曼荼羅図は、熊野本宮八葉曼荼羅を模したものといわれ、全体の構成は同じだが、本地仏の配置、八葉の上部・下部の描き方などの細部は異なっている。 

 立体曼荼羅とは「羯磨曼荼羅」(カツママンダラ)とも呼ばれるもので、平面的に描かれた曼荼羅を、仏像などを使ってよりリアル・立体的に表現したもので、京都・東寺本堂の仏像群が立体曼荼羅であるとして有名。
 当社でいう立体曼荼羅とは、仏像ではなく、曼荼羅の世界を社殿の配置で表現しているといえる。

※社殿等
 当社社殿は下図のように配置されている。

 
社殿配置図
 
社殿配置・模型

 東大路通西側に立つ鳥居を入ると、右手中央に拝殿(入母屋造・瓦葺)が建ち、その右(北側)には本殿(入母屋造・瓦葺)が、いずれも南面して鎮座する。


新熊野神社・鳥居 
 
同・拝殿(正面)

同・拝殿(側面) 

 現本殿について、社頭の案内には、
 「嘗ての社域は広壮、社殿は荘厳を極めたが、応仁の乱で荒廃し、現本殿(市指定有形文化財、昭和59年指定)は寛文13年(1673・江戸前期)に聖護院の道寛親王によって再建されたものである。
 この本殿は、構造形式・平面構造共に熊野本宮・証誠殿と同じで、全国的にみても又京都においても他に類例が少なく、証誠殿より古いことからも、熊野造の古制をよく伝える貴重な遺構である」
とある。
  社殿  間口一間・奥行三間の入母屋造・妻入り・一間の向拝付き(春日造・熊野造ともいう)、銅板葺

 
同・本殿(正面向拝部)

同・本殿(側面)
 
春日造・構造

 社殿の左右の低い石垣を積んで一段高くなった上に、
  社殿右側--左:若宮社・右:下四宮の2社が鎮座。
  社殿左側--右:中四宮・左:上社の2社が鎮座する。
 いずれも白木造・銅板葺で、まだ新しい。

 
左:若宮社・右:下四社
 
若宮社
 
下四社

上社
左:熊野速玉社・右:熊野本宮 
 
中四社
 

 本殿および左右4社の背後は一段と高く、「京の熊野古道」と称して、熊野三山・熊野古道に関係する模型が点在している。
 熊野三山・花の窟・文覚荒行・八咫烏等々、それなりの要所は押さえてはあるが、神社としては違和感がある。。

 
那智の滝
 
稲葉王子
 
発心門王子・滝尻王子
 
八咫烏

※影向(ヨウゴウ)の大樟
 境内の東南隅(鳥居の左側)、白壁に囲まれた中に樟の巨木が鳥居・歩道を覆うほど亭々と枝葉を張っている。
 影向の大樟と称する巨木で、当社創建の折、熊野から移植した後白河上皇お手植えの神木といわれ、樹齢:推定900年。
 白壁中央、注連縄を張った棟門には「樟龍弁財天」(弁財天の化身の意)の提灯が下がり、
 門から望む大樟には注連縄が張られ、「いまくま野大権現」と刻した石柱が立つ。


影向の大樟 
 
同 左
 
樟龍弁財天・棟門

※能楽発祥の地
 境内右手に、大きな自然石に「能」と刻した石碑、その右に「今熊野猿楽図」との石版がある(昭和55年設置)
 参詣の栞には、
  「当社は能楽の大成者・世阿弥が、まだ藤若丸と称していた頃、父の観阿弥清次と共に大和猿楽の一座・結崎座を率い、世に『今熊野猿楽』と呼ばれ勧進興行を行ったところで、それを見物していた室町幕府第三代将軍・足利義満が、その至芸に感激、二人を同朋衆に加え、父子をそれぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた機縁の地です。
 時の将軍の支援を受けた世阿弥は、猿楽の芸術性を高めるため日夜研鑽に努め、これを今日の能楽を大成させた」
とある。
 能楽○○座発祥の地と称する神社は各地にみられるが、当社は結崎座(後の観世座)発祥の地というより、猿楽能(今の能楽)が足利将軍に見いだされる契機となったという意味での発祥の地であろう。


中央に「能」と刻した石碑
 
今熊野猿楽図

 能楽の大成者・世阿弥(1363--?)は、それまでの物まねを主とした猿楽をストーリーをもつ劇形式に変形した大和・結崎座の統率者・観阿弥(1333--84)の長男で、歌・連歌・鞠にも堪能な美少年だったという。
 その世阿弥が12歳の時(1375)、父・観阿弥と共に当社で興行した猿楽能を鑑賞し、その至芸に感動した3代将軍・足利義満が、観阿弥とともに少年・世阿弥を引き立て寵愛したのが猿楽能が上層階級に広がった契機で、その後、義満の支援と世阿弥の研鑽努力によって大成し、現代まで引き継がれる能楽へと発展したという。
 義満が世阿弥を寵愛した有様について、二条良基から藤若の名を与えられた世阿弥を、祇園会の桟敷に伺候させて盃を与え、公家の顰蹙(ヒンシュク)を買うほどであったという(風姿花伝三道・解説・2009)

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